化け猫騒動⑤
取り逃がした苛立ちを抑えきれず、私は借りていた弓をぽんと投げ返すように役人へ突き返した。
呆然と私たちを見ていた検非違使の一人が、我に返ったように一歩踏み出す。
「貴様、何者だ」
声だけは威勢がいい。
私はその男を一瞥し、侮蔑を隠しもしない視線を向けた。
――この程度で震え上がっていた役人風情が、よく言うわ。
その空気を察したのか、若様がすぐに間に入った。
「少しお待ち下さい。私どもは――」
若様は落ち着いた口調で身分と事情を説明する。
藤原為憲の名が出た途端、役人たちの顔色が一斉に変わり、次々と平伏した。
「も、為憲様のご子息とは……これは、まことにご無礼を……!」
「気にする必要はありません。それより、状況を教えてください」
若様はそう言って彼らの話を聞き始めた。
その間に、私は松明を一本借り、化け猫が穿った大穴から家の中を覗き込む。
――酷いわね。
一言で済ませるにはあまりにも惨い光景だった。
家の中は血に染まり、家具は打ち倒され、嵐が吹き荒れた後のように散乱している。
床には三つの人影が転がっていた。
父親と思しき男は、鍬を手にしたまま胴を引き裂かれ、既に事切れている。
母親らしき女は、子を庇うように覆い被さり、その背には深々と爪痕が刻まれていた。
その下にいる子供は――
ここからでは、よく分からない。
私は踵を返しかけて、足を止めた。
「……う、……」
微かな声。
私はすぐに家の中へ入り、松明を声の方へ向ける。
瓦礫の隙間、母親の腕の下で、小さな身体が僅かに動いていた。
生きている。
だが――。
私は母親の亡骸をそっとどけ、子供の全身を照らす。
口元から血を吐き、身体には無数の深い傷。
呼吸は浅く、まさに虫の息だった。
……喰われかけた、というところね。
私は一瞬だけ周囲を確認し、誰も見ていないことを確かめると、静かに魔法を紡いだ。
――治癒の魔法。
血の流れを制御し、止血を施し、人の持つ再生力を極限まで引き上げる。
血は止まり、傷口がゆっくりと閉じ始める。
ここまで。
あとは、この子自身の生命力次第というところね。
……どうして、こんなことをしているのか。
助からない可能性の方が、きっと高い。
無駄に終わるかもしれない行為だ。
それでも私は、手を止めなかった。
気の迷い。
そういうことにしておこう。
胸の奥に残る得体の知れない感情を押し殺し、私は外にいる役人たちへ声をかけた。
「……生き残りがいますわ。」
その一言に、検非違使たちは色めき立ち、慌てて家の中へ駆け込んでくる。
担ぎ出される子供の小さな身体を、私は黙って見送った。
そして、誰にも聞こえぬほどの声で、呟く。
「命があったら……またね、坊や」
その言葉が誰に向けたものなのか、自分でも分からないまま、私は夜気の中に立ち尽くしていた。
次の日――。
私たちは早朝から荷をまとめ、鷲頭山の麓にある村へ向かうことになった。
状況次第では、再びこの宿に戻る可能性もある。その旨を伝えると、宿の店主は嫌な顔一つせず、快く頷いてくれた。
ありがたい話だが、礼を述べる間もなく、部屋の空気はどこか重い。
支度を進める間、若様は終始落ち着きがなかった。
昨夜の光景が、よほど心に残っているのだろう。箸を取る手も止まりがちで、出された朝餉にはほとんど手をつけていない。表情は硬く、視線も宙を彷徨っている。
「はぁ……」
見かねて、私はひとつ溜め息を落とし、声をかけた。
「若様、少しは落ち着かれてはいかがで御座いますか。そのご様子では、今日一日もちませんわよ?」
「いや……そうは言われるがな。昨夜のアレを見てしまうと……我らだけでは……」
弱気な言葉に、私は内心で深く嘆息した。
まったく、昨夜あれほどの勢いで弓を引いていたのは誰だったのかしら。少しは見直したと思った矢先にこれだ。
――追い詰められないと力を出せないタイプ?
……面倒くさい。
私が半眼で若様を眺め、さらに溜め息を重ねた、その時。
「時丸様……」
障子の外から、控えめな使用人の声が届いた。
「検非違使のお役人が、時丸様と……その、お連れの方をお迎えに参っております。」
私は若様と顔を見合わせる。
一瞬だけ沈黙が落ち、やがて若様は小さく息を吐き、覚悟を決めたように頷いた。
「すぐに行くと伝えてくれ。」
「かしこまりました。」
いよいよ、というわけね。
私は昨夜の取り逃がした悔しさを思い出し、口の端をわずかに持ち上げた。
玄関先で待っていたのは、鎧を着て、弓を携えた若い武者。昨夜、私が弓を奪ったあの若い検非違使だった。
私たちの姿を認めるなり、彼は背筋を正し、深々と頭を下げる。
「時丸様。わたくし、本日の案内役を申しつかりました、平田新兵衛と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
名乗る声には、まだわずかな緊張が滲んでいた。
若様は穏やかに微笑み、声をかける。
「平田殿、こちらこそよろしく頼む。そんなに緊張せずとも良い。気楽にして構わぬ。」
――よく言うわ。
つい先ほどまで、誰よりも緊張で固まっていたのは若様ご本人ではありませんこと?
その見事な切り替えの早さに、私は思わず呆然としてしまった。
「……ありがとうございます。では、こちらへ。」
平田は一礼し、私たちを先導する。
宿を発つ際、店主がにぎり飯を包んで持たせてくれた。
玄関の外まで見送りに出て、「ご武運を」と一言添えて深く頭を下げる。
その言葉を背に受けながら、私たちは鷲頭山へと歩き出した。
麓の村へは、街道を外れて一里――およそ三・三キロほど先にあるという。
私達は平田の案内で歩を進めながら、村の現状について話を聞いていた。
「それは……酷いものです。」
平田は俯きがちに言葉を選びながら続ける。
「家は壊され、田畑は荒らされ……。残った者たちは、ヤツが食い散らかした食べ残りなどを拾い集め、何とか命を繋いでいる有様です。」
「逃げた者たちのように、その人たちも村を離れれば良いのでは?」
私の問いに、平田は静かに首を横に振った。
「残っているのは、皆、他に頼る宛のない者ばかりです。
中には、この村に骨を埋める覚悟の老人もおります。
村を捨てて出て行ったところで、食べる術もなく、待つのは飢え死に……。
それならば、せめて生まれ育ったこの地で死にたいと……そう嘆いておりました。」
「……それは、あまりにも酷い話で御座るな。」
若様は歯を食いしばり、苦悶の色を浮かべた。
「もし、ヤツを討ち果たすことが出来たなら、父上に文を書こう。
何らかの援助が出来ぬか、必ず願い出る。」
「ありがとうございます……!」
平田は深々と頭を下げた後、少し言い淀みながらも続ける。
「で、では……その……援軍の方は、いつ頃こちらへ?」
情けなさを噛みしめるような声だった。
「誠に不甲斐ない話で御座いますが、昨日ご覧になった通り、我らでは歯が立ちませぬ。
今日も皆怯えきっており……新人のわたくしが、押し付けられた次第で……」
――援軍が私達だなどと、口が裂けても言えない。
私は軽く咳払いをして、若様へと視線を送る。
(……言いなさい)
そう訴えると、若様は一瞬目を泳がせ、
(わ、わたくしが……?)
と情けない顔で返してきた。
当然でしょう、と顎で促す。
「いや……その……」
若様は曖昧に笑い、
「私どもは、父上から“様子を見てこい”と言われただけでして……。
その後の判断は父上次第、ということで……なあ、かぐや殿。」
――逃げたわね。
私はぷい、と顔を背けて無言で抗議する。
「そ、そうで御座るか……」
平田は落胆を隠しつつも、
「で、では……出来るだけ早く、時丸様からもお伝えください。」
「アハハハ……承った」
乾いた笑いを浮かべる若様を横目に、私は内心で呆れていた。
(いい加減な男、勘当されてるくせに、よく言うわ)
そんな皮肉を胸にしまい込みつつ、私達は荒れ果てた村へと足を踏み入れた。
――これが、あの化け猫に蹂躙された地。
空気が、重い。




