第16話:【戦士】は罠に気づき、血を流す
順調そうに見えた迷宮探索に、暗雲が立ち込めたのは第五層からだった。
石壁の質感は滑らかな加工から粗削りな岩肌へと変わり、全体的に湿り気が増していく。空気中に漂う鉄錆のような臭いが、生理的な嫌悪感を伴って鼻腔を刺した。
「モンスターの密度が、また一段階上がりましたね……」
セラフィーナの声に、隠しきれない緊張が滲む。 前方に現れたのは「オークロード」――豚の頭部を持つ亜人の中でも、ひときわ屈強な上位個体だ。赤銅色の肌に盛り上がった筋肉。手には巨大な石斧を握り、低く唸り声を上げながら、地響きとともに突進してくる。
「散開! アルと俺で左翼を叩く! フィリアは右から狙い撃て!」
「任せて!」
連携は完璧だった。 だが、決定打を与えようとアルフレッドが踏み込んだ、その瞬間――。
「――ギィアァオオッ!!」
オークロードが、巨体に似合わぬ跳躍で後方のフィリアへと躍り出た。天井に届かんばかりの質量が、放物線を描いて彼女の目の前に着地する。
刹那。 ガコンッ、と。不吉なほど乾いた硬質の音が、通路に響き渡った。
「おい、足元……!」
「えっ――?」
フィリアが立っていた床を中心に、蜘蛛の巣状の亀裂が急速に広がっていく。
「フィリア、跳べッ!!」
俺は反射的に、自分でも驚くほどの速さで地を蹴った。 崩落し、暗黒の底へと吸い込まれそうになる彼女の腕を掴み、全力で背後の安全圏へと放り投げる。
ズシン、と。 落とし穴が口を開ける直前で、彼女を救い出すことには成功した。 だが、代わりに穴の真上に残された俺は、着地のバランスを崩し――。
「ぐっ……!!」
ゴォン、と鈍い衝撃が走った。 床下に隠されていたのは、ただの穴ではなかった。
「テオ! 大丈夫!?」
「……毒針だ。床下に仕掛けやがった」
右足の甲を、黒ずんだ針が深く貫いていた。痛みは数秒遅れて熱に変わり、神経を焼く。 オークロードは、この罠を起動させるための「重石」になったのだ。
「すぐに解毒します!」
セラフィーナが駆け寄り、迷いなく膝を突いて俺の脚を抱えた。
「フィリア、下がれ! セラフィーナ、聖光障壁を優先しろ!」
「はいっ!」
俺は指示を飛ばしながら、盾を構えてオークロードを睨み据える。右足はもはや感覚を失いつつあったが、膝を屈することだけは自分に許さなかった。
「《聖浄の光》――!」
セラフィーナの掌から溢れた柔らかな光が、傷口から毒を含んだ赤黒い血を強制的に押し出していく。 熱が引き、皮膚が急速に再生する感触。そして、何より彼女の指先から伝わる微かな震えが、俺の意識を繋ぎ止めた。
「ありがとうございます……助かった」
「……無茶はしないでくださいと言ったはずです」
静かに、しかし怒りと心配の混じった声でセラフィーナが呟く。 毒が抜けた瞬間、俺は残った力を振り絞ってオークロードの斧を受け止めた。
「アル、今だ!」
「喰らえぇッ!」
アルフレッドの聖剣が、黄金の軌跡を描いて巨体を一刀両断にする。 絶叫すら許さぬ一閃。オークロードは物言わぬ肉塊となり、床を叩いた。
沈黙が降りる。
倒れた敵の死骸を見下ろしながら、俺は深く息をつく。罠が増えてきたな。これ以上進むには、スカウト職。この場合は【盗賊】の【職】を持っている奴がいないと色々きつくなってくるだろう。
「……やっぱり、【盗賊】がいねえと限界だな」
「テオドール……。君が罠に気づいてくれなかったらと思うと、ゾッとするよ」
アルフレッドが血を拭いながら、俺の負傷した足元を見て沈痛な面持ちになる。 セラフィーナは真剣な表情で俺の脚を点検し、慎重に触れた。
「毒の残留は……ありません。ですが、急激な細胞再生で筋肉に過度な負担がかかっています」
「歩けるさ。問題ない」
「“歩ける”と“万全”は違います、とお伝えしましたわね?」
ぴしゃりと言い放たれ、俺は苦笑するしかなかった。 フィリアも、罠の開いた大穴を見下ろして顔を顰めている。
「第五層でこれだ。この先、下に行けば行くほど、罠は厄介になるだろうな」
俺の言葉に、反論する者はいなかった。 ゴブリンやコボルドなら力でねじ伏せられる。だが、罠は別だ。 見えない。そして気づいた時には、取り返しのつかない対価を支払わされている。
戦闘中に、床の微妙な沈み込みや石材の色の違いをすべて見抜くのは、戦士の領分じゃない。
「……よし、今日はここまでだ。一度、王都へ戻ろう」
アルフレッドが決断を下した。 フィリアが意外そうに目を瞬かせる。
「まだ余力はあるわよ? せめてこの階層を抜けるまでは……」
アルフレッドは俺の肩を支えながら、静かに続けた。
「このまま強行しても、いつか必ず致命的なミスをする。それなら、今のうちに信頼できる『スカウト職』を探そう。……僕たちの欠けているピースを埋めるために」
俺は頷いた。 この世界はゲームじゃない。一度の「全滅」にリトライはないのだ。 俺たちは一人じゃない。足りないのなら、共に歩める新しい仲間を探せばいい。
こうして俺たちは、初めての「撤退」を選び、再び王都の喧騒へと引き返すことにしたのだった。




