五話目 出会い
「――剣術を習いたい。」
その一言を口にした瞬間、部屋の空気がざわりと揺れた。
私は違和感を覚え、そっと周囲の表情を見渡した。
父様と母様は同時に頭を抱え、若様は目をむき、為憲までもがわずかに眉をひそめている。
まるで、私がとんでもない言葉でも発したかのようだ。
(……あら? 何かおかしなことを言ったかしら?)
女が剣術を学びたい――ゲームの世界なら珍しくもない。
だが、この“現実の日本”ではどうやら異質らしい。
「剣術、とな?」
為憲がゆっくりと問い返した。
私は静かにうなずきながら、彼の表情を探った。
「だが、おなごがなぜ剣術を……?」
やはり、この時代にはそぐわない願いなのだろう。
内心で舌を打ちつつ、私はこの場に最も似つかわしい答えを紡ぎ出した。
「……はい。実はわたくし、父様と母様の実の娘ではございません。血の繋がりもない、ただの捨て子にございます。」
「ほう……」
為憲の目がわずかに細められる。
「この近くの竹林に――捨てられていたのだと聞いております。そんな私を、父様と母様は実の子のように育ててくださいました。だからこそ、その恩を返したいのです。」
ハッとして顔を上げたのは、父様と母様だった。
若様の顔色にも変化があり、為憲は腕を組んだまま沈思黙考の色を帯びている。
反応は上々だ。私はさらに熱を込めた。
「父様と母様に子はなく、いまはご壮健とはいえ、もうご高齢。お二人が生きておられるうちに、親孝行もしたい。そして……いつかは、わたくしが家を守り、二人を守れるようになりたいのです。」
袖で顔を隠し、わざと声を震わせる。
「女の身で剣術を学びたいなどと、生意気に聞こえるのは重々承知しております。ですが……二人を守る力が、どうしても欲しいのです。」
――もちろん、そんな理由は全て建前。
私の目的はもっと深く、もっと黒い。
本来ゲームで設定された私は“剣術の達人”であり、“マスタークラス”とさえ称される存在だった。
しかし、それはあくまで“ゲーム内の能力値”でしかない。
実際の私は――反射的に相手の剣を交わし、身体能力に任せ刃を振るっているだけだ。
そんなもの、剣術とは呼べない。
(私は本物が欲しいの。
本当の剣。
本当の技。
本当の殺しの力……)
いずれ《空から来る異能のモノ》が、かぐやを連れ去りに来る。
その運命だけは、何としても覆さなければならない。
私は復讐を果たす。
破滅を撒き、世界を踏みにじる存在になる。
その過程で奪われるなんて――ごめんだ。
そのために、すべてを手に入れる必要がある。
剣も、力も、術も。
もちろん、そんな真意を知る者はこの場にいない。
父様と母様は涙を流し、若様はつられてもらい泣きをし、
私はその様子を見ながら、心の中で小さく嘲笑った。
――チョロい。
残るは為憲の返答を待つのみだ。
為憲はしばらく沈黙し、そして深く息を吐いた。
「……かぐや殿の志、まことに感服いたした。まったく、この馬鹿息子にも見習わせたいほどじゃ。よかろう。剣術の件、何とかいたそう。」
勝った。
私はゆっくりと頭を垂れた。
「ありがとうございます。」
深々と礼を述べつつ、唇の端に――誰にも見えぬほどの、薄い薄い笑みを浮かべた。
「頭をお上げなされ、かぐや殿。」
為憲の静かな声に、私はゆるりと顔を上げた。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、まっすぐにその眼差しを受け止める。
「ある意味、ちょうど良かったのじゃ。」
「ちょうど……良かった、ですか?」
「うむ。」
為憲は意味深な笑みを浮かべ、傍らに立つ若様へ視線を送った。若様はその一瞥だけでビクリと肩を揺らし、背筋を伸ばす。
「ちょうど、この馬鹿息子をもう一度鍛え直そうと思っておってな。修行をつける相手を探しておるところじゃった。」
「は、はい?」
若様は引きつった声を漏らし、私の方へ縋るような視線をよこす。
私は為憲の言葉の続きを促すように、静かに耳を傾けた。
「本来なら、ワシ自らが二人を鍛えたいところなのじゃが……なにぶん多忙でな。時間を割くことが難しい。」
為憲は腕を組み、ひとつ息をつく。
「そこでだ。ひとり、武芸者を名乗る男に任せようと思っておる。」
「武芸者様……でございますか?」
「うむ。名を『鬼一』と申す。年若いが、頭は切れ、剣の腕前も見事なものじゃ。奇抜なところはあるが、タダで宿に置いているのも勿体のうてな。若様をそやつに預け、叩き直してもらおうと思っておったのじゃ。」
若様は青ざめ、唇を震わせた。
……まあ、彼にとっては地獄の宣告だろう。
為憲は続けた。
「どうじゃ、かぐや殿。そなたも、その『鬼一』の下で学んでみてはどうか?」
鬼一。
その名が胸の奥底でざわりと揺れた。
過去に調べた中で、ひとりだけ──
その名に該当する人物がいた。
鬼一法眼。
英雄・源義経の師。
日本剣術の祖ともいえる《京八流》の開祖と伝わる伝説の人物。
もちろん、記録は曖昧で、実在したかも怪しい。
ゆえに、目の前の『鬼一』が同一人物かどうかなど分かりようがない。
だが――為憲が「相当の腕」と認めるほどの剣士。
ならば、私にとっては申し分ない。
むしろ、もし本物なら……
これ以上の好機はない。
「はい。」
私は柔らかく微笑み、深く頷いた。
「ぜひ、その方に剣術を教えていただきとうございますわ。」
胸の奥底で、確信めいた熱が静かに渦巻いた。
――私は絶対に強くなる。
――空から来る“異能のモノ”すら、斬り伏せるために。
為憲は満足そうに目を細め、ゆっくりと頷いた。
その表情は、私の答えを心から喜んでいるかのようであった。
数日後。
私は父様と母様に外出の許しを得ると、為憲から教えられた“別邸”へと向かっていた。
若様はすでに、鬼一のもとで修行を始めているという。
あの日、為憲に言われた瞬間の若様の顔──あれはまさしく生贄に選ばれた子羊であった。
……ま、少しは鍛えられて、まともになれば良いわね。
私は涼しい顔を装いながらも、胸の奥ではわずかな期待と、そして別の意味での興奮が渦巻いていた。
鬼一。
あの名を聞いた時の直感は、今でも消えていない。
もし本物なら──
もし伝説の“あの鬼一”と繋がる何者かであるなら──
私は、また一歩、目的へ近づくことができる。
別邸に着くと、庭の奥から剣戟の音が響いていた。
キンッ! カァンッ!
人と人が打ち合う音ではない。
もっと鋭く、もっと無駄がなく、もっと……殺気立っている。
私は歩みを進め、竹林を抜けた先の稽古場を覗いた。
そこにいたのは──
「ぜ、ぜぇ……ぜ、ぇ……っ」
地面にひれ伏し、息も絶え絶えの若様。
顔も着物も泥だらけで、眼は涙と汗でぐしゃぐしゃになっている。
その目の前に立つ青年は──
「ほう。次は左から来るかと思えば……膝を折って逃げただけか。期待を裏切る天才じゃのう。」
背丈は成人男性としては高すぎず、しかししなやかに引き締まった体つき。
十歳の私が見上げなければ目が合わぬほどの身長で、その“落差”がより威圧感を際立たせていた。
年の頃は二十代前半。
だが、纏っている空気は老人のようでもあり、獣のようでもあった。
黒い着物の裾は風もないのに揺れ、
その目は、底のない井戸のように暗く深い。
片手に持つ竹刀の先端は、まるで生き物のように微かに震動し、
“斬る”という概念そのものを凝縮したような殺気が滲んでいた。
若様が怯えきるのも無理はない。
ただ者ではない──
その感覚が、皮膚の内側からぞわりと湧く。
「う、ううぅ……もう無理です……鬼一様……も、もう腕が……」
「ほぉ、無理とは便利な言葉じゃな。」
鬼一は片眉を上げ、竹刀を肩に乗せた。
「なら、無理を超えてみよ。死にたくなければ、の話じゃが。」
若様は悲鳴を上げて逃げ出し──
鬼一の竹刀が地面を軽く叩いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「お前はまだ、死にたくはあるまい?」
「ひっ……!?」
威圧だけで動きを止める。
なるほど、確かに“本物”だ。
私はその気配を全身で受け止めながら、一歩前に出た。
「……邪魔をするつもりはございませんの。
わたくし、『かぐや』と申します。」
鬼一の目が、ふっとこちらに向いた。
その視線は、私の皮膚・筋肉・骨までも見通すように鋭い。
「為憲殿の言っておった娘か。」
鬼一はゆっくりと歩み寄る。
十歳の私が足元に影を落とされるほどの差で、自然と見上げる姿勢になる。
「……なるほど。」
鬼一は私の顔を覗き込み、愉快そうに言った。
「お主、ただの娘ではないな。」
私は微笑んだ。
「ふふ……わかりますかしら?」
「わかるとも。」
鬼一はにやりと笑う。
「その目は、喰う者の目じゃ。剣を学びたい者の目ではない。」
心臓が、どくりと跳ねた。
この男──私の“狂気”の匂いを察している。
鬼一は竹刀の先端を私へ向けた。
「面白い。お主に剣を教える価値は……充分にありそうじゃ。」
背後で若様が泣きそうな声を上げた。
「か、かぐや……気をつけろ……鬼一殿は……ま、まじで……ほんとにヤバい……」
鬼一は軽く笑い、若様の頭を弾く。
「黙れ。お主はまだ“素振り百本”が残っておるわ。」
「ひぃぃぃ!!!」
私はその光景を眺めつつ、静かに息を吸い込んだ。
──この男から剣を学べば。
私は、もっと強くなれる。
空の異能をも殺せるほどに。
鬼一は決意を見透かしたように、にやりと笑った。




