皿数えの亡霊②
こ、これが幽霊なの——?
私は、生まれ変わってから初めて目にする“幽霊”なる存在に、息を呑んだ。
生気の欠片もない肌。
血走った、乾ききった井戸の底のような目。
ゲーム世界で私が血の魔法で操っていた死体——《グール》に似ている。
しかし決定的に違う。
この女は、透けている。
フォログラフ……? それとも幻術の類……?
気味の悪さが勝った私は、試すように刀の切っ先をそっと女へ向け、その胸元を突いた。
すり抜けた。
手応えは一切ない。
魔力の波動も、干渉の痕跡も感じられない。
——本当に、何なのよ。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん……くすぐったいわ。やめてくれない?」
女の幽霊は、身をひねるようにくゆらせながら、困った顔をして私を見た。
「あら、ごめんなさい。」
私は刀を引き、思わず姿勢を正す。
すると幽霊は、どこか気恥ずかしそうに私を見つめ、柔らかく笑った。
「変わった子ね。……怖くないの?」
「まあ、別に……怖いとは思っていませんわ。」
素直に答えた途端、幽霊はクスクスと喉の奥で笑い、
「本当に不思議な子。あなた……見た目と魂が、ちぐはぐよ。ねぇ、あなたは何者なの?」
んっ——。
胸の奥に冷たい棘が刺さった気がした。
魂が見えている……?
この女、どこまで感知できるの?
——始末した方がいいかもしれない。
だが刀は通じない。
血の魔法も、肉体を持たぬ相手に有効とは限らない。
それに……背後から、あきこの視線を感じる。
ここで動くわけにはいかない。
私は表情を崩さぬまま、話題をすり替えることにした。
「お姉さんこそ……何者なの? 幽霊みたいだけど、どうしてこんな場所に?」
牽制——そして、観察。
果たして幽霊は乗ってきてくれるのかしら。
そう思った瞬間女は、ふ、と目を伏せた。
その顔には、さっきまでの薄笑いとは違う、深い影が落ちている。
「……お嬢ちゃん。もし良かったら、私の身の上話を聞いてくれない?」
泣き出しそうな声音だった。
興味はまるでなかった。
だがここで拒めば、余計に詮索される可能性がある。
それに、あきこが私とこの女の幽霊を見ている、変に動けば怪しまれかねない。
私は静かに頷いた。
「ええ、いいわ。話してちょうだい。」
幽霊は嬉しそうに目元を緩め、
そして——月光をその身に宿したまま、ゆっくりと口を開いた。
幽霊の女の名は「お鈴」と言うらしい。
生前、彼女は地方の小さな貴族の家に生まれた娘だった。
だが父は、地方で起きた小さな反乱に巻き込まれ、帰らぬ人となった。
残された母は病弱で、頼れる者もなく、二人はこの土地へと流れ着いたという。
生きるためには働くしかなかった。
身分を捨て、町人として身をやつし——
お鈴は《松戸屋》という商人の家に奉公に出たのだそうだ。
なかなかに重たい身の上だ。
柳の下。
月明かりを受け、濡れた髪から水を落とし続ける亡霊を見つめ、私は一瞬だけ哀れみを覚えた。
奉公し始めの頃は、穏やかな日々だったという。
元は貴族の娘。教養もあり、所作も美しく、店の者たちからも可愛がられていた。
そして——
彼女が、幽霊となる切っ掛けとなった出来事は、唐突に訪れた。
「私が……旦那様、《松戸左兵衛》に呼ばれ、皿の手入れを手伝うよう言われた時で御座います……」
「皿、ですか?」
「はい……唐渡りの十枚一組の皿。《彩雲十景》と申します」
彼女の声は、どこか水の底を漂うように鈍く響く。
「鮮やかな雲と景色を描いた、十枚一組の皿……。
一揃いで家が数軒建つほどの価値があると申されておりました。
私は、慎重に一枚ずつ箱から取り出しておりました」
その時——。
「ガチャァン……!」
割れる音が、夜の川辺に幻のように響いた。
「……手が、滑ったのです」
その瞬間、お鈴は袖を顔に当て、嗚咽した。
「旦那様は烈火の如く怒り、『どう償うのじゃ』と詰め寄りました。
どれほど詫びても許されず、折檻され……
そして、父の形見の刀を取り上げられました」
刀を取り上げられた……?
正直、それだけで済んだのなら軽い方ではないかと私は思った。
これほど貴重な皿を壊したのだ。私であれば八つ裂きにしていただろう。
形見とはいえ、刀一本で許されたとも考えられる。
私はその率直な感想を口にした。
すると――お鈴の表情は一変した。
怨嗟と怒りを滲ませた表情で、彼女は遠くを睨みつける。
「違うので御座います……。あれは、罠で御座いました」
「罠?」
「それを知ったのは……私が死んだ後の事で御座いました」
お鈴は静かに語り出した。
絶望と悲しみから、この場所で自ら命を絶ったこと。
だが、残した母の事が心残りで、死にきれず彷徨うようになったこと。
そして――ある日、左兵衛の屋敷へ行った際に耳にした言葉。
「左兵衛が、父の形見の刀を眺めながら……
『やっと手に入れた』と申していたので御座います」
「……どういう意味ですの? そんなに貴重な刀だったのですか?」
私の問いに、お鈴は曖昧に首を振った。
「わたくしは刀について詳しくは分かりません。
ですが……父の持っていた刀は、かなりの名刀であるらしく……
名を『月読』と言うそうで御座いました」
地方貴族に過ぎぬ家が、名刀だと?
「何故、父がそのような刀を持っていたのかは分かりません。
ですが……あの男は、それを狙っていたので御座います」
そして――。
「私が割った『彩雲十景』は、割れてなどおりませんでした」
「え?」
「左兵衛は盗難に備え、偽物の皿を用意していたのです。
私が割ったのは……その偽物で御座いました」
考えてみれば不自然だった。
一枚一枚慎重に扱っていたのに、何故か手を滑らせた事。
「一枚目だけ、油が塗られていたので御座います。
私は……まんまと罠にかかったのです」
なるほど。
実に小賢しい。小物が好んで使いそうなやり口だ。
世の中とはそういうものだ。
騙す者と、騙される者。真面目な者が搾取される構図など、私の知る時代でも珍しくはなかった。
――正直、面白い話ではあったが、私には関係ない。
そう思っていた。
次の言葉を聞くまでは。
「私は……復讐したいので御座います」
お鈴の声は震え、歯を剥き出しにして叫ぶ。
「左兵衛に……。
取り憑こうともしましたが、あの男には通じませんでした。
姿も見えず、声も届かぬ……鈍い男なので御座いましょう」
肩を震わせ、怨念を吐き出すように言葉を継ぐ。
「それでも……私は諦めきれませぬ。
あの男を地獄へ落としたい。
全てを奪い、破滅へ追い込みたい……その一心で、今もこうして……」
――復讐。
――破滅。
不思議と、その言葉に胸の奥が疼いた。
良い言葉だわ。
「お鈴さん」
私は微笑み、静かに告げた。
「よろしければ……私が力になってあげましょうか?」




