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第18話 おねえちゃんといっしょ

 アルトが詩文の訳を口にしたあと、しばしの沈黙が流れた。エーリは黙ってページをめくり、淡い挿絵と古代文字の譜面を眺めていた。


 その先のページまで行くと──物語は、たしかにひとつの“終わり”を迎えていた。旋律は、ちゃんと最後の一音まで書かれている。


 そして、何より──綺麗だった。どこか懐かしくて、あたたかい。まるで姉が妹を抱きしめるような──そんな歌。


 だからこそ、彼女はぽつりと口にした。


「……でもさ。この譜面って、ちゃんと完結してますよね?」


 ミヤビとアルトが同時にエーリを見る。


「なのに、なんで──あのとき、“不完全”なんて出たんだろう?」


 そう言って、エーリは目を細めた。


「この譜面が本物なら……あのピアノ、どうして拒んだの? 何が、足りなかったのかな」


 アウリスが、書架の上で静かに羽を揺らした。


 パタン、と柔らかい音を立てて、本が閉じられた。禁書庫の重々しい空気の中で、それはまるで風鈴のように軽やかだった。


「……最後まで見たけど、何もなかったです。隠しページとかもないし、譜面もあの曲だけ」


 ソファに座ったまま、エーリがぽつりと言った。


「でも……」


 そう言って、彼女は本の表紙をもう一度撫でた。表紙には、ぎこちないけれど一生懸命描かれた、小さな姉妹の絵。


「妹ちゃん、ほんとにお姉ちゃんのこと大好きだったんだなーって。ページめくるたび、そればっかり伝わってきたよ。ぜんぶ、まっすぐに」


 どこかあたたかくて、少しだけ胸が締めつけられるような笑顔で、エーリは言った。


 エーリが絵本を閉じたあとも、ミヤビはなお本のページをゆっくりとめくっていた。やはり最後のページまできた。最後の一文字まで読んだそのとき、ミヤビはある違和感を覚えた。


「……ねえ、アルトさん。この文字、不自然じゃないですか? ここ」


 呼ばれていたアルトが足音静かに近づき、ミヤビの肩越しに本を覗く。


「どこです?」


「この行、最後のところ。なんか……文が途中で切れてる感じがするんだけど」


「……なるほど。ああ、これは……“あのね”──で、終わってますね」


「“あのね”?」


 ミヤビが首を傾げる。


「訳すと、そうなります。文法的にも、まだ続く書き方です」


「“あのね”……で、終わってるの? なんだそれ──」


 ミヤビが小さくつぶやいた、その瞬間だった。


 アウリスが──文鳥の姿のまま、突然バサバサッと羽を大きく広げた。


「うわっ!? な、なに!?」


 思わず身を引いたミヤビの前で、本がひとりでに風を受ける。誰も触れていないのに──めくれるはずのなかったページが、


 ふわり、と開いた。


 ──ふわりと、風が止む。


 静まり返った禁書庫の中。めくられたページに、四つの視線が吸い寄せられた。


 そこには、他のページとは明らかに異なる、少しだけ丁寧に描かれた一枚の絵があった。


 色鉛筆で描いたようなやわらかいタッチ。そこにいたのは──銀の髪で、笑っている小さな女の子。


「……これ、」


 エーリが呟いた。「妹、だよね」


「……ええ。姉が、妹を描いた絵だと思われます」


 アルトが慎重にページをめくり直しながら、下の譜面に目を走らせる。


「譜面……ありますね。そして歌詞も」


 淡々と、けれどどこかやさしい声音で、アルトが古代文字を訳し始めた。


「──ちいさなチビ。よく笑い、よく泣くチビ」


「わたしの たからもの」


「たくさん怒って、たくさんこまらせて」


「それでも、だいすきなチビ」


「わたしも──あなたが、だいすきよ」


 訳し終えた後、しばし沈黙が流れる。誰もがその言葉を、心の中で繰り返していた。


「……“あのね、”の、続きだったんだね」


 ミヤビがぽつりと呟いた。アウリスが、小さく羽を揺らす。


 それは、かつて交わされなかった言葉。大切な誰かに向けて、遅れて届いた、たった一つの手紙のようだった。


 ページを閉じたあと、一同はしばらく黙っていた。やがて、ぽつりと──


「……で、譜面。どうしよ?」


 ミヤビが現実に引き戻されたように言った。


「……オーナー、今それ言いますか……? 台無し〜」


 エーリは頬をふくらませて椅子の上で小さく丸まり、つま先で床をとん、とん。


「せっかく“いい話”してたんだから、もうちょっと浸らせてよ。……ね?」


「ごめんごめん、でもこれ、さすがに持ち出しはできないでしょ? 模写も魔道具もだめだよね?」


 ミヤビも困ったように眉を寄せる。


「私が、覚えましたよ」


 ぽつんと、静かな声が割って入った。二人が同時に振り向く。


「えっ……アルトさん?」


「音も、歌詞も。もう頭に入っています」


 当たり前のように言い切るアルトに、ミヤビとエーリが目を丸くする。その反応に、アルトは軽く眼鏡を押し上げた。


「──十二の時に、王立連合音楽競演へ出ましたが、私に何か?」


 ドヤァ……とまではいかないが、完全に得意顔だった。


「なんで毎回その情報、後出しなんですか!」


「だからあなたとはウマが合いませんってば!」


 エーリが半ば呆れたように叫ぶと、アウリスが肩の上で「ピィ」と鳴いた。


 禁書庫を出て、石造りの階段をゆっくりと下る。冷たい空気の中、ヴィンクルムの灯りが恋しくなる。


「……ふぅー、なんか疲れたね……」


 ミヤビが小さく息をついたそのとき、


「オーナー」


 隣を歩いていたアルトが、ふいに立ち止まり、眼鏡を直した。


「……このまま帰る前に、王城の執務室に立ち寄りませんか」


「へ? ユリシウス様のとこに?」


 ミヤビが驚いて聞き返すと、アルトは静かに頷いた。


「今回の禁書庫使用にあたって、正式な許可書を出してくださったのは陛下も勿論ですが、陛下に上申したのもユリシウス様です。感謝をお伝えするのが礼儀かと」


「あー、確かに。そうですね」


 納得したようにミヤビが頷く。ただ、その横でエーリが小声でつぶやいた。


「でも、なんで今? って感じです……」


 その呟きに、アルトは反応しなかったが──口元には、ほんの少しだけ、意味深な表情が浮かんでいた。


 王城の長い廊下を抜けた先──宰相ユリシウスの執務室は、他の部屋と比べてやけに静かだった。


 扉が開かれると、ほんのわずかに風が流れ込む。高窓のカーテンがふわりと揺れた。


 窓辺に立つ男の背中は、まるで彫像のように静かだった。長い銀髪が淡い陽光に照らされ、さらさらと肩を撫でている。


「失礼します、ユリシウス様」


 アルトが一歩前に出て頭を下げる。その声に応じるように、ユリシウスがゆるやかに振り返った。


「……来てくれたかい」


 柔らかな笑みとともに言う彼の声には、いつものように余計な力がない。


 ミヤビは緊張した面持ちで一歩進み出た。


「あの……今日は、禁書庫の使用許可を出してくださって、ありがとうございました。おかげで、いろいろと……すごく貴重なものを、見つけることができました」


 するとユリシウスは、少しだけ首を横に振った。


「礼には及ばない。君たちが動いたことは、意味のある“兆し”なのだから。……それに、興味もある。」


 目元には穏やかな影が差していたが、その奥には何かを読み解こうとする光が宿っていた。


「……たどり着いたのだね」


 ユリシウスのその一言に、室内の空気が静かに震えた。彼は背後の窓辺から、ゆっくりと振り返る。黄金の瞳が、ミヤビたち三人をまっすぐに見据えていた。


「かつて、神々は三柱いた。創造を司る“ガルシア”。循環を司る“ミリニア”。そして調和を司る“アウラ”。その中でも、ミリニアとアウラは、姉妹だった」


 静かな口調が、石造りの執務室に響く。誰も言葉を挟まない。まるで聖歌のように、ユリシウスの語りが続いた。


「妹であるミリニアは、ただの水の神ではなかった。彼女の歌声は世界を潤し、干ばつに雨を呼び、命を育んだ。アウラはその声を愛し、尊び、そして……残そうとした。妹の“歌”を、永遠に記すために──あの譜面を書き記したのだろう」


 ミヤビは、絵本の最後のページを思い出す。「大好きなチビ」「よく笑い、よく泣くチビ」──本当に大好きだったんだなぁ。


「だが……その旋律は、失われた。ミリニアは、ある日突然姿を消したのだ。彼女の力を受け継ぐ“水門”の制御もまた、彼女とともに封じられた」


 空気がぴんと張りつめる。


「こう聞くと神話のようだが、現実はもっと残酷だ。」


 ユリシウスは伏し目がちに、真実というねじれを語り出した。


「古代マニールは最先端の魔導技術を持っていた。もっとも最先端過ぎて国家にとって重要なものにしか使用されなかった。その一つが水門だ。だが平和な日々が続き、人々は魔導技術を生活の便利さにのみ使うようになった。今使っている明かりや、家庭や店で使う魔導コンロなどは最たる例だ。その結果、最高峰の知識は衰退し、水門の運転技術もいつのまにか失われた。昔からあるものはこれからもあり続ける──そう驕って。」


「以来、マニール王国は“水門”を開こうと試み続けてきた。あらゆる研究者、学者、魔導技師、神官たちが……だが誰も成功しなかった。失われた神の声──ミリニアの“旋律”がなければ、あの門は応えないのだろう」


 エーリが息をのんだ。ミヤビは唇を結び、アルトを見やった。ユリシウスは、その視線を追って、静かにうなずいた。


「……アルトの妻、アネモネも、その研究に人生を捧げた。彼女は“音”と“水”の関係を疑い、古代の歌と儀式を調べ続けていた。だがある実験の過程で、帰らぬ人となった」


 重い沈黙が落ちた。アウリスが、そっと翼をすぼめる。アルトは目を伏せたまま、口を開かない。


「だから私は、君たちの発見を……決して偶然とは思わない。アネモネが追いかけた答えに、君たちは届いたのだから」


 ミヤビの手が、小さく震える。


「ミヤビ君。君がアウリスと出会い、エーリ君があの歌を口ずさみ、アルトがその意味をつないだ。それは、神話の再演ではなく、未来の“解錠”だと私は思っている。──この国を潤す、祈りの旋律の再起動は近いと」


 静寂に包まれた王城の執務室。夕陽が長く伸びた影を落とし、ユリシウスは背を向けたまま外の空を見つめていた。


 謁見を終えたミヤビが一礼しようとした、そのとき──


「アルトさん……どうして、そんなこといままで……?」


 ミヤビが小さく問いかける。彼の言葉と仕草、その一つひとつに、心が追いついていない。


「……すみません、オーナー」


 いつになく、アルトは視線を落としたまま言葉を継ぐ。


「妻の死の原因を……知りたかったんです」


 ざわりと空気が揺れる。


「あなたは……一体……」


 困惑を隠せないミヤビの言葉に、ユリシウスが振り返り、静かに答える。


「彼は私の側近だ。アルト=クローヴェル。宰相付きの秘書官にして、最も信頼する部下の一人……」


 その瞳に、どこか痛みを湛えながら、彼は言葉を続けた。


「この調査のために、私が彼をヴィンクルムへ送り込んだ。すまない……騙すような形になってしまったことを、謝る。彼も最初は何も知らなかったのだ」


「……そうですか……」


 ミヤビの声が震えた。肩を落とし、足元を見つめる。今まで一緒に積み重ねてきた日々が、ほんの少しだけ、遠く感じられた。


 ──でも。


「お待ちください、オーナー」


 それまで沈黙していたアルトが、一歩前に出た。


「……妻の無念を、晴らしたい。その気持ちは本当です」


 そこで、言葉が詰まる。長い沈黙のあと、絞り出すように続けた。


「でも私は──」


 声が、わずかに震えた。


「私は、ヴィンクルムの……従業員ですよ」


 アルトの視線が、正面からミヤビに向けられた。そこには、仮面のような完璧な顔立ちに似合わぬ、正直な想いがあった。


 しばしの沈黙の後──ミヤビがそっと口を開いた。


「そんなの当たり前じゃないですか。でも……アルトさんも、そんな顔するんですね」


 静かな微笑みが、その言葉に添えられていた。少し驚いたようにアルトが目を見開く。


「いいんです。僕は……あなたから、たくさんのことを教えていただきましたから。厨房の段取り、材料の管理、屋台のこと、借金の切り抜け方……どれも自分だけでは乗り越えられなかった。──奥さんの無念、一緒に晴らしましょう」


 その言葉に、アルトの肩がわずかに揺れる。目を伏せる彼の頬を、一筋の涙が静かに伝った。


「……オーナー……ありがとうございます……」


 かすれた声とともに、アルトは深く頭を下げた。


 ふいに、エーリがぽつりと呟いた。


「……私だって」


 その声に、ミヤビもアルトも目を向ける。エーリは腕を組み、そっぽを向いたまま、いつになく真剣な口調で続けた。


「アルトさんにはいろいろ教えてもらいました。真面目に働くこと。遅刻は五分でも社会不適合者ってこと……山桜を見たければ季律の瓶を持ってけってこと」


 その一つ一つの言葉に、ヴィンクルムでの日々が浮かんでくる。


 そして、少し間を置いて──声が、ほんのわずかに震えた。


「……ドレスは、値切るなってこと……」


 涙をこらえるように、エーリは顔をそむけた。肩がかすかに揺れていた。


 そんな彼女の背中を見つめながら、アルトがそっと眼鏡を外した。滲んだ視界のまま、微笑を浮かべて、声をかける。


「……あなたとは……本当に、ウマが合いませんね」


 いつもの決め台詞。けれどその声音には、深い感情が込められていた。


「さあ、帰りましょう」


 控えの間を出る。長い回廊に夕色が差し、足音が石に淡く返る。


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次回「ピアノレッスン」 遂に揃ったピアノの鍵。開けられるのは誰?ヴィンクルムがあった場所の秘密とは、料理人だったはずのミヤビの本当の加護とは。

10日(金)21:00更新 



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