第2話 謎の執事
朝の光が差し込む店内で、ミヤビはひとり、ピアノの前に座っていた。
あの夜の演奏が、まるで夢だったように思える。
鍵盤に触れた瞬間、確かに何かが――降りてきた。
それは、炎のように迸る音の奔流であり、遠い昔の、どこか異なる世界の記憶でもあった。
「……なんだったんだろう、あれ」
誰にともなく呟いて、ミヤビは膝の上で手を握った。
音のひとつひとつが、知らないはずの情景を呼び起こした。
天井から突き刺さるような光、しかもそれが規則的に動いている。
涙をこらえて笑う少女、見たこともない服を着ている、風に揺れる白い楽譜。窓越しに見える巨大な箱のような建物群。
けれど、目を凝らせば凝らすほど、記憶は霧の中に溶けていく。
自分は一体、何者なんだ――
その問いに、答えられる者はいない。
ただ一羽の文鳥だけが、ピアノの上でちょこんと佇んでいる。
白い羽をふくらませて、その鳥はご機嫌そうに小さく鳴いた。
──チュチュン♪
ミヤビはぼんやりとピアノの蓋を撫でながら、ピョコンとこちらを見上げている文鳥に目をやった。
「……そうだ、君さ、名前とかないの?」
文鳥は首を傾げた。まるで「何をいまさら」というように。
「勝手に押しかけてきて、勝手にピアノ鳴らして、勝手にパンつまみ食いして……けっこう自由だよね、君」
ちゅん、と小さく鳴いて、白い羽をふるふると震わせる。
「うーん、じゃあ、そうだな……アウリス。どう? なんとなくそんな感じがするんだけど」
その瞬間だった。
文鳥の体から、ふわりと金色の光が立ち上った。
眩いほどの輝きが羽毛の隙間から溢れ出し、その姿は一瞬にして変わった。
「っ……な、なにこれ……!?」
宙に浮かぶのは、羽ばたく白銀の不死鳥。
まばゆい金のオーラが尾を引きながら、やわらかく店内を照らしている。
ミヤビの指先が震える。
その先端へ、光の粒が吸い寄せられるように集まりはじめた。
「な……に……これ……」
まるで、ピアノを弾いたあの夜と同じ感覚。
音の奔流が、再び彼の中に流れ込もうとしていた。
だが、次の瞬間、不死鳥はふっと形を崩し、再び小さな文鳥へと戻っていた。
すました顔で、ピアノの上にちょこんと座っている。
何事もなかったかのように。
「…………いや、いやいやいや、どう考えてもおかしいって!!」
ミヤビは思わず立ち上がり、両手で頭を抱えた。
けれど、返ってくるのは、ちゅんちゅんという小さなさえずりだけだった。
ミヤビはフライパンを片手に、まだ熱の通っていないコンロに火をつけながらため息をついた。
鍋の中ではスープがまだ静かに沈黙している。玉ねぎを炒める音も、どこか遠くに感じた。
金色の光と不死鳥、そしてあの鳥に「アウリス」と名前をつけた瞬間の出来事。
あれは現実だったのか、それとも寝ぼけた頭が見た幻だったのか。
文鳥は今日も変わらずピアノの上で毛づくろいをしている。とても昨夜、炎のような羽根を広げて空を舞った存在とは思えない。
「……まぁ、パンつまみ食いする時点で、神様って感じじゃないしな……」
自分に言い聞かせるように呟いたその時だった。
──カララン。
玄関のベルが鳴る。まだ開店準備の途中だ。
「……はい? すみません、まだ――」
声をかけながら振り返ったミヤビは、言葉を飲んだ。
そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ男だった。
長身で細身、背筋はまっすぐ、無駄のない動作。
整った顔立ちに銀縁の眼鏡。その瞳はどこか冷たく、ミヤビを値踏みするように見つめている。
「……ここが“ヴィンクルム”で間違いないですね?」
淡々とした口調。だが、その裏に一切の遠慮がなかった。
「あ、はい……でも、まだ開店前ですし、予約とか……?」
「面接です。アルバイトの」
「……は?」
男はつかつかと中に入り、カウンター前まで来ると、ぴたりと足を止めた。
「こちらの求人票を見ました。条件は確認済み。厨房にも入れますし、接客もできます。ついでに料理もできます。ついでに、無断欠勤と遅刻の経験はありません、そんな事をするヤカラは地獄の業火で焼かれれば良いのです!」
「ま、待って、ちょっと話が早すぎるというか、そもそもそんな求人出してないし……」
「出していないのなら、出したことにしてもらえますか」
「いや、それはおかしいって!」
ミヤビはたじろいだ。眼の前の男は、まるでこの店に来るのが“当然だった”とでも言いたげだった。
男はカウンターの隅を見回し、棚の埃の薄さや包丁の並びを一瞥した。
そしてひとこと。
「まさか、こんなに小さいとは」
ミヤビはぴくりと眉を跳ねさせた。
「なんだよそれ……勝手に押しかけてきて」
ミヤビの静かな怒りが露わになる。
「あなたが勝手にバイトバイト言うのだったら、とりあえず面接させてください!」
ミヤビは腹をくくって告げた。
開店前の静かな店内に、彼の決意が響いた。
「構いませんよ」
男は軽く頷き、椅子に腰を下ろした。
その落ち着いた物腰といい、余裕すら感じさせる様子に、ミヤビは少し息を呑む。
「私はアルト=クローヴェル。王立フレデリカ大学経済学部主席卒業、王立ミランダ医科大学で医師免許を飛び級取得、その後趣味で法律の勉強がてら司法試験もトップ合格、ソムリエの資格も持っております」
淡々と告げられたその経歴に、ミヤビは思わず眉を上げた。
「で……私に何か?」
男は挑発的に問いかける。
「わかりました、落とせるわけないでしょう! 圧と癖すごいし……」
ミヤビは苦笑しながら答えた。
「でも、その経歴に見合う給金は出せませんよ」
「この国の労働者の最低賃金で構いません。私はね、目の前の金に興味などないのです」
言葉とは裏腹に、どこか謎めいた雰囲気をまとっている男。
ミヤビは思わず視線を泳がせた。
「いやー、その奥に……うちには何もないようなもので……」
自分の店の現状を告げる言葉は、どこか寂しさを含んでいた。
「そうだ、ごめんなさい。名前、まだ言ってませんでした。……僕はミヤビと申します。よろしくお願いしますクローヴェルさん」
手を差し出すと、男は一瞬だけ目を伏せてから応じた。
「アルトで結構です。なんなりとお申し付けください、オーナー」
「オーナーって柄じゃないんだけどなぁ……」
ミヤビは苦笑しながら頭をかいた。
「じゃあ、明日から来てもらえると助かります」
その言葉に、アルトはわずかに眉を上げた。
「……オーナー、あなたは“時間”というものの価値を少々軽んじておられる節がございますね」
「へ?」
「いまこの時より、お仕えさせていただきます」
立ち上がったアルトは、すでにスーツの袖をたくし上げている。
ミヤビは唖然とした顔でその様子を見上げたが、次の瞬間、思わず吹き出した。
「ははは……じゃあ、そうしますか」
「早速、紅茶をお淹れいたします。持参の茶葉がございますので」
そう言って、アルトは内ポケットから小さな缶を取り出した。
どうやら本気で“そのつもり”だったらしい。
「じ、時間って……いや、なんなんだよあんた……」
「じゃ、そろそろ開店準備しますか……」
ミヤビがぼそっとそう言った頃には、店の中には紅茶のいい香りが漂っていた。
さっきまで「いまこの時よりお仕えさせていただきます」と宣言してきた変な男――アルトが、ちゃっかり自前の茶葉でお茶を淹れていたのだ。
なんなんだこの人……。
いろんな意味で落ち着かない気持ちを胸に、ミヤビは厨房に足を運んだ。
「オーナー、イマイチ効率が悪いですね。こちらの棚は角度を変えたほうが動線がスムーズかと。それから調味料の配置も──」
黙々と動きながら、無駄なく指示を飛ばすアルト。
その手際の良さと観察眼に、ミヤビは内心ちょっと引いていた。
(……仕事できすぎでは?)
***
ようやく準備も形になってきた頃、店の扉がガラッと荒っぽく開いた。
「ヴィンクルムさ〜ん? 先月の支払い、まだですよね〜?」
現れたのは、柄の悪い借金取りだった。笑ってはいるが、目が笑っていない。ミヤビの胃がきゅっと縮む。
「え? でも……それなら、お支払いしたはずですけど」
「それは契約時の額っすよ? 今の時代、国がガタガタで物価も変わってるでしょ。追加で3リュクスりゅくす、よろしく!」
ミヤビが言葉に詰まったそのとき、アルトのメガネがギラリと光った。
「困りますよ、そんな……金貨三枚なんて」
「困ってんのはこっちなんだよ! 払えよコラ! 文句があんなら国に言え!」
「──ほう。国に、ですか」
静かに声を上げたのはアルトだった。
「……なんだてめぇ?」
借金取りが眉を吊り上げる。その視線を一身に受けながら、アルトはゆっくりと口を開いた。
「国の財政状況と、あなた方が取り交わした契約内容は、何の因果関係もありません。その子供の落書きみたいな契約書、拝見しても?」
「アルトさん、やりすぎですって……!」
慌てて制止を試みたミヤビの声など聞こえていないかのように、男は怒りの拳を振り上げる。
「うるせぇぇぇ!!」
その拳を、アルトは片手であっさり受け止めた。
「……よくもまあ、こんな出鱈目な契約書をでっち上げましたね」
「なっ……! お前に法律の何がわかるってんだよ!」
そのときだった。
アルトは上着の内ポケットから、何か小さなバッジを取り出して見せた。きらりと金属が光る。
「──私に、何か?」
それは間違いなく、王国法務協会に登録された法務代理人──つまり、正真正銘の弁護士の証だった。
「……マジかよ」
借金取りの顔から血の気が引いていく。
「……あれー……なんか勘違いだったみたいっすね! ヴィンクルムさん、来月もよろしくお願いしまーす!」
あわてて契約書を奪い返し、借金取りは尻尾を巻くように逃げていった。
店の中に、しばしの静寂。
ミヤビはぽかんとした顔でアルトを見つめていた。
(……なにこの人。何者?)
「害虫の駆除が済みました。オーナー、続きをどうぞ」
涼しい顔でそう言ったアルトは、次の瞬間には調味料の瓶を並べ直していた。
***
その日の営業後、ミヤビが帳簿とにらめっこしていると、アルトが紅茶を手に現れた。
「オーナー、もし客足の少なさにお困りなら、いっそ城下町で露店を開いてみてはいかがでしょう。宣伝にもなりますし」
ミヤビはパッと顔を上げた。
「アルトさん、それ名案! そうだ、あの時の金貨を使う日がついに来たぞ!」
目を輝かせるミヤビに、アルトは落ち着いた口調で告げた。
「機材の準備は私が──」
「いや、それは僕が明日揃えてきます。アルトさんは店の方をお願いします!」
やる気満々の様子で拳を握りしめるミヤビ。
その目がふとアルトの方を見やる。
「それと、ひとつ提案があるんですけど……もう一人だけ雇うってのは、どうですかね?」
アルトの眉がわずかに動く。
「……オーナー、資金は無限ではありませんよ」
「それは分かってます。でもアルトさんの負担がちょっと気になってて」
「私は三人分は平気で働けますので、ご心配なく」
さらりと即答するアルトに、ミヤビは苦笑する。
「いやいや、そういう問題じゃないでしょ……。うん、苦しいけど、ここは頑張ってもう一人雇いましょう。求人、ギルドに出してきます!」
その宣言に、文鳥――もといアウリスがピィッと一声鳴いた。
なぜか、賛成しているように聞こえた。