皿数えの亡霊①
「いちま〜い、にま〜い、さんま〜い……あれ? 一枚足りない。」
「キャァァァァァッ!!」
若様とあずみの悲鳴が道場に響きわたった。
しかし私は、その背後で肩を震わせている二人を横目に、首を傾げる。
――何がそんなに怖いのかしら?
冷ややかな視線を向けながら、私は静かにあきこの語りを聞き続けた。
穏やかな初夏の日差しが差し込む午後。
稽古の合間、あきこやあずみが道場へ遊びに来るのは、もう日常の光景になっていた。
若様ともすっかり打ち解け、和やかな空気が流れていたその日――あきこが「最近、町で噂になってるの」と切り出したのだ。
語られたのは、町の中央を流れる川のほとり、一本の柳の下に夜な夜な“女の幽霊”が現れるという怪談だった。
……幽霊、ねぇ。
私は内心で小さく息をつく。
転生前、ゲーム世界にいた頃に調べた“人の死”や“怨念”に関する情報の中に、似たような話はいくつもあった。
人には魂というものがあり、それが姿を結ぶのだという説。
あるいは、強い怨念が実体化するのだというもの。
だが最も有り得るとされていたのは――幻覚、そして思い込み。
恐怖、暗闇、霧、揺れる影。
人はそれらを“人の形”に誤認し、自ら幽霊を作り上げる。
それが最も合理的な説明だった。
しかも、あきこの話によれば――
その柳の近くでは最近、ひとりの死体が上がったという。
他殺か自殺かは定かでないが、死を前にした場所に不気味な噂が生まれるのは珍しいことではない。
まして、魑魅魍魎が日常のように語られるこの平安の世だ。
思い込みが“幽霊”を見せたとしても不思議ではない。
私はそう結論づけながらも、あきこの話に耳を傾け続けていた。
しかし……そんなに怖いものかしら?
若様はともかく、普段は男勝りで気の強いあずみまで、あきこの話に怯えて肩を寄せ合い震えていた。
ただ皿の数を数えただけだというのに。
私は半ば呆れたように二人を見つめた。
私からすれば、そんな怪談より――ゲームの世界で、私を討ち倒しに来た主人公一行の方が、よほど恐ろしく思えるのだけれど。
さらに意外だったのは、語り手のあきこである。
普段は大人しく清楚そのものの彼女が、水を得た魚のように生き生きと二人を脅かし、ケラケラと笑っているではないか。
あきこが怪談好きだったとは……初めて知った。
「それでさあ、今晩その幽霊を見に行かない?」
あきこが頬を紅潮させながら、さらりとそんな提案を口にした。
その瞬間、若様とあずみの顔が一段と青ざめ、二人して固まってしまう。
「い、いや、あ、あきこ殿……。や、やはり子供だけでは危のう御座いませんか? な、なぁ、あずみ殿」
「そ、そうよ。若様の言うとおりよ! 子供だけで行くなんて危険すぎるわ!」
二人は互いに庇い合うように口々に反論するが、あきこは怯むどころか、むしろ興が乗っている様子だった。
「何よ二人とも。怖いの? いつも威張ってるくせにだらしないんだから。ねぇ、かぐやちゃん」
……あら、私を巻き込んできたわね。
控えめなあきこにしては珍しいほどの強気。
そこまでして行きたいのなら、少し焚きつけてみようかしら――そう思った私は、わざとらしく肩をすくめてやった。
「若様。武士の跡取りのくせに、幽霊ごときに怖じ気づくのですか?
それにあずみ、いつも“怖いものなんてない”と豪語していたのに……本当に情けないわ。」
この程度で十分だろう。
万が一ここで引いたら……それはそれで、別の手を使うだけ。
「か、かぐや殿! 拙者は怖じ気づいてなどおらぬ! 幽霊など、この刀で切り伏せてくれるわ!」
「わ、私だって! ゆ、幽霊なんて怖くないわよ。きっとただの噂よ! 私がその正体を暴いてやるんだから!」
……やっぱり子供ね。
ちょろすぎて笑ってしまうわ。
強がりながらも引きつった笑顔を作っている二人の姿は、どうにも滑稽で、思わずため息がこぼれそうになる。
だが――。
あずみの言う「幽霊の正体」という言葉には、確かに私も興味があった。
もし本当に“現れる”のなら、この目で見てみたい。
もしそうでないのなら……恐怖や錯覚が生む幻覚。
それはそれで、今後罠を仕掛ける際の参考になりそうだ。
どちらに転んでも悪くない。
――さあ、何が出るかしら。楽しみね。
幽霊見物の話で騒ぎはじめた三人を横目に、私はひとり密かにほくそ笑んだ。
稽古が終わり鬼一に許可を取るべく噂を話したところ、彼は面白そうに片眉を上げた。
「幽霊ぃ? そりゃまた、くだらねぇ話だが……行ってこい。良い気分転換になるさ。」
「承知しました。」
軽く頭を下げると、若様の顔が見事に青ざめていた。
あずみも袖を握りしめ、小刻みに震えている。
対して、あきこは上機嫌、私は……まあ、少し楽しみだった。
夜の道場前。
私達は提灯に火を灯し、月明かりと二つの橙の光を頼りに川へ向かって歩き出した。
「ね、ねえ……やっぱり戻りませんか?」
と、若様が弱々しい声で言う。
「あら若様、まだ道場から五十歩しか歩いてませんよ?」
私は提灯を軽く揺らして笑った。
横であきこが、わざとらしく後ろを振り返る。
「ねぇ、聞いた? さっきから後ろに“足音、ひとつ多くない?”」
「ひっ……!?」
若様は飛び上がり、あずみにしがみつく。
「ちょっと若様!? あのね!? 私の方が怖いんだからねっ!」
あずみも半泣きで抱きつかれながら抗議する。
その二人の様子がおかしくて、私はつい悪戯心を刺激され、
提灯の灯りを少しだけ下げながら、あきこの声色を真似て囁いた。
「……さっきから、白い着物の影がついてきておりますよ?」
若様「あ”あ”あ”あ”ーーーっ!!」
あずみ「かぐや殿!? 本当にやめてくださいっ!!」
「ふふ、ごめんなさい。」
つい笑ってしまう。
あきこは肩を抱えて笑い転げていた。
「アハハハ! 怖がる人がいると、面白くてやめられないんだよねぇ。」
「面白がらないでください!! 本当に出たらどうするんですかっ!」
若様の情けない声が夜道に響く。
川辺へ近づくと、空気が少しずつ湿り、月の光が水面に細く揺れていた。
件の柳は、黒い影のようにぽつんと立っている。
風も弱いのに、枝がゆらゆらと揺れて見えた。
「……あそこ、だよね?」
あずみが震える声で指をさす。
「そうね。噂の“柳の下”。」
私は提灯を掲げて進む。
あきこは相変わらず余裕の顔だ。
「ほら若様。どう? 今のところ白い影は……」
「あ、あきこ殿、い、いないですよ。もう驚かさないで……」
その時だった。
——ひゅう。
突然、風もないのに、柳の枝が強く揺れた。
提灯の火が揺れ、光が乱れた瞬間。
「……あれ?」
柳の根元に、月光を反射して、
白い布のようなものが すう…… と浮いた。
あきこが私の袖をつつく。
「ねぇ、これ……かぐやちゃん、な、なんかやってないよね?」
「ええ。やってないわ。」
若様とあずみは同時に叫んだ。
「ぎゃあああああああああ!!!」
白い影は、ゆらり。
柳の枝の隙間から、人のような形をつくり……
ほんの一瞬、
——黒い“目”のようなものが、こちらを見ていた。
——何者なの?
次の瞬間、空気が変わった。
温度が、まるで底へ抜け落ちるように急激に下がる。
ひやり……ではない。息が白くなりそうなほどの冷気が、肌に針のように突き刺さる。
あまりの変化に、ゾワリと背筋を悪寒が駆け上がった。
魔法……?
大気そのものを操る魔法……?
風を、冷気を、ここまで自在に——風使いなの?
私は反射的に警戒の姿勢へと入った。
若様とあずみは、恐怖の臨界点を越えたらしい。
「ひっ」と短い悲鳴をあげたあと、二人して大の字にひっくり返り、そのまま気絶してしまった。
ついさっきまで余裕綽々だったあきこも、二人の横で尻もちをつきながら蒼白となり、
震える唇のまま柳と川べりを交互に見つめている。
私は若様の腰から躊躇なく刀を抜き、
ぬらりとした冷気の中心へと切っ先を向けた。
「……何者。そこにいるなら、姿を表しなさい。」
返事はなかった。
ただ。
——ぴちゃん。
水の滴る、妙に間延びした音だけが、闇のどこかで響いた。
耳が慣れてくると、もう一つ音が混じっているのに気づく。
……いちま〜い、にま〜い、さんま〜い……
子供の数え歌に似ている声。
けれど、かすれきっていて、濁っていて、死んだ水の底から響くような声だった。
闇の奥から、ゆっくり、ゆっくり……
“それ”は柳の枝の隙間を縫って、こちらへと滑るように姿を現した。
青白く、ぼんやりと光を帯びた女の影。
いや、人ではない——濡れそぼった髪が、ゆらり。
水気を含んだ着物が、ぽたぽたとしずくを落とす。
だが、月光がその身体を通り抜けて、後ろの柳が透けて見える。
この世の存在ではない、と一目でわかった。
女は、こちらの気配を正確に捉えたかのように顔を上げた。
赤く濁り、血走った目が、
ぐり……と不自然な角度でこちらを見上げる。
その眼が、私に焦点を合わせた瞬間——
「……いちまい、足りなァい……」
恨みの重さを引きずるような声音で、
顔の半分がひしゃげたような笑みを浮かべながら告げた。
ぞくり。
冷気がさらに濃くなり、提灯の火が細く震えた。




