第10話 王の夜会
初めての方は1話「食堂の鳴らないピアノ」からお楽しみください
翌日、王宮厨房局。
朝の光が大きな窓から差し込み、磨き込まれた調理台の上に、銀のボウルや刃物が整然と並んでいる。
「──よし。じゃあ、玉ねぎをたっぷり使ってみましょう」
ミヤビは嬉しそうに木箱の蓋を外し、ぎっしり詰まった黄金色の玉ねぎを両手で抱え上げた。
皮をむいた途端、甘みを含んだ香りがふわりと漂い、周囲の空気まで柔らかく変わる。
ハワードが腕を組み、目を細める。
「……玉ねぎ、か?」
「はい。すりおろした玉ねぎには、肉のたんぱく質を分解する酵素があるんです。
たっぷり揉み込んで一晩寝かせれば、きっと柔らかくなります」
ミヤビは包丁を手に取り、軽やかな音を立てながら玉ねぎを刻み始める。
「それは……この肉にも効くか?」
ハワードは隣の台に置かれた大きな塊肉へと視線をやった。
「やってみましょう」
ミヤビは刻んだ玉ねぎをボウルに入れながら、まっすぐにハワードを見た。
「料理って、化学ですから。──そして、芸術です」
その言葉に、ハワードの口元がゆるむ。
大理石の床に響く包丁のリズムは、まるで調理台を舞台にした演奏のようだった。
翌日。
ハワードは皿の上に残った肉片を名残惜しそうに見つめたまま、ぽつりと尋ねた。
「……この料理は、何というのだ?」
ミヤビは少し考えるように眉をひそめ、それからゆっくりと言葉を選んだ。
「この料理は……かつて、高名な歌手が、陛下と同じ理由でステーキを食べられなくなった時に、ある料理人にお願いして作ってもらったものだと聞きました。
……たしか、“シャリア……”なんとかって……。僕も、よくはわからないんです。雑誌にのってました」
そう言って、少し恥ずかしそうに笑いながら首を傾げる。
「僕が発明したものじゃないのは、たしかです」
ハワードはしばし沈黙し、皿の縁に指を添えながらぽつりと呟いた。
「雑誌に……私をもってしても聞いたことがない。しかしこれは……確かに。化学であり、芸術だ」
まるで何かを確かめるように、低く、しかし深く響く声だった。
──そして現在。
ミヤビは厨房での仕込みを終え、静かに大広間へ戻ってきた。
夜会の光が満ちたその空間は、磨き上げられた大理石の床が魔石の灯りを幾重にも映し返し、
天上のシャンデリアが宝飾のような輝きをこぼしている。
壁面には金糸を織り込んだ豪奢なタペストリーが風に揺れ、その陰影がゆるやかに床を流れていた
メガネを外し、髪型を整えたアルトと、きっちりドレスを着こなしたエーリが並んで待っていた。
二人の顔には緊張が滲み、言葉をかけたいけれど躊躇う気配が漂う。
ミヤビはそんな二人を見て、小さく息をついた。
互いに言葉を交わせないまま、会場の奥から兵士の力強い声が響いた。
「国王陛下御出座!」
その一声に続き、宮廷楽団が揃ってファンファーレを鳴らし始める。
金管楽器の鮮やかな響きが、広間の高い天井から反響し、訪れた者たちの胸を高鳴らせた。
煌びやかな夜会の幕が、まるで絹のヴェールのように静かに開いた。
大広間の入り口に重厚な扉がゆっくりと開かれると、場内の空気が一変した。
誰もが視線を集める中、王族が荘厳な足取りで姿を現す。
王冠を戴き、威厳と慈愛を湛えた国王グスタフ。
その隣には凛とした佇まいの女王エリサベート。
彼らの後ろに続くのは、若き王子や姫たち、そして重臣たちの列。
絹のローブがゆったりと揺れ、魔石の灯りを反射してきらめく。
会場の空気は緊張と期待が入り混じり、一瞬の静寂が訪れた。
国王がゆっくりとバルコニーへ歩み寄り、宴の開始を告げるために口を開く。
国王グスタフは堂々とした立ち姿で、広間の中央に進み出た。
その声は落ち着いていながらも、確かな威厳を帯びていた。
「皆、よう集まった。今宵は色々と催し物もあるようだ。どうかゆっくり楽しんでくれ。」
王の言葉が静かに会場に染み渡ると、ほどなく拍手が湧き上がった。
笑顔が広がり、緊張していた空気も和らいでいく。
そして、王は高く掲げた銀の杯を見つめる。
「我らが大地と民に祝福あれ。今宵、友と喜びを分かち合うために──乾杯!」
声に呼応して、場内のあらゆる手が杯を掲げる。
杯同士が軽やかに鳴り響き、宴の始まりを告げた。
拍手と歓声の中、夜会は華やかに幕を開けたのだった。
夜会が始まると、広間は次第に賑わいを増していった。
貴族たちは優雅な笑みを浮かべ、煌びやかな衣装の裾を揺らしながら談笑に花を咲かせる。
まずは宮廷楽団の弦楽器奏者たちがゆったりとした調べを奏で始める。
弓が弦を撫でるたびに、甘美な旋律が広間に満ちてゆく。
その音色に呼応するかのように、一人の吟遊詩人が現れた。
あの時の男だ。やはり男は王宮に顔が利く吟遊詩人であった。おそらく三人が夜会に呼ばれたきっかけを作った男。
薄紫のローブをまとい、繊細な指先でリュートを弾きながら、静かに歌い始める。
その歌声は澄み渡り、まるで遠い山々の風が流れ込んでくるかのように聴衆の心を掴んだ。
エーリはその歌に微かに引き込まれながらも、どこか緊張の面持ちを崩さない。
一方、ミヤビとアルトは宴の様子を冷静に見守りつつも、内心ではそれぞれの思いを巡らせていた。
次に、踊り子たちが舞台に上がり、優雅なステップで軽やかな踊りを披露する。
魔法の灯りが彼女たちの衣装を照らし、まるで夜空に瞬く星のように煌めく。
しばらくして夜会のメインディッシュが各テーブルに運ばれてきた。
銀の蓋が一斉に開かれ、芳醇な香りが大広間を包み込む。
「おお……!」
貴族たちから歓声が上がる。
本日のメイン、ヴァルノア黄金牛のステーキだ。皿の上に並ぶ分厚い肉塊は、照明に照らされてつややかに輝き、誰もが憧れる“王の好物”の風格を放っていた。
だが、王の表情は複雑だった。
隣に控えていた侍従が声を荒げる。
「陛下は歯のご様子で召し上がれぬと申しておるのに! 料理長、なんと不敬な真似を!」
ざわめきの中、呼び出されたハワードが静かに進み出る。
「よい」
王は手を上げて侍従を制した。
「ヴァルノア黄金牛は余の好物である。その心意気だけでも感謝しよう」
しかしハワードは深く頭を下げ、確信を込めて言葉を返す。
「陛下。今宵のステーキは特別な仕立てでございます。どうか、一口お試しください」
「だが……余の歯がな……」
「ご安心を。その点も加味し、調理いたしました」
王は目を細め、香りに誘われるようにナイフを取った。
「なに……では試してみるか」
刃を入れた瞬間、肉は驚くほど滑らかに切り分けられた。
「おお……何と良い香りだ。では……」
一口、噛む。
「……! 柔らかい! なんという柔らかさだ。だがそれだけではない……口の中で玉ねぎの甘みが肉の旨味を引き立て、深いコクが広がる。まるで、肉自体が歌っておるようだ……」
会場がどよめく。貴族たちの目にも驚きが宿っていた。
王はしばし黙り、そしてゆっくりと杯を置いた。
「……もう、食すことはないと思っていた。さすが、この国一番の料理人だ」
だがハワードは首を振り、謙虚に告げる。
「いいえ陛下。この料理は、ある料理人の知恵を借りて完成したものにございます」
「なんと! 誰だ、その料理人は」
「城下町の、外れにある小さな店の店主にございます」
王は目を細め、ふっと笑った。
「なれば、その者を料理局に迎え入れよ」
「残念ながら、私も誘ったのですが……丁寧に断られました」
「なんと無礼な!」と侍従が声を上げる。
だが王は朗らかに笑い、手で制した。
「よい。彼はこの街と人を愛しているのだろう。民のための食堂か──それもまた崇高なこと。民あっての国だからな」
その言葉に、場内は拍手とどよめきに包まれた。
宴は続き、次第に賑わいは頂点へと達していった。
夜会が終盤に差しかかり、場内の空気が一層引き締まった。
高官が静かに告げる。
「さて、今宵の最後の演目は、国歌の独唱である。歌い手は、エーリ・ルーフェンス嬢である。」
会場の貴族たちの間にさざ波のようなざわめきが広がる。
「誰あの子?」
「知らないわね」
小声で囁き合う声があちこちで聞こえた。
そんな中、王宮音楽隊のメンバーが整列し、舞台中央に位置する。
その指揮者、そしてコンサートマスターはユリシウス。
ミヤビの目がふとその男を捉え、わずかに見開かれる。
(……あの時の……)
初めてヴィンクルムに現れた、護衛を連れた謎の客――穏やかな笑みの裏に何かを隠していたあの男が、なぜここに。
問いは喉まで上ったが、音楽隊の整然たる空気に飲まれ、言葉にはならなかった。
エーリは深呼吸を一つし、背筋を伸ばし舞台の中央へと歩み出した。
ユリシウスの合図で伴奏が始まる。
柔らかく、しかし力強いバイオリンの旋律が大広間を包み込み、国家の厳かな雰囲気を醸し出す。
その音に乗せて、エーリの澄んだ歌声が静かに、そして確かに響き渡った。
最初の一音が空気を切り裂くように広間に響き渡ると、貴族たちは思わず息を飲み、訝しげだった表情が一瞬にして溶けていった。
「なんて澄んだ声なの……」
「まさか、この子があの歌声を?」
「知らなかった……こんな才能があったとは」
ざわめきは感嘆へと変わり、静かな感動が場内を満たしていく。
目を細め、聞き入る者、思わず涙ぐむ者もいた。
ユリシウスもバイオリンの旋律に心を乗せ、伴奏にさらなる深みを加えていく。
エーリの歌声は、ただの音楽を超え、王城の夜会を包む光のように、誰もの心を照らしていった。
歌声が静かにフェードアウトし、最後の音が広間の空気に溶け込むと、会場はしばしの沈黙に包まれた。
誰もがまるで長い夢から覚めたかのように、ぼんやりとした表情を浮かべる。
目を瞬かせ、ゆっくりと現実に戻ってくるかのように顔を上げる者もいれば、まだ余韻に浸り続ける者もいる。
やがて、その沈黙を破るように、感動の拍手が徐々に広がり始め、やがて会場全体を包み込む大喝采へと変わった。
それは、ただの歌唱ではなく、心を揺さぶる奇跡の瞬間だったのだと、誰もが深く実感していた。
夜会の喧騒が徐々に遠ざかり、王城の灯りが静かに消えゆく頃、ミヤビ、エーリ、そしてアルトの三人は王室が用意した豪奢な宿へと案内された。
重厚な木製の扉が開くと、そこには暖炉の柔らかな炎が揺らめく広々とした客間が待っていた。
深い絨毯が足音を吸い込み、豪華な調度品が静謐な空気を作り出している。
エーリはまだ少し緊張の残る表情を浮かべつつも、ふと安心したようにため息をついた。
ミヤビは肩の力を抜きながらも、王宮での一日を振り返っていた。
アルトは窓の外に目をやり、遠くに見える王城の灯を見つめながら、静かに言った。
「今日は皆さんお疲れ様でした。ゆっくり休みましょう」
三人はそれぞれの思いを胸に、この夜の静けさを味わいながら、疲れた体を休めたのだった。
暖炉の薪が静かにはぜる音だけが響く部屋。
ひとしきり落ち着いた頃、エーリがぽつりと口を開いた。
「……ありがとう、オーナー、アルトさん」
ふたりが彼女を振り返る。
エーリは小さく笑っていた。けれどその目には、ほんのりと光が宿っていた。
「わたし……もし、あの日ヴィンクルムに行ってなかったら、きっとまだ、歌うことを……怖がってたと思います。」
「歌なんて、もう二度と自分には無理だって……ずっと、思い込んでたから」
彼女は両手を膝の上で握りしめ、でもその声には確かな力があった。
「だけど……あのお店で出会って、みなさんと過ごして。音楽が……誰かと一緒にいるってことが、こんなにもあたたかいって、初めて知りました」
「だから、ほんとうに……ありがとう」
ミヤビはゆっくりとうなずき、目を細めた。
アルトは口元をわずかに緩め、普段より柔らかい声音で言った。
「……感謝される筋合いはありませんよ。ただ、あなたが歌を選んだだけです」
「うん。でも、きっかけをくれたのは、ヴィンクルムだから」
そう言って、エーリは少しだけ照れたように笑った。
ミヤビはその言葉を胸の奥で反芻しながら、静かに頷いた。
アルトは窓の外に目をやり、遠くの王城の灯を一瞬だけ見つめ、そして目を閉じた。
その夜、三人の間に流れる空気は、王宮の華やかさよりも、ずっとやさしかった。
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次回「神々」 『汝ら、三神の教えを知るか』──ミヤビ大祭の供物を依頼される
12日(金)21:00更新




