蝋燭
昇りかけの日が真っ暗な夜闇を天から追い出してゆく。煙のようにゆらゆらと散っていく闇の残滓と薄い日の光が混じり合って、カーテンの隙間から寝床に染み込んでくる。わずかな暖かみに肌をくすぐられて、俺はむくりと起き上がった。妹はまだ横で寝ている。起こすまいと忍び足で敷布団から出て、階段を降りて一階のリビングへ向かった。
妹のはるなは小学校が夏休みで、俺もたまたまバイトが休みだったおかげで、今日は久々に兄妹二人が揃う休日になった。口うるさい叔母も今日は我が家にはやってこない。手早く機械のように朝の家事を済ませ、子供二人で暮らすには広すぎる家の隅から隅まで掃除していると妹が起きてきた。まだ七時前だというのに自発的に起きてきたはるなに驚いて「まだ寝ててもいいんだぞ、今日休みだし」と一度手を休めて話しかけた。
「ううん、もうおきる。はやおきなれちゃった」
「眠くないのか」
「ねむくない、げんき」
そのまま目をこすりながらぼそぼそと呟き、洗面台に歯を磨きに行く。
早起きに慣れたという一言がこころに引っ掛かって、どうしても素直に早起きを褒めてやることができなかった。崩れかけた家庭を身ひとつで支えるために、朝早くから仕事に向かう兄の生活サイクルを無理やりに押し付けてしまっているようで心が痛む。
本来ならば、俺も妹もこんな苦しみを味わう必要はないはずなのだ。俺はごく普通の大学生で、はるなはごく普通の小学生であれたはずだ。しかし、いくら苦しくても病に倒れて兄妹ふたりだけを残して去っていった父母を恨むことはできない。二人は毒親とは程遠く、貧しいながらも両親なりのやり方で俺と妹に深く愛情を注いでくれた。病死したことで大人二人分の労力が一気に降ってきたとしても、今までの愛情を全て忘れて恨むことなど到底できない。世の理不尽がたまたま自分に降ってきただけだと吞み込んで、生きるために全力を尽くすしかなかった。
はるなにはこれが両親不在の家族なのだと強く言って聞かせるべきなのかもしれないが、小学校二年生にその現実を押し付けるほどの冷淡さを、俺はどうしても持てなかった。わがままを言わず、多くを望まず、幼いながら素直に今を受け入れているはるなには、そもそも世の理不尽を説く必要性を見い出せなかった。
父の後を追うように母が亡くなって四年経ち、何個もバイトを掛け持ちしていたせいで乱れていた生活サイクルも最近では幾分かマシになり、今日のような休みも少しずつとれるようになってきていた。普段は忙しくて兄妹でゆっくりすることはできないのだから、今日のような日は必ず、やるべきことを最低限に留めて二人で心を休めることに注力する。
今日はどうしよう。朝にやるべきことは一旦片付いたし、椅子にもたれてゆっくりしようか。兄妹二人でだらだらする日があってもいいだろう。生活の現状と仕事の圧迫感を頭から完全に追い出すことは難しいが、極力全てを忘れて休息しよう。
水で何倍にも薄めたオレンジジュースをコップに注ぎ、リビングの椅子に座って中古の文庫本を広げる。娯楽が少ない我が家にとって、本の存在は偉大だった。
連絡とわずかな調べものをするためだけにあるスマホではゲームはできない。格安シムの一番安いプランを契約しているから、もしゲームをしようものならすぐにデータ通信の容量が尽きてしまう。動画もとにかく容量を食うし、何しろゲームをやりたい欲を刺激されたくなかったから意地でも見なかった。ゲームと言えば、両親に無理を言って買ってもらった携帯ゲーム機でごくたまにパズルゲームをするだけ。そのゲーム機も最近は動作がおかしくなってきているし、仕事でそれどころではないからほとんど弄っていない。
両親が存命のころはオンラインゲームや流行りの娯楽に多少の興味もあったが、本格的に家計を支えるようになってからは控えた。オンラインゲームをやろうにも環境を整えるだけの金はない。語り合うほどの友もいない。なけなしの稼ぎを削ってまで打ち込むものではない。
その代わりに、本をよく読むようにした。本にはこの世のあらゆる情報が詰め込まれている。一冊読めば、散らばって落ちている知識を少なくともひとつ、多ければいくつか拾い上げることができる。古い本だと情報が遅れているというデメリットもあるが、ネットの情報よりかは圧倒的に信頼性が高い。中古なら出費を抑えられるし、読めば読むだけ教養が積み上がる。娯楽性も高い。初めは活字を読むのが得意ではなくて、何となく暇つぶし程度に読んでいたものの、大量の利点と中毒性を発見してからはのめり込んで読むようになった。
今読んでいるのは大正期の文豪が書いた短編小説で、ある伝説をもとにした話らしい。この作家特有の繊細な描写で描かれる当時の世相は他に類を見ないほど淡く美しくて、自分がその場に立って深呼吸する様をつい思い描いてしまう。
はるなと二人で紙上の世界に迷い込めたら、どれだけ楽しいだろう。叶うはずのないことにあれこれと思いを巡らせてわずかに恍惚とするのも良い娯楽だった。
スピンを手繰って以前読んだところから再び読み始め、二、三ページ進んだところではるなが洗面台から戻ってきた。一度はるなに目をやり、また文に視線を落としたが、視界の端ではるなは微動だにしていない。不思議に思ってもう一度顔を上げ、はるなの方を見た。
「そんなところで黙って突っ立って、どうした」
電気をつけず、自然光のみが差し込むほの明るい部屋の端で、はるなは何故か突っ立っている。よれよれのパジャマを着て、まだ整えていないぼさぼさのショートヘアのすぐ下には苦悶で歪んだような顔があった。心配してあれこれ聞いてみても、突っ立って口をへの字に曲げたまま突っ立っている。
「だって……だって。言いにくいんだもん」
「言いにくいって、何が。言ってみなよ。何でも聞いてあげるよ」
「なに言っても、おこらない?」
「怒らないよ。怒る訳ないじゃん」
目を伏せてズボンの表面を握りしめ、数秒黙り込んだ後に申し訳なさそうな顔でぼそっと呟いた。
「にいにと駄菓子屋にいきたい」
予想もしていなかったことを聞いて、持ち上げたコップを危うく落としそうになった。てっきり何かを壊しただとか、昨日ひとりで出かけて道で何かを落としてきただとか、その類の話だと思っていたのに、まさかわがままだとは。
俺が言わずとも生活の苦しさははるな自身分かっているようで、これまで小学生らしいわがままははるなの口からほとんど聞かなかった。生活品以外に何か欲しいものがあっても、毎月あげている僅かな小遣いで上手くやりくりしているらしく「何か欲しいものはないか、なんでも言ってごらん」と言っても自分からは何も求めることがなかった。
そのはるなが、駄菓子屋に行きたいと珍しく子供らしいお願いをしてきたのだ。せっかく二人で過ごせる貴重な日なのだから、行かないという選択肢はない。親の代わりにはなれないし、人並みのわがままも聞いてやれないが、できることは何でもしてあげたい。そしてまさしく今、運よく願いを叶えてあげられる時がやってきた。
妹の手を引いて古ぼけた町の坂を登って行く。それほど急な坂ではないはずなのに、騒がしい蝉の声と視界のはるか遠くで揺らめくコンクリートのせいで、登頂困難な険しい山のように感じられる。とにかく汗が止まらず、頻繁に立ち止まっては肩にかけていたトートバッグから水筒を出し、先に妹に飲ませた後に、自分は二口だけ飲むことを繰り返した。
気温が三十五度にまで達する猛暑日が何日も続いていたが、今日は運の良いことにそこまで気温は上がらなかった。それでも三十度は超えかけているし、何と言っても暑いものは暑い。全身から汗が染み出してきて、服がぐちょぐちょになって、足を一歩前に出すたびに湿った服と肌が擦れる感触が気持ち悪くて仕方がない。歩みを止めれば、今度は人を狂わせかねないほどの日射が肌に突き刺さってくる。どう行動しようとも、外にいる限り夏場の苦しみからは逃れられなかった。
「はるな、暑くないか? 水飲むか?」
「ううん、だいじょぶ」
左側を見下ろすと、妹はくしゃっとした笑顔を浮かべて、元気に二回飛び跳ねて見せた。使い古した麦藁帽に小さい頭を収め、一張羅の白いワンピース姿で飛び跳ねると裾が滑らかにはためき、その様子を見るとどこか涼しい思いがしてくる。妹がここまではしゃいで可愛らしい笑顔を浮かべてくれるのなら、外に出た甲斐もあったというものだ。右に傾いた麦藁帽を直してやり「気持ち悪くなったらすぐ言うんだぞ」と声をかけると、妹は笑顔で「わかった」と答えて大きく頷いた。
今向かっている千田屋という駄菓子屋は家からそこまで遠くないところにある。家を出てすぐの小径を左に曲がり、そのまま真っすぐ坂を上って行けば十五分ほどで着く。体感では既に十五分経ったように感じられるが、坂を上れば徐々に見えてくるはずの小高い丘と森がまだ見えてこない。
細かいペースで水分を摂り、極力日陰を通って坂を上っていく。あまりに道のりが長くて、千田屋ってここまで遠かっただろうか、と変に疑う気持ちさえも出てきた。蝉の声も嫌にうるさい。コンクリートは熱されて、遠くでは海のように波打って見える。家を出て何時間も外に立っている訳でもないのに、服は既に汗まみれになっている。
「にいに、だいじょうぶ?」
「大丈夫大丈夫。にしても暑いな、昨日はこんなに暑くなかったような気がするけど」
「きのうもあつかったよ」
「そうか?」
俺は滝のように汗をかいているのに、はるなは全く汗をかかずに笑顔を振りまいている。夏の人間の汗臭さというか、人間味というか、そういったものがまるで感じられなくて、薄弱な白い透き通った肌を見ているとこの世のものではないような気さえしてくる。家を出てすぐは他愛もない話を続けていたが、しばらくすると暑さにやられてお互い何も話さなくなってしまった。俺の熱にのぼせた顔を見てはるなは遠慮してくれたのだろう、まだまだ話したがっているようにも見えたがそれを抑えてただにこにこと静かにはしゃいでいた。そうして会話がほとんどなくなると余計に人間には見えなくなって、実の妹であるはずが、幽霊のような妖精のような、この世のものではない美しい何かに見えてくる。俺が手を引っ張っていたはずなのにいつの間にか逆にはるなに引っ張られていて、そうすると可愛らしい精霊に手を引かれ何処かへと導かれているように感じられた。
ふと目をあげると、坂の上の森は既に目の前にまで迫っていた。木々で埋め尽くされた丘は、少し首を上に向けなければてっぺんが見えないほどうずたかい。家からずっと歩いてきた道の正面に丘があって、そこを行き止まりとして道はT字路になっている。千田屋はその左角にあった。
喜ぶはるなを先に冷房の利いた店内へと入れ、自分は外で一口水を飲んでから中に入ろうとバッグに手を掛けた。水筒を取り、生温くなった水を一口飲む。遠出をするわけではないからと氷を入れてこなかったことを後悔しつつ、T字路の行き止まりにある立派な寺門に目をやった。するとちょうど自分が目を向けたのと同時に門から人が出てくるのが見えた。真夏でも厚く法衣を着込んでいる姿はきっと和尚に違いない。和尚の凛とした佇まいをじっと見ていると和尚もこちらに気づいたらしく、こちらを見てにっこりとほほ笑むと、横断歩道を渡って近づいてきた。
「久々ですね、和也君。仕事の方はいかがですか。無理しすぎてはいませんか」
「今のところは大丈夫です。これでもだいぶ慣れてきましたし、前よりかはまだマシですよ。ご心配ありがとうございます」
「いえいえ、何かあればすぐに頼ってくださいね。私にできることならば、なんだってして差し上げましょう」
道の先に建っている門は六百年以上前に建てられたものらしく、刻まれた歴史が醸す重厚感とどこか逆らい難い圧がある。そして目の前に立ってうやうやしく受け答えしている和尚も、一九〇センチ以上あるであろう背丈のせいか、かなりの圧がある。目を合わせようと思うと下から見上げる形になって、太陽が和尚の背にあるせいでただでさえ青白い顔が影に隠れ、優しいはずの笑みが恐ろしいものに見えた。
「何か用事ですか? というか、こんな炎天下の中でそんなに着込んで暑くないんですか?」
「暑いも何も、私にとってはこれでちょうどいいのです。皆さんみたいに薄着でもしようものなら寒くて寒くて凍死してしまいますよ。私は昔からこういう体質なのです。以前どこかであった時にも聞かれたような気がしましたが」
「あ、すみません、聞いたのに忘れてたかもしれないです。和尚さんには何回も会って何回もお世話になりましたけど、でもやっぱりどうしても見慣れなくて……」
和尚は珍しく声に出して軽く笑い、
「そうでしょうね、どこへ行くにも驚かれますし、長年付き合いのある檀家さんにも未だに驚かれることがあります。でも、まあ、これが私にとっての標準的な服装なのですから、仕方がないでしょう。私からしたら、あなた方の服装の方が驚きですよ。私にとっては、それはもう全裸と大差ありません」
と言って、少しおどけて見せた。
厳格に仕事をこなす姿とは裏腹に、普段はお茶目でユーモアがあるこの巨躯の和尚を俺は慕っていた。うちの家の墓は代々和尚のところのお寺に建ててあって、父母が亡くなった時ももちろんこのお寺に埋葬した。それ以前からお盆やお彼岸には必ず家族全員でお参りに行く習慣があり、比較的近所だったこともあって長らく親しくさせていただいていた。
父母が亡くなった時には本当によくしていただいて、一時はお寺の方で我々兄妹を引き取るという話も出たほどだ。なんだかんだあって兄妹二人で暮らし叔母がたまに面倒を見るという生活に決まってからもことあるごとに世話を焼いてくれた。「直接的な支援はあまりできないが、困ったことがあればなんでも言ってください」と、何の見返りも求めることをせず、常に献身的に接してくれた。
和尚の心からの親切を受けて、俺は何度も泣いた。和尚の前でも泣いたことがある。「男だから人前で泣いてはいけない、一家を支えるために強くあらねばならない」と思っていたが、和尚は「そんなことはありません」と心の苦しみや痛みを全て包み込んで受け入れてくれた。もし和尚が存在しなくて黙々と苦痛を溜め続ける生活をしていたならば、今のように妹と二人で何とか家族らしい生活を送ることは不可能だっただろう。あり得たかもしれない暗い未来は想像するだけでも恐ろしい。
それにしても、和尚のこの姿を見て驚かない人間は誰一人としていないのではなかろうか。平安時代の十二単でもまだ薄いんじゃないかと思わせるほどの厚着のせいで、間違いなく細くて華奢であろう和尚の体型が異常にゴツく見えてくる。一見三十代前半くらいに見える顔は汗ひとつかかずにこちらを見てにこにこしている。以前に確か歳は五十代くらいだと聞いたはずだが、青白さも相まってか妙な若々しさがある。
「くどくて申し訳ないんですけど、これ本当に暑くないんですか? なかなか信じ難いんですけど」
「本当にこれでちょうどいいんですよ。暑い寒いよりも、ここまで着込んでいると重量の方が気になってきますね。だいぶ重いせいで極度のなで肩になっちゃいました」
和尚本人は極度のなで肩だと言っているが、ここまで重ね着されていると、もはやなで肩なのかどうか外から見ただけでは全く見当がつかない。ぱっと見は普通の肩──傾斜が普通なだけで、異常に盛り上がっている姿はまずもって普通ではないが──に見えるし、なで肩だと言われればそう見えなくもない。実に不思議なシルエットをしている。
顔は青白いし、服を着込み過ぎているせいで人間には見えないし、もし夜中にばったり遭遇してしまったら間違いなく腰を抜かすだろう。
「ところで、はるなちゃんはどうされましたか。てっきり一緒かと思ったのですが」
「一緒ですよ。はるなに『駄菓子屋に行きたい』って言われちゃいまして。今日はバイトも休みだったんで、二人でここまできたんですよ」
古びたガラス窓から店内を覗き込むと、外側の真新しい真っ白な壁面とは打って変わって、昔ながらの駄菓子屋の景色が広がっている。壁の棚中に配置された駄菓子とおもちゃに囲まれて、その真ん中にはるなはいる。大量に置かれた駄菓子による店内の狭さは決して嫌なものではなくて、その狭さがどのお菓子を選ぼうかというワクワク感へと変化していくのが分かる。一瞬見えたはるなの瞳は好奇心で輝いていた。
「和也君も良い大人になりましたね」
店内をじっくり見ていると急に横から和尚が話しかけてきて、右耳のすぐ横で声が聞こえたせいで驚き、つい反射で和尚の方に向き直った。
「今の君は安堵の表情をしている。妹がお菓子選びに夢中で全然出てこなくて退屈だとか、早く出てきてほしいとか、俺も一緒にいっぱいお菓子買いたいだとか、そういう極一般的な兄としての表情じゃない。今の君は完全に親、保護者としての顔をしている」
「俺が親ですか」
「親であって、兄でもある。なかなか、やろうと思っても簡単にできることじゃありません。素晴らしいことです」
そう言うと、和尚は身をかがめて俺の真横から小さな丸窓を覗き込み、優しく微笑んでみせた。
「そうそう、せっかくですのでうちの寺に寄っていきませんか。外はまだ暑そうですし、買ったおやつでも食べて、少し涼んでいくと良いでしょう。こういう機会もそうそうないですから、おもてなししますよ」
T字路の突き当りにある門を抜けると、外の住宅街からは完全に隔絶された荘厳な自然が広がっていた。入口である門から整然と並べられた石の階段が一直線に走っている。その道の横には樹木がほとんど均等に生えており、その先を見通そうとしても木々の層が分厚過ぎて見通すことはできない。杉なのか欅なのか、木の種類は俺には分からない。分からないというよりも、今まで見たことのある木のどれとも異なっていて、どの木にも似通っている。見たことがあるようで見たことがない木とでも言い表そうか。俺が知らない木なだけかも知れないが、どことなく、そうではない気がする。父と母を埋葬する時は木どころではなかったからか、全く気が付かなかった。果たして、もし本当にここにしかない樹木なのだとしたら。またはこの場所自体が、門の外の世界とはどこか異なるスタンドアロ―ンの世界なのだとしたらどうだろう。
久々にお寺の雰囲気に浸ったせいか変なことを考え始めてしまって、胸の奥でさざ波の立てる音がどんどん大きくなっていくような感覚に見舞われて、よっぽど俺たち兄妹の前を歩く和尚に声を掛けようかと考えた。しかしどうしても声を掛けられなかった。今声をかけてはいけないような、そんな雰囲気が漂っている。道の横に生えているこの木は一体なんて言うんですかと思い切って聞いてみたかったが、聞いた瞬間に和尚はこちらを振り向いて、何枚も重ね着した法衣が全て周辺に飛び散ってしまって、包み込まれていた和尚が何処かへと消えて行ってしまうような気がして、何も聞けなかった。
しかしおかしい、確かに法事の時は何ともなかったはずだ。ごく普通のお寺で、両脇の林も一番先の外にある住宅街まで見渡せたはずだ。親の葬式の時も和尚は法衣を着込んでいたが、ここまでの量を着ていただろうか。今や清閑な林はどこか幻想じみた森と化している。前を歩く和尚は明らかにこの世のものではないように感じられる。
本堂までの道のりは長い。丘は均等な円錐のように頂点が中心に添えられているわけではなくて、この丘の場合門から見て奥側に頂と本堂があり、そこに向かって緩い傾斜が延々と続くようなつくりになっている。
日の光がほとんど樹木の葉に遮られているおかげで全く暑くはなかった。今頃外は三十何度になっているだろうか。どうしても気になって携帯を取り出し外の気温を確認しようとすると森の中は圏外になっていて、家を出るときに見た二九・六度で表示は止まっていた。
「ご覧の通り森の中ですから、おそらく電波は届きませんよ。まあ、安心なさい。本堂のあたりは開けていて電波が届きますから、何かあれば私がスタスタ走って本堂まで行って連絡してきますよ」
少なくとも、和尚の謎のユーモアはいつもと変わらなかった。「そんな着ぶくれした巨体でどうやって石段をスタスタ走っていくんだよ」とツッコミを入れられるのを待っているのか、変ににやにやした顔でこちらを振り向いた。しかし、俺は今ツッコミを入れられるような気分ではない。
「おしょさん、走っていくのむりでしょ。こけちゃうよ。代わりにはるなが走る!」
「ああ、ちょっと、はるなちゃん、待ちなさい」
俺の代わりに即座に反応したはるなはそう言うなりワンピースの裾を軽くたくし上げて、幅の広い石段を物ともせずに軽快に駆け上がっていく。それを見た和尚は「そういうことじゃないのに」と言わんばかりの困り顔をして、これまた法衣をたくし上げて追いかけていった。法衣の影から見えた和尚の足は想像通り細かったが、階段に足をついて踏ん張り上に跳ね上がる時に、ふくらはぎには力こぶのような隆々とした筋肉が確かに見えていた。空中に踊り出した足はまたほっそりとした状態に戻って、再び地に足が付くと筋肉が浮かび上がる。明らかにその細い足からは想像できない筋肉が浮かび上がってくるのを見て、恐ろしいだとか気持ち悪いだとか言う感情を通り越して、「あの和尚らしいな」という、どこか滑稽な気持ちが沸き上がってきた。
いくらか先を走っているはるなは飛び跳ねた拍子に麦わら帽子を落とし、その麦わら帽子は階段を転がって俺の方に向かってくる。和尚ははるなを追いかけながら「あああああ」と変な悲鳴のような声を上げて帽子をキャッチしようとするが、帽子は既に和尚を通り過ぎたあとだ。和尚は帽子を諦めて俺に託し、再び前を向いてどんどんと駆け上がるはるなをひたすらに追いかけて行く。白いワンピース姿で笑いながらきゃっきゃと階段を駆け上り、幾重にも薄い記事の法衣を重ねたせいで暗くくすんだ色をした巨体が慌ててそれを追いかけるさまは、まるで天使と悪魔が追いかけっこをしている姿のように見えた。先行する二人のあとを木漏れ日が照らし出し、俺の前に広がる石段は星をちりばめたように輝いている。俺は転がってきた麦わら帽子をしっかり捕まえ自分の頭の上に乗せ、先の二人を追いかけて輝く道をただ真っすぐに歩いた。
ようやく石段と本堂の境い目に建つ門が見えてきた時、道の傍らで和尚が息を荒くして膝に手をつき休んでいた。
「和尚さん、あんなに早く走れるんですね。ちょっと見直しましたよ」
「そりゃあ、私だってやるときはやりますよ。お坊さんっていうのは意外と暇なものでしてね。時間が空いている時はトレーニングだってしているんですから」
はるなを追いかけている時に見たふくらはぎの筋肉はトレーニングでどうこうなるようなものではないように見えたが、面倒なことになりそうだから突っ込むことはしなかった。
「ところで、はるなは」
「おそらくもう本堂に着いていると思いますよ。見ての通り、私じゃ追いつけませんでしたよ。活発な若い子には流石に敵いませんね」
「俺ですら無理なんですから、和尚さんは無理ですよ。休み休み先に向かいましょう」
よっぽど無理をして走ったのか、ずっと膝に手をついて動けなさそうにしていたから自分の肩を貸し、支えながらゆっくりと登っていくことにした。法衣の布が薄いおかげで何とか肩に手は回ったものの、布が重なり過ぎているせいで和尚の腕を肩に乗せて支えているというよりかは布の塊を肩に乗せているといった感覚に近かった。唯一触れられた和尚の手は遺体のように冷たく、無機質で、全くと言っていいほど血の気を感じなかった。
「すみませんね、体をお貸ししていただいて」
一段一段、足取りを揃えてゆっくりと登っていく。先ほどまで恐ろしく見えていた森も穏やかな風が吹いて、葉が揺れて擦れる音が耳に心地よく響いてくる。斑になった暗がりも木漏れ日で輝いている。てっきり先に着いたはるながずっと一人でいることに飽きて戻ってくるかと思っていたが、予想に反して全く降りてくる気配がない。いささか心配になりながらも今は和尚を優先して一緒に石段を登って行った。
「はるなちゃんなら大丈夫でしょう。きっと本堂で大人しく待っています」
「そうですかね。はるなを心配していたの、もしかして見透かされました?」
「ええ。君は親や保護者の顔をしているとさっき言ったでしょうに。分かりやすいのですよ」
「そういうもんですかね」と呟いて再び黙々と歩いていると、和尚がおとぎ話をするような口ぶりでひとつ話をし始めた。
「ところで和也君。君に我が靖光寺の蝋燭のお話をしたことはありましたかな」
「いや、まったく。子供のころに聞かされそうな話ですけど、俺は覚えてませんね」
「あら、そうでしたか。だとすると、はるなちゃんにお話ししたのと勘違いしていたのかもしれません。まあ、このお話は昔から、あまりむやみやたらに口にするようなものではないとされていますから。本当にたまに、気が乗った時にしかお話ししないのです。子供向けの朗読とかに仕立て上げたらかなりウケそうなお話ではあるのですが、流石にそうはできませんからね。道はもう少しありますし、せっかくなので話して差し上げましょう」
息が整ったようで、もう支えていただかなくても大丈夫という風に俺の肩から手を引き、一段一段足で確かめるようにゆっくりと登りながら、和尚はここ靖光寺に伝わるある伝承を語り始めた。
「もしかしたらご存じかもしれませんが、私めの寺は室町時代からの由緒あるお寺でして。お殿様との関係で何度か遷座もありましたが、それでも創建当時から現在までずっと語り継がれてきた伝承がいくつかございます。そのうちのひとつである蝋燭のお話をいたしましょう。
靖光寺の本堂と周辺の建築物にはいくつもの部屋がございます。そのうちのどの部屋にも、必ず一本は蠟燭が置かれ、火が灯されているのです。伝承だとその蝋燭に灯された火は全て消えることなく、蝋燭自体も溶けて減っていくことなく常に火が灯されていたそうです。現代では科学技術が発展し、蝋燭にちょいと手を加えれば再現することもできそうですが、その技術がなかった当時の人々からしてみれば、当然消えるはずのものが消えないというのはどれほど恐ろしく気味の悪かったことか分かりません。
さて、その蝋燭ですが、不思議なのは無限に火を灯せるところだけではございません。江戸時代も末期、天保年間の秋のある夜、一匹のねずみが、その時の和尚が寝ていた部屋に迷い込みました。ねずみが迷い込むこと自体は珍しいことではなかったようで、物音で目覚めた和尚はその原因がねずみだと分かると再び床に入って眠りにつきます。もちろん和尚の部屋にも一本の消えない蝋燭があって、夜でも部屋はほの明るい光で照らされていたようです。しかし一旦は眠りについたものの、どたどたという物音があまりにもうるさくて良く眠ることができません。それもねずみが走り回る軽快な音ではなく、まるで猛獣かのようなずっしりとした重みのある物音が聞こえてきます。まさか熊でも迷い込んだのかと、和尚は怖くなって蝋燭とは反対の方に寝返りを打ち、狸寝入りでやりすごそうとしました。ですがそもそもふすまを開け放って寝ていた訳でもあるまいし、熊のような猛獣が迷い込むはずがありません。それに気づいた和尚はいよいよ不気味に思えてきて、改めて物音の原因を確かめようと、何とか決意して目を開けました。すると、蝋燭に灯った火でほの明るく照らされていたはずの部屋は真っ暗になっているじゃありませんか。消えずの蝋燭が消えていたのです。何が起こったか分からず、和尚は起き上がり恐る恐る蝋燭のある方へ眼を向けました。するとそこには数十年前に病で亡くした姉が生きていたころの姿で座っていたのです。一度は姉との再会を泣いて喜びましたが、なぜ死んだはずの姉がここにいるのでしょうか。よく慕っていた姉は数十年前に病で倒れ、この手で火葬し、この手で墓石の下へと葬ったはずです。いま再び目の前に現れることはあり得ません。ふと火の消えた蝋燭の方を見ると、蝋燭は先の方がかじり取られて無くなっていました。かじり取られた後にはくっきりと小動物の歯形が残されています。獣は火を恐れて近づかないはずなのに、蝋燭は確かに先の灯火ごとかじり取られていたのです。
ふすまには開けられた形跡はなく、蝋燭をかじったはずのねずみはいない。そしてこの場にはどこからともなく出てきた亡き姉だけが座っている。和尚はこれらの事実と寺に遺る古い記録から目の前の姉を物怪の類と見極め、大事になる前に祓うことに決めました。しかし、お祓いをはじめとして、幽霊のような化け物が嫌うことをどれだけやっても姉は消えません。神社にお祓いを頼みにいく訳にもいかず、万が一の時に備えて隠し持っていた刀を取り出して泣く泣く首を刎ねると、姉の血と体は砂の様に消え失せ、首を斬られたねずみだけがその場に残りました。ねずみを弔おうと外のふすまを開けば、夜空にはそれは見事な満月が浮かんでいて、庭先に生えたすすきは穂にまばゆい月光を受け、星々と見まがうほどに輝いていたのです。
これが最も信憑性が高く一番大切に語り継がれてきた蝋燭の伝承、天保の言い伝えです。しかしこのお話の中にもあった通り、蝋燭の奇妙な言い伝え自体ははるか昔から伝わっているのです。先々代の住職が蔵の中を調べたところ、確かに蝋燭の言い伝えのようなものが記された巻物がいくつかありました。いつどういった状況で消えずの蝋燭をかじって、何から何に変化したのか。また何かに変化せずとも、蝋燭周辺で起こった不可思議な出来事を全て事細かにまとめていたようです。先々代から聞いた話だと、蝋燭をかじったり舐めたりしたからと言って必ずしも別の生物に変化するわけではないのだそうで。しかし、火を消した場合に限っては、何か特別なことが起こるそうでございます。記録は創建した年の十二年後から十七世紀中盤までみっちり書き込まれていたらしいのですが、何故かその後の記録は全くなく、天保になって先ほどの言い伝えがぽっと出てきます。
最後に、天保の言い伝えとそれ以前の記録には、他の伝承にはほとんど類を見ない、ある特徴があるのです。それは、伝承に関わった重要な物品の大多数が現存していることです。天保の言い伝えの中でねずみがかじった蝋燭はもちろんのこと、和尚が姉の首を斬った刀も蔵で保管してあります。それ以前の記録に登場する蝋燭や物品も蔵の奥で丁重に保管されてありました。天保の言い伝えに出てくる刀はいくら現存しているといっても本当に首を斬ったのか信用し切れず、一度研ぎ師の方に見ていただいたことがあります。研ぎ師の方が言う事には、この刀には人を斬った際に必ず付く人の油と錆がべったりと染み付いていて、人を斬ったことは間違いない、ただその錆び方が今までどんな刀でも見たことがないものだったそうな。
そして一番の問題である消えずの蝋燭ですが、欠損のない完品は四本のみ現存しております。もちろん、今でも火はつき続けていますよ。部屋に一本は立ててあったくらいですから昔はもっとあったでしょうに、今ではここまで少なくなってしまいました。そのうちの一本を今日は本堂に出しているのです。一休みするついでに、ご見学されていってはいかがかな。私はあの蝋燭が灯す何とも言えない独特な火が大好きでね。せっかくですし、君にも見てもらいたいんです」
石段を登りきり、門をくぐってずっと斜め下を向いていた顔を前に向けると、地面を埋め尽くすばかりの墓石が現れた。墓石たちは皆ひしめき合い、所狭しと乱立している。すこし奥に大きく構えている本堂への細い一本道を囲み合って、無いはずの目を俺と和尚に向けて何やらひそひそとささやき合っている。和尚が前を歩けば細い道は開けて広くなり、その後を追って歩く俺の後ろは墓石が集まってきて道が無くなっている、現実的に考えてそんなことあるはずがないが、どうしてもそんな気がしてならない。いや、既に現実味が失われつつあるこの森の中なら、あり得てもおかしくないだろう。
思い切って後ろを振り向く。墓石は小径に沿って並び、その顔は俺と和尚ではなく道に向いていた。道は残っているし、門も見える。
「どうしましたか」
「いや、何というか。馬鹿にされるかもしれませんけど、俺の後ろで墓石が道を埋め尽くしてしまっているような気がして」
「大丈夫ですよ。怖がることはありません。確かに他のお寺さんよりもちょっとお墓の数は多いですけれど、墓石が動いて道を埋めるということは流石に」
「あり得ませんよね」
「……確か明治くらいの雑記にそんな伝承があったような気がします。私の勘違いかもしれませんが」
このクソ坊主は本当に要らんことを言ってくれる、と冷や汗にまみれた拳で後ろから頭を殴りつけそうになったが、何の前触れもなしに本堂の中から聞こえた悲鳴で怒りはすぐに収まった。きゃあとか、うわあとか、そういった驚くような悲鳴ではなく、魂の根幹、肉の塊をむんずと切り裂かれたような、断末魔に近いものだった。
「なんですか今の」
「ここには私しか住んでいませんから、はるなちゃんでしょうか。何かあったのかもしれません、急ぎましょう」
和尚が言い終わる前に俺は走っていた。和尚の横を通り過ぎた時にちらと見えた和尚の顔は不気味なほど冷静さを保っていた。冷静というよりも冷酷だ。誰が発したものであれ、人の悲鳴を聞いて眉ひとつ動かさず前を見ている。死んだ目の下で、口角が若干上がっていたようにも見えた。
対して俺の顔は今どうなっているだろう。きっと眉は垂れ下がり、唇は波打って、ぐちゃぐちゃになっているのではないだろうか。
いつもの人想いの和尚なら心配してすぐさま駆けつけるだろうに、そうしないということは何かあるのだろう。それともいつもの和尚の姿は偽善で懲り固めているだけで、今たまたま見せた冷徹さが本性なのだろうか。いずれにしても信じたくないことだ。今の悲鳴も、和尚の顔も、この森と寺でさえ、すべてが嘘であってほしい。
本堂の正面にある扉を開け放つと、天井を突き抜けんばかりの背がある大きな本尊の前で、はるながぺたんと座り込んでいた。
「おい、はるな、はるな、大丈夫か」
すぐさま駆け寄って揺り動かしても反応はない。すぐ横には背の低い蝋燭立てが倒れていて、その上に繊細な草花の文様を全面にびっしりと絵付けした蝋燭が一本刺さっていた。何となく直感的にそうなのではないかと思っていたが、やはり蝋燭の上部はかみちぎられていて、くっきりと歯形が残っている。周りには何の絵付けもない普通の蝋燭が燭台に立てられて何本も置かれ、日の光を遮って薄暗くなった本堂を薄っすらと照らしていた。
一目で歯型の付いているこの蝋燭が和尚の言っていた消えずの蝋燭であると確信した。鎮座している本尊の前や本堂の端々に立っている蝋燭とは明らかに違う。絵付けも独特なものであるし、外見以外にも嗅いだことのない不思議な匂いがする。香でも練られているのだろうか、しかし一般的な線香や香水のような匂いとは明らかに異なる。雪が降り積もる極寒の日に灯されたただひとつの火の温かみを凝縮して、そこに牡丹のエキスを一滴だけ注いだような、強いて言えばそんな匂いだ。
夕方でもないのに本堂は薄暗く、そびえ立つ本尊だけが周辺の蝋燭の火を反射して、てらてらと妖しく輝いていた。目はちょうどこちらを向いている。目にも火の光が反射して爛々と輝き、金銅の像はまるで生きているかのように見えた。
「御二方とも大丈夫ですか」
本尊の右奥にある扉から和尚が現れて、すぐそばにあった机に、華麗な袋に入った一本の杖のようなものをそっと置いた。俺が本堂に入ってから、和尚が裏手に回れるほどの時間は経っていない。しかし確かに走って追い越したはずの和尚が本堂の正面とは逆側から現れたとしても、もう驚くことはなかった。
「はるなが」
「蝋燭を食べちゃったようですね」
「はるなは蝋燭の事知ってるんですか。はるなには蝋燭の話をなんて言ったんですか。あの話を聞いて、じゃあ食べてみようなんて思う人間はいないでしょう!」
「いやいや、何か変な疑念を持たれているようですけどね、私はちゃんと正しく話しましたよ。話したはずです。確かにその話の途中で蝋燭の味がどうだとか、蝋燭の形をしたお菓子をいっぱい置いているお寺さんがあるだとか、そんな話を織り込んだような気もしなくはないですけれども。幾分か前のことですから、はるなちゃんの中で話がごちゃまぜになっちゃったのかもしれません」
和尚は本尊側から俺と妹を見下ろしていた。薄暗い本堂の中で顔に影が差していても、その影の奥にある口元は歪み、いやらしい笑みを浮かべているのがよく分かる。後ろの本尊と和尚のシルエットが重なることで和尚の影はより一層深まって、その姿は獲物に対して目を光らせる猛獣と大差がなかった。闇の中に目玉が二つだけ浮かんで、蝋燭の火を瞳孔に灯して光っている。
「食べてしまったものは仕方がありません。ねずみは人に化けて変わりましたが、人が蝋燭を食べたらどうなるのでしょうね。記録にも何件か人が食べた例はありますけれど、如何せん数が少ないので正直参考になりません。ここは落ち着いて、新たな伝承が生まれるところを刮目しようじゃありませんか」
「解毒剤とかないんですか。蝋燭の伝承がひとつやふたつじゃなくて何個もあって、事細かに記してる記録書があるのならそのくらいあるでしょう。俺のたったひとりの肉親をここで失うわけにはいかないんですよ。わかるでしょ、和尚さん」
今の緊張感と警戒心が少しでも薄れたら、目元にたっぷりと溜った涙は全て流れ出てしまうだろう。泣きたいわけではないのに、まだはるなが失われてしまったと確定したわけでもないのに、涙はじわじわと滲んでくる。
そもそも和尚はなぜはるなに蝋燭を食べさせたのかが分からない。別にただ人間に食べさせて伝承をその目で見てみたいのなら食べさせる対象は俺でもよかったはずだ。それ以前に和尚は本当に蝋燭を誰かに食べさせたかったのか。ただの偶然じゃないのか。不気味だけど優しいあの和尚が、こんな人体実験まがいのことをするのか。誰かが裏で糸を引いているんじゃないかとも思いたい。しかし、俺の自分勝手なそれら全ての願い事は、これを狙っていたと言わんばかりに釣り上がった和尚の口角と目によって一切合切否定された。
和尚が本尊側の一段高くなった場所から降りてこちらに歩み寄ってこようとした時、それまで俺の腕の中で苦悶の表情を浮かべぐったりとしていたはるなが目を覚ました。さっきまで無邪気に走り回っていた姿はどこにもなく、異常な量の汗をかき、小さな口からは煤臭い息が絶え絶えに出ていた。さらさらとして軽やかだった純粋無垢なワンピースは汗をふんだんに吸い込んでじっとりとしていた。
「和也君、一応君にこれを預けておきましょう。これが一体何かはさっきの話を聞いていた君なら分かりますよね」
和尚は傍らに置いていた竹刀袋のようなものをいつの間にか手にしていて、手を伸ばせば届く距離まで近づいて俺の横に丁重に置いた。袋を握って確かめるまでもなく、鍔の部分が浮き上がっているところを見れば中身が刀剣の類であることは誰の目にも明らかだった。
はるなは薄目を開け荒い息の中で何かを伝えようとしているらしいが、声が音として届かず何と言っているのかが分からない。しかしアクションはそれだけで、何か他の生物に変わってしまいそうな兆候は全くない。もし人間ではない他の生物に変わってしまったら、きっと始末は自分がしなきゃいけなくなる。解毒剤はあるのか分からないし、そもそもの元凶は十中八九和尚にあるのだが、自らの妹の始末を今の和尚に任せるわけにはいかない。
もちろん実の妹を自らの手で殺したくはなかったし、最後の肉親ともなればなおさらだった。仮に他人だとしても女児を手にかけることは誰だってしたくないはずだ。だから俺はずっと「頼むから何にも化けないでくれ、そのままの姿で何も変わることなくまた俺の目の前に戻ってきてくれ」と精神が擦り切れそうな思いで必死に祈った。とにかく祈り続けても苦しそうにもがくはるなの姿は一切変わらず、化け物にもならず、かといって元にも戻らず、結果の出ない時間が延々と続いた。少しでも楽になってほしくてそっと横にしようとしたがはるなの手が俺の腕を掴んで離さず、水を飲ませようとしてもはるなは何かを口に含められるような状況ではなかった。その間もずっと、和尚はただ上からじっと見下ろしているだけだった。
するとはるながまた何かを言おうとして口をぱくぱくさせ始め、もう何も聞き逃すまいと耳を口元に近づけると、
「にいに、お母さんと、お父さんが、ね、そこに、いるよ」
「父さんと母さんが? どこに」
「ここ」と震える指先で俺のすぐ右と左を順に指さし、力が足らないのかそのまま腕をだらんと垂らした。
「はるなのことは、乗っ取りたく、ないって。代わりに、伝えてって。苦労を、かけさせて、ごめんね、だって、さ」
はるなは口元を緩めて微笑みかけながら、荒い呼吸の隙間に優しく音を乗せて、父母の代わりに伝えた。そして力を失ったはずの片腕をゆっくりと持ち上げ、俺の頭を優しく、指先ひとつひとつで確かめるように撫で、再び力をなくしてぼとりと床の上に腕を落とした。おそらく本当に俺の横に両親が居て、蝋燭をかじってしまったはるなの体を乗っ取る代わりに腕だけを借りて俺を撫でたのだろう、はるながはるなの意思で腕を持ち上げて頭を撫でた風ではなく、どこからか支えられて腕は持ち上がり、撫で方は昔両親がそっと頭を撫でて抱擁してくれた時のものと何一つ変わらなかった。腕を降ろした後はまるで台風が過ぎ去ったように安らかになり、汗も引いて、すっと気を失った。まさか死んでしまったのかと一瞬ぎょっとしたが心臓はゆっくりと鼓動していて、最後に力を振り絞りこと切れてしまったわけではなく、ただ体力を使い果たして気絶しただけだった。
和尚の方を見上げて顔を覗き見ると、嫌ににんまりとした顔は終始寸分も変わっていなくて「よかったじゃありませんか。少し寝たらまた元気になるでしょう」と言い残し、刀を携えて本尊の横の扉から奥に下がっていった。
緊張が解けたのか思わず涙が目元から零れ落ちて、今はそっと安静にしておかなければいけないことも忘れてはるなを抱きしめた。純白のワンピースに涙でシミができてしまうことも顧みずに自分のくしゃくしゃになった顔を押し付け、嗚咽を漏らしながらはるなの頭を撫でた。いくら本堂が広いからと言っても肌で分かるほどの風が吹くはずはないのに、風のような一種の気配のようなものがすぐそばを過ぎ、本堂内に立ててあったいくつかの蝋燭の火を吹き消して、どこかへと去っていった。
(了)