第7話 受け継がれる意志
※初めての方は第1話「食堂の鳴らないピアノ」からどうぞ。
夕方の風が城下町をやわらかく撫で、空が淡い紫に染まりはじめていた。
ヴィンクルムの店先に吊るされたランタンが、魔石の灯をひとつ、またひとつと灯す。
その灯りのもと、ミヤビはカウンターでメニュー札を手にうなっていた。
「うーん……“香草風味のリゾット”じゃちょっと弱いかな。“焦がしチーズの黄金リゾット”、こっちのが美味しそうに見えるよね……新玉ねぎと菜の花、少し使ってみようか」
筆を走らせながら、どこか楽しげに呟く。
そんな折、店の扉が「チリン」と軽やかな音を立てて開いた。
「ただいま戻りました!」
教本を小脇に抱えたエーリが、少し駆け足で入ってくる。風に揺れる銀髪の端に、学校の土埃が少し残っていた。
「あ、ごめんなさい。授業が長引いちゃって、今日はギリギリセーフ」
「おかえり。大丈夫、開店まではまだ時間あるからね」
ミヤビは振り返り、いつものようにふわりと笑った。
「手、洗ってきて」
「はいっ」
エーリは小さくうなずいてバックヤードへ向かいかけたが、ふと立ち止まって店内を見渡す。
「……あれ? アルトさんは?」
ミヤビは軽く肩をすくめる。
「今日はお休み。王都のほうで、ちょっと用事があるって」
「……そう、なんですね」
エーリの声が、ほんの少しだけ沈んだ気がした。けれどミヤビはそれを深くは追わず、いつも通りの調子で声をかける。
「たまには休まないと、あの人も壊れちゃうでしょ。ほら、手洗い忘れずに」
「……はいっ!」
エーリが再び笑顔を浮かべて奥へと駆けていく。店の外では、夕風が木の葉を優しく揺らしていた。
──その頃、王宮では。
重厚な石造りの廊下を、黒の礼装を身にまとった男が静かに歩いていた。足音は絨毯に吸われ、まるで空気そのものが彼を通すのを遠慮しているかのようだった。手には封筒が一通。迷いのない足取りで、一枚の扉の前で立ち止まる。
「失礼します。クローヴェルです」
ノックの音に続いて、中から落ち着いた声が返ってくる。
「入りなさい」
扉を開けると、室内には夕陽が差し込み、譜面と魔導文書がその金の光に染まっていた。中央の机には、宮廷楽師長としての一面も持つ宮廷宰相──ユリシウスが静かに腰を下ろしていた。
「ご苦労だったね。ヴィンクルムの様子は?」
「順調です。ミヤビ氏は日々改善に取り組んでおり、従業員──エーリ嬢も、成長が見られます」
「彼女は今も孤児院で授業を?」
「はい。週に三度ほど、音楽と読み書きの補助指導を行っています」
ユリシウスは微笑みながら、湯気の細い筋を目で追った。
「まあ、座りなさい。君が密かに推薦したこと、本人はまだ知らないのだろう?」
「はい。……エーリ嬢にとって、自分の意思で歩いていると感じられることが、大事ですから」
短い沈黙。窓外の風が薄いカーテンを揺らす。ユリシウスは何も言わずにうなずき、ほんのわずか、目を細めた。
「……“文鳥”の方は?」
空気が少しだけ変わる。
「“アウリス”と名付けられました。先日、ピアノとの魔力干渉が観測されました」
アルトは懐から魔力測定水晶を取り出し、机の上に置いた。
「通常の楽器反応ではありません。測定結果から見るに、使徒級に匹敵する魔素のうねりが確認されました」
「“使徒級”か……なるほど。しかしこの波動、もうひとつ別の反応があるね。珍しい」
ユリシウスはしばらく無言で水晶を見つめる。紅茶の香が静かに満ちた。
「……アウリス。音楽の神アウラに仕えた、不死鳥の名だ。百年前、神殿の奥書に記録が残っていた」
「偶然では、ない……ということでしょうか」
ユリシウスの瞳が静かに揺れる。
「……お伝えすべきことが、もうひとつございます」
アルトは一歩進み、声を落とした。
「例の文鳥──あれが、不死鳥の姿を取ったのをこの目で確認しました」
ユリシウスが眉をわずかに上げる。
「確かか?」
「ええ。炎の翼、発光、そして周囲の魔道反応……すべて伝承と一致します。偶発的な変化ではなく、意志の発露と見るべきです」
短く息を整え、さらに続ける。
「加えて、その直後にピアノが自動的に起動しました。呼応するように、内部機構が音もなく動き始めたのです」
ユリシウスは視線を上げ、アルトを見据えた。
「偶然ではあるまい。だが……なぜ今、あの店に姿を現した……」
小さく息を吐き、目を閉じる。窓硝子に映る夕焼けが、ゆっくり色を変えた。
ふと、部屋の片隅に置かれたバイオリンが風にかすかに鳴る。誰かが呼吸をしたのか、それとも神の鼓動が近づいたのか。
「……そろそろ、あの店についてお教えいただけませんでしょうか」
紅茶に口をつけながら、アルトが静かに問いかけた。
ユリシウスは、しばし返事をせず、湯気の立ち上るカップを見つめていた。
「……私も、すべてを知っているわけではない。ただ、いくつかの“線”が、ゆっくりと結びつきつつある──そんな気がしているのだ」
彼は机の引き出しから一枚の古地図を取り出し、指で中央部をなぞる。そこには《セレノ水門》と刻まれた古い印字があった。余白には、誰かが削り取ったように消えた標がかすかに残る。
「この国にはかつて“水の都”と呼ばれるほど、水資源が豊かだった時代があった。鍵を握っていたのが、この“開かずの水門”──セレノだ。五百年前の魔法技術と機巧術の粋が結集された、巨大な水路制御装置だったそうだ」
「……現在は、商人が水利権を争って水門に手をかけようとした『セレノ事件』以降、機構が作動せず、最低限の運用を残して封印状態にあると聞いている」
「正確には、『操作方法がわからない』のだ。中枢部は音導の符に従って開閉する設計らしく、現代の技官では構造の解読すら困難な状態にある。無理に開ければ、堰を壊し国土が水没する危険すらあると……」
アルトの表情が硬くなる。ユリシウスはそれに気づきつつ、言葉を続けた。
「この“封印”に執着していた研究者が、ひとりだけいた。王立地質院に在籍していた、聡明で情熱的な女性。そう、君の妻、アネモネだ」
その名が出た瞬間、アルトの手が震えた。持っていたカップの中で、紅茶が音もなく揺れる。指先が無意識に紙の角を探し、止まった。
「……なぜ、彼女が……?」
返す言葉を探す間、時計の針がひと目盛り進むほどの沈黙が落ちた。
「理由は明確。彼女は地質の専門家だし彼女の母君が、かつて音楽院の鍵盤奏者だったと聞いている。古文書の一節──『水をつかさどる門は、旋律に従う』という記述に、彼女は強く惹かれたそうだ」
ユリシウスは、静かに眼を伏せる。
「アネモネは音と水の関係に関心を持ち、フィールド調査を繰り返していた。そして……二年前の春、突然病に倒れた」
室内の空気が重く沈む。
アルトは、しばらく言葉を発せなかった。喉仏がわずかに上下する。
「……では、今あの店で起きていることは……」
「憶測にすぎないが……誰かの意志が、あの店に受け継がれたのだとしたら──」
カップの中の紅茶が、静かに冷めてゆく音がした。
「妻がそんな調査をしていたなんて」
ユリシウスはそっと席を立ち、棚から一冊の書類を手に取った。
「……これは、彼女が最後に残した草稿だ。通称“水門の調律表”」
指先で譜面をなぞりながら、ユリシウスは続ける。
「古い文献を調べ、彼女は確信していた──“あの店のピアノ”こそが鍵だと。特定の調律、あるいは音階を奏でれば、水門を開く仕掛けが動く……そう確信していたらしい」
「それでユリシウス様は私をあの店に遣わせたのですか……」
「……そうだ。君にしか任せられないと思ったからね」
ユリシウスの声音は静かだったが、確かな熱を帯びていた。
「かつてアネモネが追っていた“真実”は、もはや個人の研究の域を超えている。今の王国にとって、いや、国の明日を左右しかねない“音”かもしれない」
アルトは唇をかみしめ、しばし沈黙した。
「……ヴィンクルムにいると、時々……ふと感じるんです。誰かの声を──亡き人の旋律を、ですかね」
彼は目を閉じ、遠くを見つめるように言った。
「私は……夫でありながら彼女の“調査”を知らなかった。傍にいたはずなのに、気づけなかった。……それが悔しくて」
アルトはアネモネの書いた書類の文字に目を落とし、そっとその背表紙を撫でた。
「……なら、私も信じてみましょう。彼女が見た未来を」
その横顔を見つめながら、ユリシウスはひとつだけ小さく頷いた。
「──ありがとう、アルト。君の選択が、未来の扉を開くかもしれない。身分を隠してヴィンクルムの謎を探るのは心苦しいだろう。しかし、彼女とこの国のために今暫く耐えてはもらえないだろうか」
少し乱れた髪を軽く整えながらアルトは言う。
「彼女の意思は私が受け継ぎます。あの店には確かに何かがあります。しかしそれが、いくら彼女を呪った禁忌だとしても悪い意志を持ったものとは思えないのです。あの場所……あの店は、そんなところだと私は感じてます」
「君からそんな言葉が聞けるとはね。あの店で君は色々なものに出会えたようだね」
「ええ。そうですね」
部屋の外では、春の風が小さく窓を鳴らしていた。
その日の閉店時間間際、ヴィンクルムには、ひとりの来客があった。
鮮やかなブルーグレーのマントを羽織り、金糸で縁取られたベストに細身のパンツ。腰にはリュート、背には軽量な旅鞄。そして、整えられた髪と柔らかな笑顔。右手には小さな紋章入りの指輪が光り、眼の奥には琥珀色の薄い膜のような、感情を測るような色が一瞬だけ走った。どこをとっても、ただの旅人ではない。
吟遊詩人。だが、庶民の酒場で陽気に歌う者とは一線を画す、“高級”な語り部である。王都の貴族たちを相手に歌を披露し、報酬は金貨十枚とも言われる。街で広まりつつある噂──“音楽の神の使徒が降りた屋台”、“歌で涙をぬぐわせた料理屋”、“かつての神童が働いている”……そんな英雄譚のような話が、彼の耳に届いたのは、数日前のことだった。
吟遊詩人にとって、物語は命であり、金であり、武器だ。しかもそれが「いま、動いている物語」ならば尚更。
「この地に、なにかが生まれつつある。……歌にする価値がある」
男はゆったりと腰を下ろし、リュートの弦を優しく指で弾いた。
「やはりただのお店ではなさそうですね」
そうひとこと呟いてから、吟遊詩人はゆったりと空いたテーブル席に腰を下ろした。背筋を伸ばし、あくまで優雅な所作。ひと呼吸おいて、顔を上げる。
「店主さま、何か……美しいお酒を。そう、たとえば──失恋した貴族令嬢が涙をこぼすような、そんな味わいのものがあれば最高です」
言いながら、片手を胸に当てて微笑んでみせる。
吟遊詩人は一口、運ばれてきた琥珀色の酒を味わい、満足げに頷いた。
「……うむ、美しい。まるで一夜の恋の余韻のようだ」
ミヤビが苦笑いを浮かべながら問いかける。
「で、お仕事の途中なんですか? 旅のついでに?」
詩人はロックグラスをくるくると回しながら、ふっと笑った。
「実は、ここ最近、この町に奇跡のような物語があると耳にしましてね。ある料理屋で、泣いていた子どもが歌を思い出したとか、音楽で人の心が癒されたとか──私はそういう話を集めて、歌にして旅をしているのですよ。もちろん、あなた方のことも、いくらか耳にしています。ヴィンクルム。すばらしい響きですな」
「……へ、へぇ」
ミヤビは気まずそうに視線を逸らし、エーリは無言で皿を磨く手を止めない。どちらも、明らかに居心地の悪さを感じている。
「ご協力いただければ、ぜひ歌のモデルに。できれば実際に体験談を……たとえば、不思議な鳥のことや、心に残る旋律についてなど」
「それ、誰に聞いたんですか?」
ミヤビの声は、明らかに警戒を含んでいた。
「うふふ、秘密です。詩人の情報源は守秘が命ですから」
「噂です。とても不思議で、美しい噂。泣いていた少女が、歌を思い出したとか。その背後には、音楽の奇跡があった……そんな話を耳にしまして」
エーリが固く口を閉じ、無言でグラスを磨きつづける。
「ねえ、店主さま。語ってはくれませんか? その“奇跡の夜”について。あるいは──あの、沈黙したピアノについても」
吟遊詩人の視線が、店の隅にある古びたピアノへと向く。
店の隅に置かれた古びたアップライトピアノ。それを見つけた吟遊詩人は、グラスを片手にふらりと近づき、そっと指を鍵盤に這わせた。
「……美しい、けれど沈黙している。このピアノは、もう音を鳴らさないのですか?」
「鳴らねぇよ。壊れてるんだとさ」
カウンターで飲んでいたガルが、気の抜けた声で応じた。
「違います。誰も壊してなんかいない。直せもしないんですけどね」
ミヤビが補足するように言うと、吟遊詩人は目を細め、哀しげに微笑んだ。
「それは……詩になりますね。かつて音を奏で、人々の心を揺らした楽器が、今はただ、誰にも弾かれぬままに静かに朽ちる。まるで、役目を終えた歌姫のようだ……」
「うへぇ、なんだそれ。気取ってやがんなぁ」
ガルが鼻で笑いながら言った。
「音が出ねぇピアノのどこが詩的なんだ? ただのガラクタだろ。椅子にでもした方がマシじゃねぇの?」
吟遊詩人は一瞬、眉をひそめるが、すぐにまた詩人らしい笑みを取り戻した。
「詩とは、価値のないものに意味を見いだす営みですよ、友人。あなたが椅子だと言うなら、それもまた一興。だが私は……こういう沈黙の中にこそ、物語を感じるのです」
ガルは肩をすくめ、「はん、勝手にしな」と言って持っていたグラスの酒を一気に流し込んだ。
残された吟遊詩人は、鍵盤の上にそっと手を置いたまま、誰にも聞こえない声で言った。
「このピアノは、かつて……誰を、どんな音で、泣かせたのだろう」
詩人が陶酔したようにささやいた、まさにその瞬間だった。
ピョンッ。
小さな影が、テーブルの上から飛び立った。真っ白な文鳥──アウリスが、一直線に詩人の肩へ飛び乗る。
「おや……君は?」
肩にとまったアウリスが、ぴくぴくと頭を動かし、詩人の顔をのぞき込む。その仕草はまるで「お前、何を知ってる」とでも言いたげだった。
「……つん、つんっ!」
警告するように、小さなくちばしで詩人の頬をつつく。
「はは、これは手厳しい。詩に酔うなという叱責でしょうか?」
詩人は笑って受け流そうとするが、アウリスの目はまったく笑っていない。文鳥のそれとは思えぬ、鋭く、澄んだまなざし。
「まさか……この鳥、只者ではないですね」
その言葉に、エーリがピクリと眉を動かした。
「……あの子、よく人を見るんです」
エーリがぽつりと漏らす。詩人は目を細めたまま、肩の上でじっと自分を見据えるアウリスと、しばらく静かに向き合っていた。
アウリスに頬をつつかれた吟遊詩人は、しばらく黙っていたが──ふいに「ああ」と、嘆かわしげな表情を浮かべ、立ち上がった。
「……これほど沈黙に哀しみを宿すピアノも珍しい」
誰に許されたわけでもないのに、詩人は勝手に深呼吸し、そして、歌い始めた。
柔らかく、艶のあるテノールが店内に広がる。詞は古風だが、旋律は人々の耳を惹きつけた。店の客たちは一斉に顔を上げ、次第に静まり返る。
──拍手。
曲が終わると、あちこちのテーブルから自然と歓声と拍手が湧いた。
「おいおい、なんだ今の!」「あれが高級吟遊詩人の歌か!」
カウンターで酒を飲んでいた男たちが歓声をあげ、バツが悪そうに飲んでいたガルさえ、呆れたように鼻で笑った。
「へっ……歌うたってチヤホヤされてんじゃねぇよ、天罰くだすぞ」
ミヤビはというと、カウンター越しにぽかんとその様子を見ていた。そして、隣で皿を拭いていたエーリが、うっすら顔をしかめているのに気づく。
「……なんか、すごいけど……ちょっと、無理」
「……うん、なんか、酔ってるっていうか……」
二人の声は小さいが、確かに引き気味だった。
夜も更け、店が静けさを取り戻す頃。吟遊詩人はマントの裾を払って椅子から立ち上がった。
「では、そろそろお暇いたします。ご馳走さまでした、みなさん素敵な夜を」
ミヤビが軽く頭を下げ、エーリは曖昧に会釈を返す。吟遊詩人が扉を開けたちょうどそのとき、外からアルトが戻ってきた。
ふたりの視線が一瞬交差する。
「……ん?」
吟遊詩人は足を止め、じっとアルトの顔を見つめた。
「あなた、どこかで──」
「人違いでしょう」
アルトが先んじて低く、しかしはっきりとした声でそう告げる。眼鏡の奥の瞳は微動だにしない。
吟遊詩人は瞬間、何かを飲み込むようにまばたきし、それきり微笑んだ。指輪の紋章が小さく灯りを返す。
「……でしょうな。失礼しました」
そして何事もなかったかのように店を後にした。
扉が静かに閉まる。店の隅のピアノで、見えないどこかの奥に埋め込まれた緑の符が、ひと呼吸だけくぐもって明滅した。誰も気づかないほど、ささやかに。
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次回「桜の花をさかせましょう」──アルトと妻の物語……咲くはずのない桜も二人なら。
2日(火)21:00更新