第23話:お化けの相手は【僧侶】の見せ場
第二十層へと続く階段を下りきった瞬間、肌を刺す空気が一変した。
冷たい――というより、温度そのものの概念が曖昧になるような不気味な感覚。 肺に吸い込む空気はどこか遠く、呼吸をしているはずなのに酸素が染み込んでこないような、薄ら寒い虚無感が支配している。
「……嫌な気配ね。今までとは空気が違うわ」
フィリアが肩をすくめ、杖を強く握り直した。
通路はこれまでより広く、かつては何らかの儀式場だったのか、壁面には朽ち果てた装飾の跡がある。床に刻まれた古い紋様は、数多の冒険者に踏み荒らされ、意味を失った記号のように摩耗していた。
――ここから先は、戻れなかった者たちの領域。 そんな無言の圧力が、空間そのものから滲み出している。
「……罠は、減ってる」
先頭を行くシャオが、音もなく足を止めた。
「代わりに……“実体のない敵”の密度が上がった」
彼の視線の先。何もないはずの空間が、陽炎のように僅かに歪んでいる。 風もないのに、そこだけが澱んでいるのだ。やがて、その澱みは人の形を成していく。 透けた腕、虚ろな眼窩。足は床に触れず、光を透過して影すら落とさない。
「……死霊」
フィリアが小さく息を呑む。
「情報通りね。第二十層からの主役ってわけ」
「物理攻撃は、九割方無効です。皆さん、下がってください」
セラフィーナの声は、驚くほど冷静だった。まるで、この光景をあらかじめ視ていたかのような落ち着きだ。
だが、その忠告が届くより早く――。
「関係ないニャ! 叩けば霧散するはずニャッ!!」
クレハが躊躇なく跳びかかった。 獣人特有の瞬発力。両拳に「気」を凝縮させ、爆発的な踏み込みから放たれる渾身の一撃。
しかし。
「……え?」
拳は、抵抗なく霊体をすり抜けた。 まるで見当違いの空気を殴ったかのような、虚しい手応え。
次の瞬間、レイスの半透明の腕が伸びた。 触れた箇所から魂まで凍りつくような冷気が、クレハの肩を掠める。
「ひゃっ!? つ、冷たっ……! 何ニャこれ!?」
反射的に後退するクレハ。その表情には、今まで見せたことのない困惑と恐怖が混じっていた。 「気」を乗せた拳すら通じない敵。それは、彼女のこれまでの戦闘経験を根底から覆す存在なのだろう。
「下がって、クレハ! 霊体に深追いは禁物だ!」
俺が前に出て盾を構える。だが、物理的な質量を持たない相手では、この大盾もただの置物に近い。
――その時だった。
「《聖光照射》!」
セラフィーナの凛とした声が通路に響き渡った。 彼女の杖から放たれた一直線の白光が、レイスの胸部を正確に貫く。 悲鳴とも風鳴りともつかない不気味な絶叫を上げ、霊体が激しく身悶えした。
「効いてる……! さすがセラフィーナね!」
フィリアが即座に追撃の魔法を重ねる。
「《浄化の炎》!」
淡い白金色の炎が重なり、レイスを包み込む。 物理攻撃では一切崩れなかったその輪郭が、聖なる炎に焼かれ、みるみるうちに薄れていく。 数秒後、レイスは霧が晴れるように、その場から完全に消滅した。
静寂が戻る。
「……終わり、ですわね」
セラフィーナは静かに杖を下ろし、周囲の残穢を確認した。 次の気配がないことを確かめてから、ようやく深く息を整える。その一連の動作に、迷いは微塵もなかった。
「……なんか」
自分の拳をじっと見つめたまま、クレハがぽつりと呟いた。
「……完全に、負けた気分ニャ」
悔しさと、どうしようもない無力感。いつも自信満々な彼女の肩が、少しだけ小さく見えた。
「気になさらないで。こういう相手を鎮めるのは、僧侶である私の領分ですから」
セラフィーナは、彼女を責めることなく静かに言葉を返した。
「貴方は近接戦における我がパーティーの要。そして、私が霊体系の処理を担当する。ただそれだけの役割分担ですわ」
一瞬、クレハは何か言い返そうと口を開きかけたが――。 自分を守ってくれた背中を思い出したのか、ふっと毒気を抜かれたように息を吐いた。
「……ニャ。……まあ、今は任せてやるニャ」
不服そうではあるが、その尻尾は納得を示すようにゆっくりと左右に揺れている。
「よろしい。役割を果たし、互いを補う。これこそがパーティーというものですわ」
セラフィーナが優しく微笑み、再び歩き出す。
シャオが先頭に戻り、クレハは一歩後ろで、今度は冷静に拳を握り直した。
第二十層。ここからは、ただの剛力だけでは道は拓けない。 だが、それを支え、導く仲間が、今の俺たちには揃っている。
俺たちは静かに、迷宮のさらに深い闇へと足を進めた。




