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第21話 聖騎士の贄は結びの料理

聖堂奥の控室。

 パイプオルガンの低音が遠くで響く中、エーリは譜面を手に立っていた。

 その旋律には古代マニール語の歌詞が並び、柔らかな曲線の文字が光を反射している。


「……これ、発音が難しいです」エーリが眉を寄せる。


「母音と子音の組み合わせが、現行語とは異なりますから」アルトは椅子から立ち、彼女の前に回った。


「まずはこの一節。『アウラ・エルセリオ』――母音を長く保ち、語尾の息を押し出さずに残すように」


 アルトがゆっくりと発音してみせる。


 エーリは真似て口を動かす。「アウラ……エルセリオ……こう?」


「ええ。ただ、二つ目の音節で舌を少し奥に」


 何度か繰り返すうち、エーリの声は古代語特有の柔らかい響きを帯び始めた。


 アルトは続ける。「この言葉は『神の風、安寧を運ぶ者』という意味です」


「……きれいな意味なんですね」エーリが目を瞬かせる。


「次はこの一行――『セリオ・ファルナ・ミリエル』。これは『安らぎよ、すべての民に』。息を途切れさせず、旋律とひとつに」


 エーリは深呼吸し、声を乗せる。「セリオ・ファルナ・ミリエル……」


 控室の空気が、わずかに澄んだように感じられた。


「歌詞の意味を知ると、声にも想いが乗ります」アルトは穏やかに言い、譜面を次の段へとめくった。


 「……セリオ・ファルナ・ミリエル……」


 最後の音が消えた瞬間、控室の扉が静かに開いた。


 ユリシウスが先に入り、すぐ後ろからマリナ院長も現れる。


「見事な響きだ」


ユリシウスが短く言う。その金色の瞳は、エーリをまっすぐに捉えていた。


「発音も安定してきました。アルトさんが、丁寧に教えてくれたおかげです」


エーリが少し照れくさそうに言う。


 マリナ院長は穏やかに笑みを浮かべた。


「その声なら、聖堂いっぱいに祈りを響かせられるわ。あなたが歌うとき、オルガンもきっと応えてくれる」


 アルトは譜面を整えながら、「本番までに、さらに旋律と一体化させます」と静かに告げる。


 ユリシウスは頷き、「頼んだ」とだけ言って視線を譜面に落とした。


 エーリは胸の前で手を組み、そっと息を吸った。

 この歌が、民の安寧を願うための鍵になる――その想いが、声に乗り始めていた。


夕方の光に染まる、ミヤビはヴィンクルムの扉を開けた。

 静まり返った店内に、ほんのりとコーヒー豆の香りが残っている。

 開店の札を裏返し、カウンターに立ったその時――カラン、とドアベルが鳴る。


 入ってきたのは、黒い外套に身を包んだ男だった。

 精悍な顔立ちに刻まれた皺、その奥で光る鋭い眼。


「……ガルさん?」ミヤビが声を上げる。

 男は片眉を上げ、カウンター席に腰を下ろした。


「椅子はまだ壊れてないな、小僧」


 ふっと笑みを浮かべるその様子に、ミヤビは肩の力を抜いた。

 久しぶりの会話が、何か大事な話の前触れのように感じられた。


 「最近忙しそうだな、小僧」


「色々ありまして」


「ふん……ワシの酒は切らすでないぞ」


 軽口を交わしていたガルが、ふと目を細めて外を見やった。


「……ほう、ぎょうさん影を連れた客人だ」


「え?」


ミヤビが振り返ると、ドアベルがカランと鳴った。

 深緑の外套をまとった長身の男が入ってくる。背筋はまっすぐ、無駄のない動き。後ろには数名の護衛が控えていた。


 ミヤビの視線がその顔を捉えた瞬間、息が止まる。

(……まさか、陛下……!?)


 驚きに固まるミヤビをよそに、男はゆっくりとカウンターへ歩み寄る。


「こちらの席を、よろしいかな」


 低く落ち着いた声が、静かな店内に響いた。


 ガルは口の端を上げ、何も言わず席をひとつ譲った。


 ミヤビは思わず声を漏らした。


「陛下……何故、ここに……」


 男はわずかに肩をすくめ、苦笑を浮かべる。


「余は変装が下手らしいな」


 男はゆっくりと外套を脱ぎ、堂々とした姿を現した。


「いかにも。マニール国王、グスタフである」


 店内の空気が、一瞬で引き締まる。

 ミヤビは慌てて姿勢を正し、ガルはまるで最初から知っていたかのように黙って酒を口にした。


 グスタフは真っ直ぐにミヤビを見据えた。


「ミヤビよ、そなたの今回の活躍、ユリシウスより聞いておる。見事であった」


 思わぬ言葉に、ミヤビは背筋をさらに伸ばす。


「も、勿体ないお言葉です、陛下」


 グスタフは小さく頷き、わずかに口元を緩めた。


 カウンターの横でガルが鼻を鳴らし、静かにグラスを回している。

 だがその鋭い視線は、これから告げられるであろう本題を察していた。


ふいにガルが棚から一本の瓶を取り出した。


「ふむ、小僧。こいつを王様に出せ」


「……米の酒、ですか」


 ガルはにやりと笑い、その瓶をドンとカウンターに置く。


「あんたもたまには飲むがいい。この国じゃ滅多に手に入らない代物じゃ」


 グスタフは興味深そうに盃を手に取り、一口含む。


「……ほう、これは香りも味も、豊かだな」


 だがその瞬間、護衛の一人が一歩前に出て声を荒げた。


「無礼である!その口ぶり、さらには陛下に勝手に酒を――」


 グスタフは盃を置き、ゆるやかに護衛を見やった。


「王城ならば、首を刎ねよ。しかし――」


 低い声が、店の空気を一変させる。


「ここは料理屋だ。この場に宮廷の名誉など、飯の足しにもならん」


 護衛は口をつぐみ、一歩下がる。


 ガルは肩を揺らして笑い、「ほらな、小僧、やっぱり王様もただの客だ」とぼそりと呟いた。


 グスタフはしばし黙した後、盃を置いた。


「……王家には古くからの伝承があってな」


 ミヤビは自然と姿勢を正す。


「聖騎士を赴かせるとき、特別な贄を持ってこれに報いよ――と伝えられている」


 王の金の瞳が、真っすぐにミヤビを射抜く。


「余は思う。この度は楽師こそが聖騎士ではないかと。音でこの国を救ってくれる聖騎士ではないかと」


 言葉がゆっくりと胸に沈んでいく。

 ガルは何も言わず、ただ静かに盃の縁を指でなぞっている。


「故に其方に頼みたい。彼らに捧げる贄を、作ってはくれぬか」


 ミヤビは短く息を呑み、やがて頷いた。


「……わかりました。必ず」


、横で腕を組んでいたガルがぼそりと言った。


「あんた本当に王様かの?」


 即座に護衛の一人が前に出る。「無礼者!」


 だがグスタフは手を上げ、「よい」と短く制した。


 ガルは口の端を上げ、からかうように言う。


「まあ、本物じゃったら――ホーリーフォックスの加護が在らん事を、王よ」


「……ふむ」王は意味深な笑みを浮かべた。


「じゃあな、小僧。勘定、置いとくぞい」


 銀貨をカウンターに置き、ガルは立ち上がる。


すれ違いざま、何気なくガルはグスタフの肩に手を置いた。



 その瞬間、王の瞳がわずかに見開かれる。

 護衛がまた声を荒げかけたが――


「決して追うな」


王の低い声がそれを封じた。


 ガルは振り返らず、扉を押し開け、街の光の中へ消えていった。


 扉が閉まる音が店内に残り、短い沈黙が落ちた。

 グスタフはしばし入口の方を見やり、ゆっくりと盃を持ち上げる。


「……あの御仁、ただの客ではあるまい」


 ミヤビは口を開きかけて、結局何も言わず、視線を落とす。

 王はわずかに目を細め、「半ば人、半ば……」と小さく呟いた。

 護衛たちが互いに顔を見合わせる。


 やがてグスタフは盃を置き、ため息混じりに笑う。


「まったく、この店は……一体何を呼び寄せているのだ」


 その声には困惑よりも、妙な確信が滲んでいた。

 ミヤビはただ、黙ってカウンター越しに苦笑いした。


「……まあよい。今は贄の方が先だな」


 金色の瞳が再びミヤビを捉える。


「頼んだぞ。聖騎士たちの心を奮わせる、力ある一皿を」


「かしこまりました、陛下」


 ミヤビは深く頭を下げる。


 グスタフは立ち上がり、護衛を伴って静かに店を後にする。

 扉が閉まると、残されたミヤビはカウンターに手をつき、小さく呟いた。


「……聖騎士への贄、か」


 その瞳には、覚悟と少しの高揚が混じっていた。


王が去ったあとも、ミヤビは店のカウンターに座り、手元の紙に料理の案を走り書きしていた。

 「贄」――国を救う聖騎士たちへ捧げる一皿。

 豪華さだけでは足りない。意味があり、心に残るものでなければならない。


「……大鍋スープ? いや、時間差で味が落ちる」


「三層パイ……見た目はいいけど、式典で崩れたら最悪だ」


「聖樹の蜜菓子……甘味じゃ腹は満たせない」


 候補を並べては、ひとつずつ線を引いて消していく。

 静かな店内に、ペン先の音だけが響く。


  ふと、棚に置かれた古い鉄製のパイ皿が目に入った。

 それは父が店を継ぐ前からヴィンクルムにあったものだ。

 ミヤビは立ち上がり、その皿を手に取る。指先に伝わる微かな傷跡――長年使い込まれた証。


 頭の中に、いろんな顔が浮かんだ。

 初めてこの店に来た日のエーリ。

 静かにカウンターに座っていたアルト。

 黙って米の酒を飲んでいたガル。

 そして、笑い声や香りで満ちていた店内の景色。


 みんな、この店から始まった。

 同じ皿から料理を分け合い、笑い合った。

 その温かさが、少しずつ縁を繋ぎ、今の自分たちをここへ運んできた。


「……これだ」


 この店の名物

 結びのパルマンティエ。

 守る者の糧として、国を救う楽師たちに捧げるには、これ以上の料理はない。


 ――絶対、あるよな。

 そう呟きながら、ミヤビは厨房の隅に置かれた『神の食卓』を手に取った。

 ページをめくると、やはりそこにあった。パルマンティエの精細な絵と、その横のコラム欄。


 「この世界は縁でつながっている。喜びも悲しみも縁が導いてくれている。祈りはその縁をより良い道へと結ぶだろう。

  例えば誰かとこの一皿を分かち合い味わうように」


 ミヤビはその一文を見つめ、静かに笑った。

 この店の名物が、この料理である理由が、はっきりと胸に落ちた。


「……なんだよ、この雑誌」


 苦笑しながら本を閉じ、パイ皿をカウンターに置く。

 その瞳には、覚悟とほんの少しの誇りが宿っていた。


 翌朝。


 ミヤビはヴィンクルムを早めに閉め、王宮の厨房局へ向かった。

 磨き上げられた石畳を抜け、重厚な扉をくぐると、銅鍋や銀器が整然と輝き、香辛料の豊かな香りが空気を満たしていた。

 大きな調理台では数人の料理人が野菜を刻み、肉を捌き、スープの鍋をかき混ぜている。


 その中央で仕込みの指示をしていたハワードが、こちらに気づき、穏やかな笑みを浮かべた。

「お、来たなーミヤビ」


「ハワードさん、お力をお借りしたくて参りました」


 ミヤビは調理台の前まで進み、背筋を正す。


「巨大なパルマンティエを作りたいのです。大皿どころではなく、式典で百人以上に切り分けられるサイズを」


 ハワードは一瞬目を瞬かせたが、すぐに優しい眼差しで頷いた。


「……なるほど。あの料理を贄に、か」


「はい。国を救う聖騎士――楽師の皆様に、ヴィンクルムの味を召し上がっていただきたいのです」


 ハワードは軽く笑い、調理台に肘をついた。


「……実はな、もう陛下からお達しが来ていたんだよ。『ミヤビという料理人が贄を作ることになる。全力で助けよ』ってな」


「……そうだったんですか」ミヤビは目を瞬かせる。


「お前が来るのを、皆で楽しみにしてたんだ」


 ハワードが声を上げると、周囲の料理人たちが手を止め、笑顔で頷き、軽く手を挙げて挨拶してくる。

 その温かい空気に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……ありがとうございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」


ミヤビはハワードと並んで貯蔵庫へ向かった。

 扉を開けると、涼やかな空気と共に、整然と並んだ食材が目に飛び込んでくる。

 黄金色のジャガイモ、ひき肉、甘みの強い玉ねぎと人参――どれも選び抜かれた王宮の備蓄だ。

「その量のパイを焼くなら確かに厨房局の窯じゃなきゃ無理だな。せっかくだ。贄だし、肉はヴァルノア黄金牛にしよう」


「マッシュポテトにはバターをたっぷり。香りが立つようにしましょう」


 言葉を交わしながら、必要な材料を大きな籠に詰めていく。


「そうだ、器はどうする?」とハワード。


「百人分なら……店の皿じゃ無理ですね」


「じゃあ王宮工房に頼もう。鍛冶職人と陶工がいる。オーブンも含め大きさには限界があるから二五人前を四皿。

 五日後には特注の大皿を仕上げさせる」


 こうして、贄を載せるための巨大な陶製の大皿は、王宮直属の工房に発注されることになった。

 その器もまた、式典で人々の視線を集める一品になるだろう。


 工房への発注と食材の手配を終えた頃には、空はすでに橙から群青へと変わりつつあった。

 ミヤビはハワードに深々と礼を述べ、王宮厨房局を後にする。

 石畳を踏みしめる靴音が、夕暮れの街に溶けていく。


 通りを抜け、やがて見慣れたヴィンクルムの看板が視界に入った瞬間、胸の奥の緊張が少しほぐれる。

 扉を開けると、甘く香ばしい焼き菓子の匂いと、柔らかな歌声が迎えてくれた。


「おかえりなさい、オーナー!」


 カウンターの向こうでエーリが笑顔を向け、両手を軽く振る。

 その横ではアルトが丁寧にカップを磨きながら、視線だけで穏やかな笑みを送ってくる。


「ただいま戻りました」


 ミヤビはカウンター越しに二人の顔を順番に見て、ゆっくりと息を吐いた。


「……演奏当日の料理、僕が担当することになったよ」


 一瞬の間。

 エーリの目がぱっと大きく開く。


「え、すごい! 国の節目ですよ? 名誉です!」


 声の弾み方が、こちらまで嬉しくさせる。


「光栄なことですね、オーナー」


 アルトは手元のカップを静かに置き、短くも温かな言葉を添える。


 ミヤビは肩の力を抜き、小さく笑みを返した。


「……まあ、詳細は当日のお楽しみってことで」


 店内に、ほっとするような温かさが広がった。


それからの日々は、あっという間に過ぎた。

 王宮工房から届いた巨大な陶製の大皿は、表面に細かな装飾が施され、中心には大地神ガルシアの紋が彫り込まれていた。

 食材も揃い、試作も無事に終わった。


 そして――演奏会の前夜。


 ヴィンクルムの店内は、いつもより少し静かだった。

 明日のために早めに店を閉め、カウンターには仕込みのメモとタイムスケジュールが並んでいる。


 温かいお茶を手に、三人はカウンターに腰を並べた。


「……なんか、あっという間だったね」エーリが笑う。


「ええ。気づけば、ヴィンクルムもすっかり拠点になりました」アルトが頷く。


 ミヤビは湯気越しに二人の顔を見て、思わず微笑む。


「王宮に行った日も、大聖堂の禁書庫に行った時も……ぜんぶこの店に戻ってきた」


「あと、稲刈りもですね……」エーリが肩をすくめる。


「懐かしいですね。あの時からすべてが動き出した気がします」アルトの声は穏やかだった。


 小さな笑い声と共に、これまでの出来事がぽつぽつと語られていく。

 賑やかな日も、悔しい日も、驚きで息を呑んだ日も――どれもが積み重なって、明日の舞台へと続いている。


「この店、因果多すぎでしょ……きっと僕らも、なんかに引き寄せられてここにいるのかな」


「本当にそうですね」アルトがうなずく。


「私もそんな気がします」とエーリも頷いた。


 ミヤビは少し視線を落とし、静かに言葉を続ける。


「でも本当は、世界はめぐり合わせなのかも。みんな何かと何かで繋がってる。特別なようで、当たり前のことなのかもしれないね。アルトさんもエーリも、もしかしたら何かのタイミングで他の誰かと出会ってたのかもしれない。そしてその人たちだってとってもいい人だったかもしれない。

でも、それでも僕は二人で良かったと思ってる。それだけは自信あるな。いつもは優柔不断だけど……」


「オーナー……」エーリの瞳が揺れた


「私もミヤビさん、あなたがオーナーでよかったですよ。ここのオーナーがウマが合わない人だったらと思うとゾッとします」

眼鏡を直しながらアルトが微笑む。照れるのを隠すのが下手な秀才がいた。



そしてミヤビは小さく笑みを浮かべた。


「明日すべてが終わったら、いつものようにここに帰ってこよう。」


 その言葉に、店内の空気がひときわ静まり返った。

 三人はしばし黙って湯気を見つめ、それぞれの胸に温かな灯を抱いたまま、夜を過ごした。

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次回「誰が為に鐘は鳴る」 遂にアウラ・グラティア演奏本番。大聖堂の参拝席は全体がオーケストラピットだった。音と祈りがが重なる時、鐘と共に水門は息を吹き返しすべての人を祝福する。物語は最終章へ。

21日(火)21:00更新 


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