第8話 桜の花を咲かせましょう
はじめての方は、第一話「食堂の鳴らないピアノ」からどうぞ
春風がそよぎ、城下町の空には淡いピンクの桜が満開の花を咲かせていた。
ヴィンクルムの店先にも小さな枝が飾られ、やわらかな花びらがふわりと舞う。
アルトは窓越しにその景色を眺めながら、胸の奥に深く刺さる後悔を押し殺していた。
「なぜあの時、もっとアネモネのことを知ろうとしなかったのか……」
忙しさにかまけて、彼女の置かれている状況に気づけなかった自分を責める。
桜の花びらが風に揺れ、記憶の扉が静かに開かれた。
あの頃、宮廷勤めとなった私は毎日を着々とこなしていた。
自他共に認める秀才、困難などないと思っていた。
だが、王女殿下に季節より早い花見をせがまれ、無茶ぶりが回ってきた時だけは違った。
他の役人たちは面倒がり、私にその仕事を押し付けたのだ。
断るのはプライドが許さず引き受けたものの、桜はまだつぼみも膨らんでおらず、困り果てていた。
そんな私の前に現れたのが、清々しい笑みを浮かべた彼女だった。
「どうしたんですか? まだ桜は咲いていませんよ」
変わった男を見るような目で見つめられ、だが侮蔑は感じられなかった。
「私はアネモネ=リオメイル。王立地質院に勤めています。その……一応、植物や地学の専門なので、この木の品種くらいはお教えできますよ?」
そのときの彼女は、いつもの研究所の白衣ではなく、淡い桃色のストールを肩に掛けていた。
「助かります。……私はアルト=クローヴェル。宮廷で秘書官をしています」
名乗った瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。
「ああ……そのお名前、聞いたことがあります」
「……どういう噂です?」
「優秀で真面目、でも無茶な案件も断らないから、最後には全部押し付けられる……とか」
私は小さくため息をつき、事情をかいつまんで話した。
「……で、王女殿下が“季節より早く桜を見たい”と仰って。誰もやりたがらず、最終的に私のところへ回ってきたわけです」
アネモネは一瞬目を丸くしたが、すぐにくすっと笑った。
「なるほど。……それで、この時期に桜を咲かせろと? やっぱり噂どおりですね。無茶ぶり請負人」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「いいえ、同情も半分くらいありますよ」
その言い方は軽やかで、けれど不思議と温かかった。
枝先に指を伸ばすと、蕾を包む薄い産毛をそっとなぞり、わずかに目を細める。
観察の手つきは、長年の癖なのか迷いがない。
「……やはり思った通り。この樹は“エオリア・サクラ”の一種ですね。陽を好みます。暖かくしてあげれば、少し早く咲くこともあるんです」
振り返った彼女の横顔に、冬の光がかすかに差し込んでいた。
その声は、冷えた空気にやわらかく溶け、今でも耳の奥に残っている。
「一本だけなら咲かせられます。でも、季節に干渉する魔道具が必要です」
そう告げられ、私は宮廷からの紹介状を片手に、城下町じゅうの魔道具屋を片っ端から回った。
季節を操る類の品はもともと数が少なく、どの店主も首を振るばかりだ。
「またその魔道具かい」と苦笑されるたびに、焦燥が胸を締めつけていく。
日は傾き、石畳の路地には長い影が伸びていた。
途方に暮れかけ、これで最後と決めた小さな店の扉を押し開けた、その瞬間——。
「あ……」
カウンターの奥に、彼女が立っていた。
淡い色の外套を脱ぎかけた手を止め、こちらを見て微笑む。
「やっぱり、なかなか見つからないですよね。……でも、ありましたよ、最後のひとつが」
机の上には、彼女が探し当てた季節干渉用の魔道具が置かれていた。
どうりで何軒かの店で同じ反応をされたわけだ……と悟った瞬間、胸の奥から込み上げるものがあった。
魔道具の設置位置を決める私に、アネモネは桜の枝を支えながら笑う。
「もう少し右です。……そう、その角度で固定してください」
「了解です。しかし、研究所の方は現場でも指示が細かい」
「当然です。桜に失敗は許されませんから」
冗談めかす私に、彼女は軽く肩をすくめ、慎重に魔力を注ぎ込む。
ひときわ強い風が枝を揺らし、硬かった蕾がわずかにほころんだ。
「ほら、始まりましたよ」
その声は、春そのもののように明るく弾んでいた。
魔道具の淡い光とともに、蕾は次々と花開き、やがて枝いっぱいに淡紅の桜が咲き誇る。
見上げる私の視界に、花びらと彼女の笑顔が重なり、胸の奥が熱くなるのを感じた。
――私たちの桜は確かに咲いた。
その後の花見会は王女殿下も大喜びで、宮廷は華やかな花見会に包まれた。
片付けを終え、夜気を含んだ春風が満開の桜を揺らしていた。
花びらが舞い落ちる音すら聞こえそうな静けさの中、私はそっと腰を下ろす。
彼女も隣に腰を下ろし、額にかかる髪を耳にかけながら「やっぱり綺麗ですね」と微笑んだ。
その横顔に目を奪われ、胸の奥に溜まっていた言葉が、もう抑えきれなくなる。
息を吸い、吐き、震える指先で彼女の手を包む。
ひんやりとした指先が、やがて私の掌の温もりに溶けていくのを感じた。
「……私と、結婚してください」
言葉を口にした瞬間、心臓の鼓動がやけに大きく響いた。
桜の花びらが二人の間をゆらりと通り過ぎ、その軌跡が永遠の印のように思えた。
驚きの表情を浮かべた彼女は、
「いきなりすぎです!」
と笑った。
「今じゃなきゃダメなんです。桜は散ってしまうから……」
しばらくの沈黙の後、彼女は優しく微笑みながら言った。
「……わかりました。でも、一つだけ約束してください。毎年、桜を二人で見に行くこと」
私は力強く答えた。
「わかりました。お約束します」
桜の花びらが静かに舞い降りるなか、二人の新たな物語がゆっくりと動き出していた。
桜の花びらが春の風に乗ってゆらゆらと舞う中、アルトは窓辺に立ち、深く胸を締めつける後悔に浸っていた。
忙しさの中で見落としてしまった妻アネモネの本当の想い。彼女の笑顔や約束が、今は遠い記憶の彼方に霞んでいく。
淡いピンク色の花びらは、儚くも美しい時間の象徴のようだった。
そんな静かな時に、突然明るい声が彼の耳を打った。
「アルトさん、花見行きませんかー?」
振り返ると、ミヤビが満面の笑みで手を振っている。
「山の中に、一本だけ大きな桜の木があるんですよ。穴場で誰も知らないんです」
その無邪気な誘いに、アルトは少しだけ肩の力が抜けて、微かに笑みを浮かべた。
しかし、ふと気になり口にした。
「オーナー、店は大丈夫ですか?」
エーリは軽く肩をすくめて言った。
「たまにはいいじゃないですか」
それに対してアルトは、半ば呆れたように決め台詞を口にする。
「まったく、君とはウマが合いませんね」
三人の間に、ほんの少しだけ柔らかな空気が流れた。
春の陽射しの中、桜の花が咲き誇る山道へと三人は歩き出した。
新たな季節の訪れとともに、彼らの物語もまた、新しいページを刻み始めていた。
春の午後、山の空気はやわらかく澄んでいた。
小鳥のさえずりが、遠く近くで絶え間なく響く。
足元に積もった落ち葉を踏みしめるたび、かすかな湿り気と土の匂いが立ちのぼる。
斜面には小さな野花が点々と咲き、淡い黄色や白が緑の草に映えていた。
ミヤビとエーリは、時おり振り返っては眼下に広がる城下町を眺めながら、山道を登っていく。
肌をなでる風はまだ少し冷たいが、その中に柔らかな日差しが混じっている。
淡く霞んだ空の下、枝々にはすでに花を開いた桜が揺れ、
その中に一本、ひときわ大きな桜の木が山頂近くにそびえている。
近づくごとに、薄桃色の霞がゆっくりと輪郭をはっきりさせていった。
「オーナーァ、アルトさん……本当に来てるんですよね?」
エーリが不安そうに振り返るが、そこにアルトの姿はなかった。
「うん。さっき店を出るとき、あとから追いつくって言ってたよ」
ミヤビも背後を見やるが、細い山道には誰の影もない。
「なんだか変ですね。あの人が遅れるなんて」
「……たしかに。アルトさん、登山も完璧そうなのに」
ミヤビは首をかしげながらも、どこか楽しげだった。
木漏れ日が差し込む坂道を、二人はそのまま登っていく。
登山道は少しずつ傾斜を増し、肌寒い風がエーリの頬をなでた。
「……あれ? なんか、ちょっと冷えてきましたね」
エーリが腕をさすりながらつぶやく。
「山の上だからね。平地より気温が下がるのはしかたないかも」
ミヤビも鼻先を赤らめながら笑ったが、少し気になることがあった。
(桜、ちゃんと咲いてるかな……)
山頂の一本桜──昔、父から教えてもらった“隠れた花見スポット”だ。春の陽気な日には、誰にも見つからずに満開の桜を独占できる。
「……それにしても、アルトさんが遅いのって、変ですよね」
再び後ろを振り返るエーリ。だが、見慣れた黒い影はどこにもない。
「うん、ちょっと意外」
ミヤビは苦笑する。
「いつもは、こっちが言う前に全部わかってるような人なのに」
「わたしたちが置いていかれる側なんて、初めてかも」
エーリも頬を緩めて笑う。
風の音が耳に心地よく響く、静かな山の中腹。
誰も踏み入れない秘密の場所に、一本の大きな桜の木が根を張っていた。
しかしその枝には、ただの一輪も花をつけていない。
「……うそ、咲いてない」
エーリがぽつりと呟いた。
ミヤビも、肩を落として桜を見上げる。
「やっぱり、山はまだ寒いか……」
そう言って、ミヤビが地面に腰を下ろす。
その視線の先、桜の木の根元には、固く閉ざされた蕾がいくつも膨らんでいた。咲く気配はあるが、時期がほんの少し早かったらしい。
そのときだった。
「……皆さん、ずいぶんとお急ぎですね」
後方から、冷静な声が届いた。
振り返ると、登山道の影からアルトが姿を現す。肩で息をしてはいるが、片手には小さな袋を下げている。
「えっ、アルトさん……! 遅かったですね!」
「珍しいですよ。先に着かないなんて」
「……ある“準備”が必要でしたので」
曖昧に答えると、アルトはゆっくりと桜の木へと歩み寄る。蕾をじっと見上げ、指でそっと触れる。
その表情は、静かな確信に満ちていた。
「……この桜、品種は“エオリア・サクラ”ですね」
ぽつりと呟くアルトに、ミヤビとエーリが顔を見合わせる。
「エオリアは気温にとても敏感で、夜間に霜が降りるとすぐ開花が遅れる。しかしながら……」
アルトは袋の中から、小さな銀色の道具を取り出した。
それは手のひらサイズの古びた瓶のようなもの。中心には、淡い橙色の宝石が埋め込まれている。
魔道具の名は《季律の瓶》──わずか一刻、周囲に春をもたらすことができる高価な魔道具だ。
「適温を与えれば、一晩で咲くこともあるそうです」
そう言ってアルトが装置を桜の根元にそっと置き、魔力を流し込むと、ふわりと温かな空気が辺りに広がった。
風が止まり、空気がほんのりと柔らかく変わる。
すると──
ひとひら、またひとひらと、薄桃色の花弁が枝先にほころびはじめた。
まるで目覚めるように、静かに、しかし確かな意思を持って。
「……咲いた」
ミヤビが、息を呑んだ。
エーリも、夢のように見上げながら呟く。
「ほんとに……咲いたんだ」
満開にはまだ遠い。けれどその瞬間、春はたしかにそこに訪れていた。
アルトは何も言わず、ほんの少し、空に咲く花を見上げながら、そっと目を細めた。
山の静寂に包まれて、三人はひとつの大きな桜の木の下に腰を下ろした。あたりには誰の姿もなく、遠くの町が霞んで見えるほどの標高。冷たい風が通り抜ける中で、ミヤビが風呂敷を広げる。
「じゃーん、今日のために作ったんですよ!」
ミヤビは背負ってきた籠を下ろし、風に飛ばされぬよう大きめの布を敷く。
弁当箱を開けば、桜色と若葉色が交互に目に飛び込んできた。
花葉包みパンは、花弁を練り込んだ生地の中から、香り高いチーズが顔を覗かせる。
紅花米のおにぎりは、淡い紅色に染まり、山の岩魔塩がほのかに輝いていた。
小さなパイからは、焼き立ての山菜と根菜の香りが湯気とともに立ちのぼる。
おかずの段には、香草をまとった春芽のグリル、桜花の蜜で甘く仕上げたスカイリザードの卵焼き、そして色鮮やかな小鬼茸のピクルス。
最後の段には、花蜜ゼリーが春の光を受けてきらめき、月苺と翡翠果の甘い香りが漂う。
「……これはまた、春祭りの屋台顔負けですね」
アルトが珍しく感嘆の声を漏らすと、ミヤビはにやりと笑った。
「せっかく大桜の下ですからね。食べても景色に負けないくらいの色を詰めてきました」
風が吹き、花びらがゼリーの上にそっと落ちた。
それはまるで、この世界の春が丸ごと小さな箱に閉じ込められたようだった。
「おいしそう……!」とエーリが瞳を輝かせ、さっそくフォークを手に取る。
ミヤビとエーリが笑い合いながら弁当に手を伸ばす中、アルトは静かに彼らを見ていた。二人の姿が、ふと過去の誰かと重なる。
(アネモネ……)
風に揺れる髪、肩を寄せて笑い合う姿。その記憶が色を取り戻すように、アルトの脳裏に亡き妻の面影が浮かんでいた。
エーリがぱくぱくとフォークを進める中、アルトは静かに一つのおかずに手を伸ばした。
それは、桜花の蜜で甘く仕上げたスカイリザードの卵焼き──残りは最後のひと切れだけだ。
同じ瞬間、向かいからエーリのフォークもその卵焼きへと伸びる。
「アルトさん……私とはウマが合わないんじゃなかったんですか?」
「ええ、なんでですかね。こんな時だけ……ここが孤児院でも、あなたはお譲りにならないと?」
「はは、こんな大きな孤児がいますかねえ」
「あなたとはやはり――」
二人同時に、
「ウマが合いません!」
そう言って卵焼きを半分に切り分けると、アルトは片方をエーリの皿に置いた。
エーリは一瞬ぽかんとした後、ふっと笑みをこぼす。
そのやり取りに、ミヤビは思わず吹き出した。
目の前では、互いにそっぽを向きながらも、どこか楽しげな二人。
薄桃色の花びらが風に乗って舞い、湯気の立つ弁当の上にそっと落ちる。
春の空気の中で、こんなやり取りが見られるのは悪くない――そう思いながら、ミヤビは穏やかに笑った。
そんなとき、頭上でふわりと光が揺れた。不死鳥となったアウリスが、静かに枝に降り立ち、金の羽をたたんで目を閉じている。
気づけば、エーリが口ずさんでいた。小さな声で、どこか懐かしい童謡を。
──その瞬間だった。
桜の枝に、まばゆい光が集まり、音もなく桜が、魔道具に反応するように、さらに咲き誇り始めた。
光の粒を帯びた花びらが、ひらひらと風に乗って舞い降りる。
誰もが、言葉を失っていた。自然の摂理を超えた、それでもあまりに美しい春の奇跡に。
アルトの肩に、ひとひらの花が落ちた。彼はそれに気づき、そっと目を細める。
(今年も──来ましたよ)
静かにそう呟いたアルトの笑みは、いつもより少し、柔らかかった。
翌朝、まだ店の掃除も終わらぬうちに、ヴィンクルムの扉が静かに開いた。
現れたのは、年配の男性だった。背筋を伸ばし、黒の燕尾服に身を包んだ姿はいかにも「執事」といった風情。白手袋をした手に、封蝋付きの書状を携えていた。
「失礼。王城よりの使いでございます。ミヤビ=リアン様、エーリ=ルーフェンス様、アルト=クローヴェル様……それぞれにお届けしたい文がございます」
ミヤビとエーリが顔を見合わせた。アルトは即座に一歩前に出て、男の風体や持ち物に目を走らせる。偽物ではない。だが、それにしても早すぎる。
手紙の封を切ったミヤビが思わず声を上げる。
「……王城からの招待? しかも三人そろって?」
エーリも同じ内容を受け取ったらしく、戸惑いながら手紙を抱えるように見つめている。
それを見たアルトの眉がぴくりと動いた。
(まさか……あの歌か?)
ガルの前で歌ったあの夜か、花見の時のあの歌か。
あの奇跡のようなひとときさえ、誰かに見られていたのか。いや、口伝えでも十分だった。吟遊詩人の噂は、時として風よりも早く都を駆ける。
それでも——早すぎる。
アルトは不意に眉根を寄せる。
背後で、エーリが不安げに問いかけた。
「王城って……なんのために?」
ミヤビは手紙を握りしめながら、少しだけ笑みを浮かべた。
「さあ。でも、行ってみる価値はあるかも。ね?」
アウリスが文鳥の姿で肩に降り、ふわりと鳴いた。
その鳴き声に、何かの始まりを予感させられながら、三人は沈黙のまま手紙を見つめていた。
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次回「王宮からの誘い」──王様に食べられなくなった好物を……
5日(金)21:00更新