第6話 アルト's ブートキャンプ
翌朝、開店準備を終えた厨房に、アルトの凛とした声が響く。
「オーナー、本日よりひと月、私が組んだ特別メニューを出していただきます。ご覚悟を」
「……え、ええ。もちろん、そりゃもう。ご覚悟は、してますとも」
ミヤビは思わず背筋を伸ばしながらも、どこか不安げに鍋の中を覗いた。
アルトの作る献立は理にかなっている。ただ、どこか……軍隊くさいというか、味よりも栄養効率重視というか。
「ヴィンクルムは料理屋です。そして、料理には人を変える力がある。今回、その証明をいたしましょう」
その日から始まった“体力強化メニュー”。
ライトの前に最初に出されたのは、あっさりとした鶏肉のポトフと、ミネラル豊富な雑穀パン。ビタミン強化のハーブティー。
「これ……俺のために?」
「はい。胃を整え、吸収力を高める初動期のメニューです。無理なく体を整えることが、継続の鍵ですので」
最初の一週間は穏やかだった。ライトも「これなら大丈夫かも」と、控えめながら笑顔を見せた。
だが真意が現れたのは、二週目からだ。
「本日のメニュー、野菜と牛すじの煮込み。高カロリー豆スープ添え。パンは黒パン二枚。デザートは干し果実とヨーグルト。以上です」
「……ちょ、ちょっと待ってください! これ、ひとり分?」
「はい。タンパク質と鉄分を重点的に補っています。筋肉は食べて作るものですから」
「う、うん……」
ライトはスプーンを持ったまま固まった。だが逃げなかった。一口、また一口。
食後、椅子にぐったりと身を預け、汗をぬぐう。
「ライトさん、食後十五分後に軽い散歩を。代謝を促します」
「は、はい……」
散歩はやがてランジや階段昇降へ。
ミヤビは厨房からひっそり見守りながら呟く。
「……なんか、うちの店、ちょっとした修行場になってない?」
「黙ってください、オーナー。集中が乱れます」
「ご、ごめん」
三週目、ライトはついに音を上げる。
「はぁ、はぁ……おなかはいっぱい……なのに、体が、重い……」
「それで結構です。体が変わるとき、苦しさは必ず訪れます。それを乗り越えて、初めて──」
ふいに、エーリが水の入ったグラスを差し出した。
「でも、無理しすぎないでください。わたし、ライトさんが倒れたら、悲しいから」
ライトは少しだけ目を潤ませ、グラスを受け取る。
「……ありがとう。……でも、やる。やってみる。……ここまで付き合ってくれたから、最後までがんばります」
静かに、決意の火が灯った。
数週間にわたる「アルト式体力強化メニュー」。
最初は優しい鶏のスープや雑炊から始まった献立も、今や牛肉のステーキ丼に根菜のポタージュ、オートミール入りのライ麦パンと、見るからにカロリーの鎧。
ライトはもはやスプーンを握る手すらおぼつかない様子で、いつもの席に座っていた。
額にはうっすら汗、目の下にはくっきりクマ。
「……すいません、今日は、もう……ムリかも……」
ぼんやりと窓の外を眺めるライト。
「なんかなかったかな……」ミヤビは呟くように言い、カウンターの下から布に包まれた一冊を取り出す。
《神の食卓》
慎重にページをめくる。
目に飛び込んできたのは、見たこともない形の料理。
「……ギョーザ?」
読みあげながら首をかしげる。薄い皮で具を包み、こんがり焼き目をつけた不思議な料理。
「……読めるけど、意味はわからないな……。でも、これ……なんかいいかも」
解説にはこうあった──
“疲れた者の心と体に、熱と香りと滋養を閉じ込めて届ける。神への供物にもなりうる一品”
“その形は、まるで祈りの壺”
ミヤビは小さく息を呑む。
読んだだけで、味が頭に浮かぶ。
「包むことで、旨味も栄養も、逃さない……。そっか、これなら……!」
すぐに挽き肉と野菜を取り出す。キャベツ、ニラ、にんにく、生姜──見よう見まねで刻む。
頭の中では“未知の料理”の完成図が鮮やかに。
「おもしろい……なんだか、作れる気がする。いや、これどっかで……」
目に確信の光。
「ねぇ、ライトさん。今度ちょっと、別のメニューにしてみませんか?」
顔だけをゆっくり向けるライト。
「別の……?」
「うん。餃子って言ってね、皮からちゃんと作るよ。中の餡にね、必要な栄養をぜんぶ詰め込む。ビタミンも、タンパク質も。まずは、水餃子からいこう。優しい口当たりで、胃にも負担がかからないから!」
嬉しそうにまくしたてるミヤビに、ライトはかすかに目を細めた。
「あ、ごめんなさい。なんのこっちゃらですよね……」
──翌る日。
「ちょっと待ってて。今はまだ皮を伸ばしてるところだから」
ミヤビは餃子の皮を薄く伸ばしながら、アルトに声をかける。
アルトは首をかしげつつ、じっと手元を見る。
「これをこうやって包むんだ。具を皮で包んで、端をしっかり閉じるのがポイント」
薄く丸めた皮を折り畳み、ヒダを作っていく。
「よし、できた」
包み終えた餃子を手に取り、熱した鉄板に並べる。
ジュッ──油がはねる。
「まずは、強火で底をカリッと焼いて……」
フライ返しで押さえ、すぐに水を入れて蒸し焼き。
外はパリッ、中はジューシー。
香ばしさが部屋中に広がる。
「なるほど……これが『ギョーザ』の香り、ですか」
「うん、焼き餃子は格別だよ。さ、もうすぐだから」
湯気を立てる焼き餃子が皿へ。
ミヤビがそっと差し出す。
「さあ、アルトさん。熱いけど、これがギョーザだよ」
かぶりつくと、熱い肉汁が溢れ出す。
「っ……! 熱っ……!」
息を吹きかけ、味覚が開く。
「肉の旨味が凝縮……香味野菜が爽やかに調和……。タンパク質とビタミンのバランスも良い。……栄養の宝庫です」
「でしょ? これならライトさんも、食べやすくて力がつくはず。最初は水餃子でいこう」
「……これがオーナーの料理ですか。世界が広い事を実感いたします」
翌日、夕暮れ。
訓練帰りのライトは、疲労の色が濃い。汗に濡れた軍服が細い体にまとわりつく。
扉を開けると、温かな灯りと香ばしい匂い。
「おかえり、ライトさん。今日もよく頑張りましたね」
「……ただいまです」
ミヤビは保温箱から、ぷっくり茹で上がった水餃子を取り出す。
鶏ガラと香草の優しいスープを注ぎ、刻み葱とごま油の香りを添える。
「今日は特別に、水餃子ですよ」
ライトは箸を取り、一つ口へ。
ほのかな温かさが喉を通り、体中にじんわり染みる。
「……美味しいです」
「無理せず、ゆっくり休んで。明日もまた頑張りましょう」
その目に、わずかな希望の光。
──いく日か過ぎた。
店内には、ごま油の焼ける匂い。
ライトの前には、こんがり焼かれた餃子が円形に。味噌汁と漬物、ご飯が添えられる。
「……うまい……水餃子もうまかったけど、こんな飯、初めて……」
そのとき、扉ががたんと開く。
「おい……ライト?」
かつてライトを嘲笑していた屈強な軍人が入ってくる。湯気の向こうのライトに気づき、信じられない顔。
「なんだその食いもんは……見たことねぇ……けど、いい匂いだ。おい、マスター、それ、俺にも一つ!」
応えるより早く、奥から静かな声。
「申し訳ごさいません」
アルトが水を置き、眼鏡が光る。
「その料理は、強い決意を持った“私の教え子”のための専用メニューです。他の方への提供は致しかねます」
「な……なんだと?」
「お引き取りください」
軍人の眉が跳ねる。
「……てめぇ、二度も同じ口ききやがって」
椅子を蹴って立ち、胸倉を掴もうと腕を伸ばす──が、その腕は宙を切った。
アルトは半歩横に身をずらし、手首を軽く捻る。体勢を崩した肩を押し流し、ふわりと背後へ。
わずか数秒。無駄のない、力任せではない動き。
「……ッ! この動き、軍の……いや、おまえ……いったい何者だ?」
「私、ただの従業員ですが」
軍人は無言で睨むが、やがて舌打ちを一つ。乱暴に踵を返し、店を出て行った。
扉が閉まり、ライトはようやく息を吐く。背中に冷や汗。
(……やっぱりアルトさん、ただ者じゃない)
「……強い決意、か」
ライトは噛みしめるように、再び餃子を口へ。
焼き餃子定食を平らげたライトに、エーリが声をかける。
「……そういえば、演奏の練習はしてたんですか?」
「それは……欠かさず。アルトさんとの訓練の後でも、毎晩、少しずつ……」
「じゃあ、明日の試験で緊張しないように……ここで一曲、吹いてみませんか? みんな温かいんで大丈夫!」
ライトは一瞬だけ目を伏せ、ほんのわずか躊躇ったあと、立ち上がって深く一礼。
「ありがとう、エーリさん。……じゃあ、一曲だけ」
クラリネットを取り出し、ゆっくり構える。店内は自然と静まる。
ひとつ、深く息を吸う──その瞬間、天井から金色の光がすっと舞い降りた。
「……!」
どこからともなく現れた小さな文鳥。
ミヤビ、アルト、エーリは同時に察する。
「アウリス……!」
甲高くひと鳴き。宙で羽ばたき──その身を金色の炎に包み、不死鳥へ。
どよめきと小さな悲鳴。
アウリスは舞うようにピアノの上へ。爪先が鍵盤に触れた瞬間、古びたピアノが音もなく目覚める。
「……まただ……」
ミヤビの額を、くちばしでぐいっと小突く。
「え、ちょ、ちょっと!?……わかったってば!」
ミヤビは渋々座る。手を置いた瞬間、羽が微かに光り、指先に魔力が流れ込む。
鍵盤上の空間に、淡く光る半透明の板がふわり。
『吹奏楽のための練習曲no.385』
緑の文字が揺らめき、すっと消える。
指が自然に鍵盤を押し下げる。
「……うそ……これ、また……」
その和音に、ライトの顔が引きつる。
「それ……その曲……。試験の課題曲……! なんで……」
第一音が鳴り、ライトの目が覚悟の色。
「……っ、行くしかない……!」
クラリネットが息を吹き込み、旋律が空間を満たす。
ピアノとクラリネット。絡み合い、支え合い、初めから練習していたかのように合致する。
感謝と決意と、未来への祈りを込めて──
終止。空気はしんと静まり返る。誰も、呼吸すら忘れていた。
「……パチ……パチ……!」
最初に手を叩いたのはエーリ。続いて、客たちの拍手。
「すごかった」「胸があったかくなった」──小さな声。
「ふん……仕方ねえな……」
ガルも渋い顔で肩をすくめながら手を叩く。
「……ミヤビさん、なんでその曲を?」
ライトが戸惑いの目。
「……わからないんです。手が勝手に、というか……体が自然に」
「こいつはこのピアノでしか弾けねーんだよ」
ガルが苦笑。
エーリは身を乗り出す。
「これで合格間違いなしですね!」
「私が太鼓判を押しますよ、ライトさん」
アルトが紅茶を置き、いつになく柔らかな声。
「……うん。じゃあ、頑張ってきます」
ライトは小さくうなずく。クラリネットを抱き直し、胸に灯る決意。
温かな拍手と、仲間たちの視線。
──きっと大丈夫だ。
それから三ヶ月──。
ヴィンクルムの看板には、丁寧な筆致でこう書かれていた。
「本日、臨時休業とさせていただきます」
理由は、仕込みの失敗でも、借金取りでもない。
今日は、大切な“教え子”の晴れ舞台。
ミヤビ、アルト、エーリの三人は、いつものエプロンではなく、少しかしこまった服装で、街の北側にある〈希望の家〉──城下町の孤児院へ。
石畳を踏み、軋む扉を開け、古ぼけたホールへ。
壁の漆喰はひび割れ、椅子はところどころガタがきている。だが、それでも──子どもたちの目は輝いていた。
今日は慰問演奏会。
中央音楽隊が子どもたちのために演奏を届けに来る、年に一度の特別な日。
そして、その中には──
舞台の右側三列目に、ライトがいた。
少し丈の長い制服。クラリネットを胸の位置で構え、開演の合図とともに唇へ。
──その音は、まっすぐだった。
肩に力の入らない自然体。けれど、音には揺るぎがない。
まっすぐに、やわらかく、客席へ届いていく。楽しそうに。嬉しそうに。
吹きながら、ライトは一瞬だけ客席を見る。
そこには、ミヤビが、エーリが、アルトがいた。
三人とも、そっと微笑んで彼の演奏を見守っていた。
──ああ、やっぱり音楽って、楽しいな。
クラリネットのベルが揺れるたび、その思いが音に乗って飛んでいく。
古びたホールに、希望の音色が広がっていった。
***
【用語注】
・中央軍楽隊:各地で演奏を行う王国軍の音楽部隊。
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次回「受け継がれる意志」──沈黙の水門の謎を追っていたのは……。
29日(金)21:00更新