二話目 転生
――落ちる。
闇の底へ、果てしなく。
五感のすべてが黒に飲み込まれたあと、ふいに視界が光で貫かれた。
眩いのに、冷たい。
光は柔らかな温もりではなく、神の裁きのように鋭い。
気づけば、私は狭い空間に押し包まれていた。
柔らかく、しっとりとした壁に四方を覆われ、身動きすらままならない。
それでも息苦しさはなく――むしろ、温かい子宮を思わせる心地よさすらあった。
ぼんやりと意識が澄み始める。
ここは……どこ?
記憶の境界がぐらつき、ゲームの終焉、契約の闇、黒い声、すべてが断片的に蘇る。
(……そうだ。私は死にたくないと願った。破滅をもたらすと誓った)
その瞬間、胸の奥が熱く脈打つ。
失われていない――意思も、執着も、狂気も、すべてそのまま。
ただ、身体が……小さい。
腕も、脚も、声を出そうにも幼い息が漏れるだけ。
魔力の奔流のようなものは内に渦巻いているが、眠りの膜に覆われているようでうまく扱えない。
狭い空間の外から、何かが近づく気配がした。
ザッ……ザッ……
(誰……?)
自分の意思とは関係なく、空間の外が淡い緑色に光り始めた。
どうやら、この“殻”そのものが光を放っているらしい。
次の瞬間、
「……おや?」
外から男の声。老いた、優しい声だった。
そしてその声に応じるように、光が一段と強まり、周囲の壁が裂ける。
ぱん、と。
殻が割れる音とともに、光が揺らぎ、冷たい外気が流れ込んだ。
視界の隙間から、白い髭を蓄えた老人が覗き込む。
驚きと、畏れと、喜びと――その全てが混ざった表情。
「こりゃあ……なんといふことじゃ……竹の中から、赤子が……!」
私は老人の腕へと抱き上げられる。
小さな身体は無力そのもの。
だが――内側に眠るのは、ブラッディー・アウラである。
泣き声を上げることもできた。
だが私は微笑んだ。
生まれたばかりの赤子が浮かべるにはあまりに妖しげな、静かな笑みを。
「……なんと美しい子じゃ。まるで月の姫のようじゃ……」
老人は震える腕で私を強く抱きしめた。
私は消えなかった。
私は生きている。
新しい世界、新しい身体、新しい物語。
そして――ここに“破滅”をもたらすために。
眠るふりをしたまま、私は静かに嗤った。
竹林の老人の腕の中で、光を纏う赤子の姿のまま。
月にも神にも祝福されし姫の顔をして――悪役のまま。
老人は、私をしっかりと胸に抱きしめたまま家路を進んだ。
古びた屋根の下に辿り着くと、ひとりの年老いた女性が戸口から顔を出す。
「おじいさん、その子は……?」
か細く震える声。私は薄く目を開け、声の主へ視線を向けた。
老人と同じ年頃の、皺深い優しげな女性――きっと妻なのであろう。
彼女は竹の殻を纏ったまま眠る私を覗き込み、驚愕に息を呑んだ。
「竹林で光る竹を見つけてな。近づいたら、その中からこの子が現れたんじゃ……まるで神の御業のようでの」
老人は興奮冷めやらぬ様子で、ゆっくりと、しかし熱を込めて説明する。
老婆は腕を組み、眉間に皺を寄せたまま半信半疑の視線で老人を見返した。
――その視線が、次に私へと注がれる。
私はそっと目を開き、愛らしい笑みをふくませて彼女を見つめ返した。
さらに、まだまともに動かせない赤子の手を、求めるように差し伸ばす。
老婆の表情が、音を立てるように緩んだ。
その小さな手を両手で包み込み、慈しむように私の額を撫でる。
(……上手くいった)
歓喜を噛みしめながら、私は甘えるように喉を鳴らし声を上げた。
老婆は嬉しげに笑い、老人の腕から私を受け取ると頬を寄せながらあやし始める。
「まぁまぁ、可愛い子じゃこと……ほら、ばぁ!」
老婆のはしゃぐ声に、私は“赤子らしく”声を上げる。
その様を見て老人も目を細め、幸せそうに肩を落とした。
二人が喜びに満ちた表情を浮かべるのを眺めながら――
私はひそかに、冷たく思う。
(私の正体も知らずに笑っている……なんて滑稽な)
だが今は、この仮面のままでいい。
今の私は無力な小さな赤子――誰かの庇護なくして生きられはしない。
成長するまで、時間はたっぷりある。
その間に、破滅の道筋を編んでいけばいい。
「かぐや。……この子の名は、かぐやにしよう」
老人と老婆はそう告げ、微笑みながら私の名を決めた。
――かぐや。
懐かしい響き。
かつてゲームの中に囚われていた頃、調べた伝承の中にあった名前。
『竹取物語』
古の神話。竹から生まれた月の姫。
(つまり私は、“かぐや姫”として転生したというわけね)
一瞬、別のゲーム世界に放り込まれたのではないかと疑った。
だが――すぐに否定された。
手を握られたときの温もり。
抱きしめられたときの鼓動。
私自身の胸の内から響く生命の律動。
“生きている”という実感が、確かな現実を告げている。
たとえここが別の世界であろうと、神話であろうと、物語であろうと――関係ない。
私は肉体を得た。
私は生きている。
それで十分だった。
(ここから始めてやる。すべてを覆す破滅を)
私は柔らかな表情のまま、老人の腕の中で眠ったふりをした。
内側でだけ、悪役令嬢の笑みを深めながら。
月日は静かに流れ、私は三歳になった。
幼子としては十分に身体を動かせるようになった頃――私の中に、説明のつかない違和感が芽生え始めていた。
私の身体は、他の人間とは決定的に違っていた。
子どもでは到底持てぬ重さの薪を、片手で軽々と持ち上げられる。
二人には隠しているが、本気を出せば成人の男より速く走ることもできる。
それに――反射神経。
飛び交う虫を殺さず、その羽を傷つけぬまま指先だけで捕らえることができたとき、私は悟った。
(この肉体には、“人間ではない力”が備わっている)
おそらく、転生先の女――この“かぐや”に由来する力。
この世界の「竹取物語」では、私はやがて月の世界へ帰る運命にあるという。
月の世界……それが何を示すのか、今はわからない。
宇宙、異界、神域。
あるいは、人の常識から遠く離れたどこか。
少なくとも――私は普通の人間ではない。
この肉体そのものが、揺るぎない証拠だった。
けれど、それは私にとって悪い話ではない。
この身体能力があれば、肉弾戦においては大きな優位となる。
目下の課題はただひとつ――魔力がどこまで使えるかだ。
血の魔法が使えることは、既に確認している。
全盛期の能力からは程遠いものの、自らの血をわずかに操ったり、対象の血から断片的な記憶を読み取る程度は可能だ。
幼い身体の循環器に無理をさせすぎれば命に関わるため、まだ大きな術は試せていないが。
しかし問題は、他の精霊魔法だ。
何度試しても、ゲームの世界で当たり前のように輝いていた魔法陣は、ここでは何の反応も示さない。
(精霊が存在しない? それとも現実世界では別のアプローチが必要……?)
どちらにせよ、使えない魔術に固執している暇はない。
“この世界で通用する新たな力”を手に入れる必要がある。
「かぐや、かぐや!」
不意に戸の向こうから声が飛び、思考が中断された。
――お父様だ。
「はい! お父様!」
弾む声、短い足で駆け寄る仕草。
幼い娘を演じることなど造作もない。
いまは、徹底的に可愛らしく――悟らせずに。
(まだ時ではない。計画は、もっと先)
私はにこりと笑って、老人の胸へ飛び込んだ。




