第22話:粘液の壁と【武闘家】の意地
第二十層へと続く階段まで、あとわずか――。 その通路に足を踏み入れた瞬間、俺たちは異様な違和感に気づいた。
「……これは、地下水脈の漏れか?」
壁と床が、ぬらりと湿っている。通常の湿気にしては量が多く、何よりこの粘液……酷く生臭い。
「粘菌型の魔物……スライム系の分泌物かしら。でも、この量は異常よ」
フィリアが眉をひそめ、慎重に杖を構えた。その直後だった。
――ドロッ。
通路の奥から、闇を押し出すようにして巨大な塊が姿を現した。 半透明のゼリー状物体。人間大どころではない。天井を舐め、通路の幅一杯に広がるその巨体は、まるで溶けかかったガラスの壁そのものだった。
「チッ、大型のグレート・ウーズか」
スライムは雑魚の代名詞のように語られるが、その個体差は激しい。目の前のそれは、物理耐性と再生能力に特化した、前衛泣かせの難敵だ。
「どうする、アル――」
俺が指示を仰ごうとした瞬間、横から烈風が吹き抜けた。
「ニャッ――はぁッ!!」
獣人の少女――先日、俺たちの横を通り過ぎた“あの武闘家”だ。 両拳に高密度の「気」を纏い、地響きを鳴らして飛びかかる。
「烈爪拳――穿ッ!!」
鼓膜を振るわせる轟音。 拳は確かに、スライムの核を狙って深く突き刺さった。
だが――。
「……っ! 抜けないニャ!?」
弾かれてはいない。だが、貫通もしていない。 彼女の強力な打撃そのものが、粘り気のある体内に深々と飲み込まれ、威力を霧散させられている。
「くっ……!」
少女は即座に身を引こうとしたが、すでに長時間連戦を続けていたのだろう。着地の足元が僅かに、だが致命的に揺らぐ。
「加勢するぞ、陣形を維持しろ!」
「余計なお世話ニャッ!! ウチひとりで十分だニャ!」
俺の叫びに、彼女は鋭い視線を跳ね返してきた。だが――。
「ニャ……っ!? ちょっ、放すニャ!」
絡みつく粘体が、逃がすまいと彼女の細い手足を包み込んだ。 液体でも固体でもない異様な弾力。衣服を侵食し、肌へと容赦なく貼りついていく。
「な、ななな……変なトコ触んなニャァーッ!!」
悲鳴。 粘着質で不快な液体が、少女の肢体を容赦なく締め上げていく。 執拗に這い回る粘体の感触に、クレハは顔を真っ赤にして必死にもがくが、その姿は本人の焦りとは裏腹に、どこか扇情的ですらあった。
(助けに入るなら、今だな)
俺が盾を構えて踏み出しかけた、その瞬間。 少女の黄金色の瞳が、爆発的な輝きを放った。
「舐めるなよ……雑魚がぁ!! ――《獣王憑依》!!」
金色の毛並みが一斉に逆立ち、彼女から放たれるプレッシャーが跳ね上がる。 四肢に人知を超えた剛力が満ち、全身を覆っていた粘体を一気に弾き飛ばした。
「終わりニャ――ッ! 獣牙神炎拳!!」
灼熱の気を纏った拳が、一直線にスライムの核を貫いた。 刹那、ゼリー状の巨体は内側から蒸発するように焼き尽くされ、光の塵となって霧散した。
「……はぁ……はぁ……」
少女は膝に手をつき、荒い息を吐く。 一撃の威力は凄まじいが、消耗もまた激しいようだ。
「大丈夫か? 無茶をする」
アルフレッドが歩み寄ると、彼女は反射的に距離を取った。
「……別に。余裕だったニャ。ウチの敵じゃなかったニャ」
足取りはやや不安定だが、それでも負けじと胸を張る。
「怪我をしているようです。少しだけ、治療をさせていただけませんか?」
セラフィーナが慈愛に満ちた声で近づく。 クレハは一瞬警戒したが、ふいっと鼻を鳴らした。
「……勝手にするニャ。別に感謝はしないけどニャ」
聖浄の光が、彼女の擦り傷や打撲を癒していく。その合間に、俺は冷静に問いを投げた。
「……この先も、一人で行くつもりか?」
「当たり前ニャ。ひとりでここまで来れたんだから、この先も大丈夫に決まってるニャ」
「だが、この先――第二十層からは“霊体系”の魔物が出る。レイスやスペクター、物理が一切通らない連中だ」
その瞬間、少女の動きが凍りついた。 尻尾がピンと真っ直ぐに伸び、耳が激しく痙攣するように跳ねる。
「……レ……」
「……イ……ス……?」
明らかに、様子がおかしい。 みるみるうちに冷や汗を浮かべ始めた彼女を見て、セラフィーナがくすりと口元を隠した。
「どうやら、意外な天敵がいらっしゃるようですね」
「……そ、そんなこと……! こ、怖くなんかないニャッ! 叩けば死ぬニャ!」
「幽霊は、いくら叩いても死なないぞ。だが、俺たちの仲間になれば話は別だ」
アルフレッドが、そっと手を差し伸べた。
「君の拳と、僕たちの魔法や聖術。合わせれば、もっと“先”へ行ける。……どうかな?」
数秒の沈黙。 やがてクレハはじっと俺たちを見つめ、不機嫌そうに尻尾を大きく振る。
「……ま、そこまで言うなら、しばらく付き合ってやるニャ」
渋々の口調とは裏腹に、耳の先が嬉しそうにぴこぴこと動き、尻尾の揺れもゆったりとしたものに変わる。
「ウチはクレハ。いずれ世界一の“拳聖”と呼ばれる女ニャ! 足を引っ張るんじゃないニャ!」
高らかに名乗るその勇ましい姿に、俺たちは顔を見合わせ、それぞれ頷いた。
こうして――。 迷宮深層に挑む新たな「力」が、俺たちの列に加わった。




