第3話 歌が嫌いな子
朝靄の残る城下町のはずれ、今日も小さな奇跡が始まろうとしていた。
空気は冷たく、石畳は露に濡れ、遠くの鐘楼が低く息をする。
「ふう……やっと全部そろった……!」
ミヤビは両手いっぱいに木材の束を抱えて、露店予定地に戻ってきた。
金貨をはたいて手に入れた帆布、折りたたみ式の什器、鍋とフライパン、看板用の板材まで——荷車はぎっしりだ。
「アルトさーん! 買い出し完了です!」
呼びかけに、図面を覗き込んでいた黒服の男が振り向く。
整った顔立ちに銀縁の眼鏡——万能従業員ことアルトである。
「お帰りなさい、オーナー。では、これより組み立てに入ります」
そのひと言で、場の空気が張りつめた。
縄で基準線を張り、白い粉で印を打ち、柱の足は石の目に合わせてごくわずか傾ける。
木槌が小気味よく重なり、帆布が風をはらみ、金具が指先で鳴った。要所は魔術で固定され、ゆるみが出ない。
「……なんでそんなに手際いいの」
「秘密です」
軽口を交わすうちに、帆の影が石畳に落ちた。
パラソル付きのカウンター、掲げられた「トラットリア・ヴィンクルム」の看板。木目は油で艶を出し、角は子どもの手に引っかからないよう丸く削ってある。控えめながら洒落た意匠だ。
「すごいな……まるで一夜城だよ」
「誇張表現です。三千秒かかっております」
「なんで秒で数えるの……」
「世界は刻ときの積み重ねです。軽んずるべからず」
ミヤビは苦笑し、工具を片づけながら店の前を見やった。
通りでは行商が声を張り上げ、焼き栗の香りが風に乗る。犬が尻尾を振り、子どもが縄を跳ね、砂埃が柔らかく舞う。
***
通りの向こう、ギルド掲示板の前にひとりの少女が立っていた。
年の頃はミヤビよりやや下か、同じくらい。淡い灰銀色の髪を肩で揃えた素朴な装いで、街の喧騒にまだ馴染めない静けさをまとっている。
彼女は端に貼られた一枚の紙をじっと見つめていた。
——《求人:露店トラットリア・ヴィンクルム 調理補助・給仕》。
視線が紙から離れ、胸の前で小さく息を整える。
やがて、組み立てを終えたばかりの屋台の前に歩み寄ってきた。
「……あの、ここ、求人……出してます、か?」
かすかな声だった。けれど耳の奥に届くような、不思議な響きがあった。
朝日にその髪がきらりと光る。
「どうぞ、お座りください。僕はミヤビ。こっちは——」
「アルトです。雇用判断は私が行います。まず、年齢と希望の就労時間、身体的な健康状態を」
「え、あ、あの……えっと、エーリ=ルーフェンスっていいます。十五歳で、料理屋さんとか未経験なんですけど──」
「ふむ、未経験……ですが当店は訓練施設ではありません。すぐに戦力となる方でなければ——」
「アルトさん、ちょっと落ち着いて」
「……失礼。では実技を。紐を真結まゆいで縛ってください。荷台の揺れでほどけない結びです」
「は、はい」
エーリは両手を上げ、息を整え、紐を帆布の環にくぐらせる。
指が迷いなく走り、結び目が小さく締まる。余った端は三つ折りで寝かせ、見た目も整えた。
「次。皿を十枚、片手で落とさず運べますか」
「……やってみます」
両手で積み、片手に移し、もう片方で受ける。身体の中心に重心を置いて、視線は足元ではなく出口へ。
皿はひとつも鳴らなかった。
「合格です」
「ちょっと、まだ面接中だってば」
ミヤビは笑い、椅子をすすめた。
「実はね、エーリ。うち、今すごく苦しいんだ。店はがらがらで客も来ない。だから試しに広場で露店スタンドを出してみようって」
「だから、エーリ。君に仮雇用で手伝ってほしい。賄いもある。料理は未経験でも構わない」
エーリは戸惑いながらも、小さく頷いた。
「……わかりました。やってみます」
アルトが控えめに咳払いをする。
「就業規則。遅刻厳禁。衛生に最大配慮。危険行為の禁止。疲労時は申告。困ったら——」
「困ったら、声をかけて。ね」
エーリはもう一度、こくりと頷いた。
***
夕暮れの広場。
仮雇用となったエーリは、ミヤビとアルトと肩を並べ、初めての露店に臨んでいた。
鉄板が熱を帯び、鍋の縁で白いソースがふつふつと息をする。
炒めた玉ねぎに牛骨のだしをひと杓、そこへ牛乳を少しずつ。焦げつかせないよう木べらで円を描く。
「塩は最後。今は香りを立てる時間です」
アルトが火加減を示す。炎は暴れず、鍋底をやさしく舐める。
ミヤビは黒パンを厚く切り、片面だけ炙って香りを出す。
小鍋のバターが泡を吹き、粉がすべって、きつね色の手前で火を止める。
「アルトさーん、絶対余裕で完売ですよー」
「……君とはウマが合いませんね」
「はいはい、いつものやつね」
エーリは肩をすくめ、銅の柄杓を握る。
器を温め、パンを沈め、白いソースを流し、表面に削ったチーズをたっぷり。
焼きごてを赤く熱し、表面だけを香ばしく焦がす。
焦げたチーズの香りが石畳を渡り、通りの人々の鼻先をくすぐった。
「お、うまそうだな」「何の料理だい?」
「白いスープにパンを沈めた、あったかい一皿です。よければどうぞ」
最初の客は年配の夫婦だった。
ふたりは一口ごとに目を合わせ、黙って頷き合う。
夫が器に息を吹きかけ、妻が笑う。その笑いが周りへ波紋のように広がる。
「うちの子に持って帰ってもいいかしら」
「パンは汁を含んでも崩れません。帰るまで熱が残りますよ」
ミヤビが包み紙を二重にし、紐を真結で留めた。
受け取った手がわずかに震え、硬さが解けていくのが伝わる。
「……こういうの、久しぶりだわ」
「ありがとうございます。また良かったら、店にも」
次々に人が途切れず、音が重なる。
器の触れ合う澄んだ音、金貨が木の皿に落ちる乾いた音、パンの皮が小さく割れる音。
香りは濃く、湯気は甘く、夜の気配はゆっくり降りてくる。
その時——小さな足音が、石畳に跳ねた。
幼い子どもが二人、花飾りを持って店の前を通る。くるくると踊るように歩き、童謡を口ずさむ。
——でも、途中でふと歌が止まった。
「えーっと……次の歌詞なんだっけ?」
「わかんない……お姉ちゃん、しってる?」
突然の問いに、エーリの手が止まる。
気づけば、口が動いていた。
ほんの一小節。声を張ったわけでもない。
けれど、彼女の声は夕風に乗り、やわらかく子どもたちに届いた。
「♪……花の咲く道 きみと歩いた……」
「わぁ! それそれ! ありがとー!」
無邪気な笑い声が遠ざかる。エーリはぽかんと見送った。
ミヤビは横目で彼女を見る。手元の柄杓がわずかに震え、すぐ止まった。
「……あれ? 歌、嫌いなんじゃ?」
ミヤビが問うと、エーリはばつが悪そうに目を伏せる。
「……つい、反射的に。あんな、昔よく歌ったから」
アルトは言葉を飲み込み、鍋の縁についた雫を布で拭った。
香りが揺れ、風鈴が鳴る。夕暮れの空は、淡い青から群青へと溶けていく。
「追加、三つ。焦がしは控えめで」
「はい!」
エーリは返事をし、焼きごての赤を見極める。
鉄の熱が、白い面に触れて小さく音を立てた。
香ばしさと甘さの境目で、火を離す。
列の端で、少年が小銭を握りしめて順番を待っていた。
背伸びをしてカウンターを覗き、匂いだけで何度も唾をのむ。
「それは、熱いよ。気をつけて」
「うん!」
器を両手で包むと、少年の頬が緩んだ。
指先の赤みが少しずつ引き、肩の力が抜けていく。
その背中を見送りながら、エーリもわずかに口角を上げた。
***
「それが、——いかんのだ」
背後から声が落ちた。
二人が振り向くと、ローブの男が屋台の前に立っていた。
先ほどから通りをうろついていた中年の旅人。だが、近くで見ると空気が違う。
ミヤビは目を細め、はっとする。ずっと前に『神の食卓』を売ってくれた古本屋の店主——ニアム堂の老人だ。
「……あなた、どちらさまですか——」
エーリが言いかけると、男はゆっくりと首を振った。
「お前の声は人を惹きつける。……だが、それゆえに災いを招くこともある。ならば歌など、捨てるべきだ」
「……っ」
エーリのまつげが震え、視線が足元へ落ちる。
指先が布の裾をきゅっと握り、白くなるほど力がこもった。
ミヤビが一歩、前に出る。
「あなた、どうして彼女のことを……?」
「この街には、耳が多い」
意味ありげにつぶやくと、男は漂う香りに目を細めた。
「……ふむ。この香り。冷めておらんのか。露店にしては珍しいの。冷めた料理は心も冷ます——毒と言っても過言じゃない」
「ありがとうございます。毒見の感想としては、合格ということで」
「減らず口を。——では問う。お前の皿には、祈りがあるか?」
男の瞳がわずかに光る。
アルトの肩が、ほとんど見えないほど小さく動いた。
ミヤビは、ほんの一拍だけ考える。
湯気の向こうで客が笑い、器を持つ手が緩む。
その光景を、祈りと呼ばずして何と呼ぶのだろう。
「あります。温度が下がる前に届いてほしい、という祈りが」
「言葉だけなら誰でも言える」
「でしたら——明日、店へ。冷めない一皿をお出しします」
男の目が細くなる。
「ワシを、招くのか?」
「はい。約束します。冷ひえない料理です。——きっと、ご満足いただけるはずです」
一瞬、風が止んだ。
男は何も言わず、顎をわずかに動かして背を向ける。
ローブの裾が、石畳をかすめて音を立てた。
「……来るの?」
エーリが不安げにつぶやく。
「さあ。ああいう人って、決めつけたがるからさ——悔しいじゃん」
「……あの人、わたしのこと知ってた。私、あの人の顔も、名前も……知らないのに」
ミヤビは、震える声にただ耳を傾けた。
沈黙の中、エーリの指先がそっと握りしめられる。
「……明日も来てよ、エーリ」
ミヤビが優しく声をかける。
「冷めない料理、待ってるから」
少し間をおいて、エーリはうなずいた。
「……はい」
***
その夜、露店では湯気を立てる白い焼きチーズのシチューが次々と売れていった。
行列ができるほどではない。けれど、通りがかりの客が「今度は店にも行ってみよう」と笑って去っていく。
——これなら、本店の宣伝にもなる。
鍋の底が見え始める頃、胸の奥に温かい期待がふくらんだ。
三人は屋台を片付け、道具や食材を荷車に積み込む。
「売上、金貨一枚と銀貨四。《三人分の労働》としては及第点です」
「三人分、ね。アルトさんは二人分働いたから、実質四人じゃない?」
「私は三人分は働けます」
「はいはい、いつものやつ」
露店の明かりが一つ、また一つと消え、広場は静けさを取り戻していく。
冷えた空気に、木材の匂いと焦げたチーズの名残が混じった。
振り返れば、石畳の向こうに「ヴィンクルム」の灯りが、ぽつんと温かく輝いていた。
次回 #4「氷のような姫君の呪いも」
▶︎ 8/23(金)21:00 公開