化け猫騒動②
「猫……」
思わず、声が零れた。
――予想外だった。
あまりにも、想定の埒外。
『化け猫』。
その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた気がした。
私はそれを誤魔化す間もなく、表情に出してしまったらしい。
鬼一はすぐに私の変化を見逃さず、眉をひそめて探るように問いかけてきた。
「どうした嬢ちゃん。な、何かマズいのか?」
「ええ……、いえ……、ちょっと……」
言葉を濁す。
誤魔化しが効かない男だと分かっているだけに、返答に詰まった。
すると、鬼一は何かを思い付いたように、ニヤリと笑った。
「なんだ嬢ちゃん、猫が苦手なのか?」
「……まあ、その……」
肯定とも否定とも取れない返事をすると、鬼一は腹を抱えて笑い出した。
「アハハハ! 嬢ちゃんにも苦手なもんがあったんだな!」
……余計なことを。
それに乗じて、若様まで口を挟んでくる。
「それは意外で御座るな。かぐや殿が猫を苦手とは。あんなに小さくて愛らしいものを。」
若様は笑いを堪えきれない様子で、手を口元に当て、肩を震わせている。
あきこやあずみも顔を見合わせ、ついといった様子で吹き出した。
「そういえば、かぐや。猫がいると、いつも少し距離を取ってたわよね。」
「うんうん。言われてみれば、確かにそうだったかも。」
好き勝手に言ってくれる。
私は苦虫を噛み潰したような顔で、視線を逸らした。
……だから嫌なのよ。
こういう話題になると、決まってこうなる。
「そうか……苦手なら無理はさせられねぇな。」
鬼一は珍しくあっさりと引き下がり、困ったように若様へ視線を向ける。
だが、すぐに首を横に振った。
――無理もない。
若様は成長は著しいが、まだ魔物退治を任せるには早すぎる。
場に、微妙な沈黙が落ちた。
その空気が、妙に癇に障った。
私は小さく息を吸い、きっぱりと言い切る。
「……大丈夫ですわ。猫くらい。」
全員の視線が一斉にこちらを向く。
「私が、さっと行って退治してきて見せます。」
自分でも分かるほど、声に棘が混じっていた。
――少し、意地になっていたのだと思う。
子供になったからと言って、侮られては困る。
私はかつて“最凶”と恐れられた存在。
最凶の悪役令嬢''ブラッディーアウラ''なのよ。
たかが妖怪一匹に、臆する理由などない。
周囲の制止の声を振り切り、胸の奥に燻る感情に火をつける。
見ていなさい。
――私を誰だと思っているのかしら。
そう、心の中で呟きながら。
次の日――
私は夜明けとともに、早速『鷲頭山』へと向かうことになった。
父様と母様には、鬼一さまのお使いだとだけ伝えてある。
まさか妖怪退治などと知れたら、二人とも泡を吹いて倒れかねない。
特に父様など、心臓が止まってしまうのではないかと本気で心配になる。
ただでさえ短い寿命が、さらに縮んでしまいそうだもの。
武器は一応、用意してもらった。
若様が昔使っていたという、やや短めの刀を借りることにしたのだ。
内緒で『月読』を持っていこうか、とも考えた。
だが、あの刀はやはり今の私の身長にはまだ合わない。
万が一、強敵と相対した場合――
一瞬の動作の遅れが、そのまま命取りになりかねない。
それに、戦場はおそらく山の中だ。
木々が生い茂る場所では、取り回しの良い短い刀の方が圧倒的に有利だろう。
そう判断して、私はこの刀を選んだ。
正直、少し心許ない。
だが、無いよりは遥かにましだ。
それに、最悪の場合――
私には、あの“魔法”がある。
問題はない、はず。
身支度を整え、玄関先で振り返る。
「では、父様、母様。行って参ります」
「おお、かぐや。気を付けてな」
「かぐや、これを持っていきなさい」
母様はそう言って、干し柿と路銀を私の手に握らせてくれた。
私は笑顔で受け取る。
全く……子供扱いして。
――まあ、今は子供なのだけれど。
手を振る二人に、私も手を振り返し、家を後にする。
さて。
妖怪退治、ね。
私は浮き立つ足取りをどうにか抑え込み、ひとまず道場へと向かった。
道場に着くと、すでに若様がいた。荷を背負い、わらじまで履いて、出立の準備万端といった様子である。こちらに気づくと、待っていましたと言わんばかりに背筋を伸ばした。
本当について来るつもりなのね。
内心、私はうんざりしていた。正直なところ、若様がいては足手まといだ。猫の手にもならない――とは言い過ぎかもしれないが、少なくとも戦力として数える気にはなれない。
どうやら昨日のやり取りで意固地になった私の態度を、「これは自分が付いて行くべき場面だ」と解釈したらしい。若様は胸を張り、きっぱりと言い放った。
「このような危険な役目に、女性一人を向かわせたと知れたら武士の恥で御座います。拙者もお供いたします。」
……は?
いや、結構ですから若様。
武士の恥? 女の子に斬りかかったことのある人が言う台詞ではないでしょう、それ。
最近少し真面目になったからって、調子に乗りすぎよ。
当然、鬼一が止めるものと思っていた。思っていたのに――。
「分かった。二人の方が安心だな。時丸も付いて行ってやれ。」
鬼一まで、そんなことを言い出す始末である。
さらに追い打ちをかけるように、あきことあずみまで――、
「それがいいわ!」
「かぐやちゃん、よろしくね。」
などと、私の意思などお構いなしに話をまとめてしまう。
勝手に盛り上がられてしまっては、もはや断ることもできない。
私の計画では、お昼頃には鷲頭山に着き、さっと化け猫を片付けた後、近くにあるという『温泉』に浸かり、余った路銀で豪遊――そんな優雅な一日を過ごすはずだったのに。
完全に台無しじゃないのよ。
こうして若様が同行することになったわけだが、当の本人はというと、いざ出立となった途端に妙に落ち着きがない。昨日あれだけ煽てられて、「お任せください」などと豪語していたくせに、今はそわそわと視線を彷徨わせている。
だから言ったでしょう。やめておけば良かったのよ。
私は若様の様子を横目で見て、思わず溜め息をついた。
先が思いやられる。
そのとき、杖を突いた鬼一が玄関先まで見送りに出てきた。
まだ腰が痛むのだろう。相変わらず、だらしない。
「じゃあ、嬢ちゃん。時丸、頼んだぞ。」
怪訝そうな私の視線を受け止めながら、鬼一は珍しく真顔でそう告げた。
「はい、行って参りますわ。」
私はそう答え、若様と並んで歩き出す。
こうして私たちは、一路――鷲頭山へと向かった。
竹取の郷から鷲頭山までは、おおよそ七里弱。歩けば六時間ほどの道のりだ。
私一人なら、四時間もあれば十分だろう。しかし――若様を連れた旅路となれば話は別だ。適宜休憩を挟めば、八時間は見ておく必要がある。
……今日中に辿り着くのは、少し厳しいわね。
私は無謀ではない。
昼間ならまだしも、夜の山に入るなど論外だ。敵の正体も、地形も、状況も分からぬまま、相手のテリトリーに踏み込むほど愚かではない。
今日は近くの宿に一泊。
それが最善手だろう。
そんな算段を頭の中で組み立てていると――案の定というべきか、後方から情けない声が飛んできた。
「か、かぐや殿……は、早すぎます。す、少し……お待ちを……」
振り返ると、はるか後ろで息も絶え絶えになりながら、若様が手を振っている。
私は思わず溜め息をつき、足を止めた。
……まだ三分の一も来ていないのだけれど。
今日中に着けると思っていた私が甘かったわね。
若様はようやく追いついたものの、膝に手をつき、今にも倒れそうな有様だった。
さすがにこれ以上は無理と判断し、私たちは街道脇で休憩を取ることにした。
水を飲みながら、若様は自嘲するように笑う。
「か、かぐや殿は……なぜ、これほどお強いので御座るか。
体力なら、ついていけると思っておりましたが……まるで歯が立ちませぬ。
それに比べて私は……なぜ、これほど弱いのでしょうか」
そう言われても困る。
私は生まれた時から強かったのだ。
理由を問われても、「元から」としか答えようがない。
前世では最凶最悪の悪役令嬢として生み出され、
あらゆる魔法、あらゆる剣技を振るい、数え切れぬほどのプレイヤーを絶望の底へ叩き落としてきた。
攻略法が確立されるまで、どれほどの屍を積み上げたことか。
この身に生まれ変わった今も、使える魔法は限られているとはいえ、
かぐや自身の身体能力と、前世で培った格闘の感覚は健在だ。
本気を出せば、今の身体のままでも鬼一と互角――いや、それ以上に渡り合える自信すらある。
それでも。
「若様は、弱くなど御座いませんよ」
私は彼の目を見て、はっきりと告げた。




