part8
4 Mの想起
チョキチョキとハサミの調子を確かめている僕の友、目の前の鏡越しに見える彼の表情は普段でもなかなか見せないアトラクションの順番が来た幼子のような笑顔の表情をのぞかせる。
「今日は実験台になってくれてありがとな」
僕と違い笑顔の似合う男だ。
イケメンとは言わないが、その自然な笑顔は充分に人を引き付ける魅力があると言える。実際、モテなかった訳じゃない。
僕は自然な笑顔というのは一長一短で身につくものではないと思っている。日ごろから笑顔で過ごせる時間が多い家庭環境なのだろうことが容易に想像できる。
「今日はご希望の髪型はありますか?」
と言われても僕に一般常識レベルの美容の教養もない。
しかし、そう弾んだ声で聞かれれば少しくらい口を開いて注文したいという気持ちもわいてくる。だから、いつも少しだけ考える。
「じゃあ、いつも通りこっちのおまかせでいい?」
ここで結局、軽く頷くのがいつもの流れだ。
僕の親友、荒波晴馬は下町の床屋のせがれだ。父にならって自らで美容院を持つことが夢らしい。僕はその夢の第一歩、ゼロ号客というわけだ。
「こういう時、美容師なら学校のこととかについて聞くんだろうけど。お互いのこと大体知ってるから、会話に困るよ。こういうのも修行の一端とも考えられるんだけど」
確かに晴馬のいう通りだし、付け加えるのなら会話したくもない話題だ。あと、彼に髪を切ってもらうのも今日が初めてではないことだし、いつも一緒にいるから話す話題もとうに尽きている。
チョキチョキと軽快な音は鳴りやまない。会話しながら仕事に間違いはない。
率直にすごいなと思う。
「他意はないんだけど、拓真はどうして学校を辞めないの?」
チョキチョキという軽快な音はほんの一瞬だけ鳴り止むが、すぐに作業にかかりだした。
きっと、聞きづらいことを聞く躊躇、そして勇気のための間だ。
どうしてと問われてもそれといった理由はない。
一応、母に行政に通わせてもらっているのだ。ありがたく通わせてもらっているだけだ。
中卒がダメとは言わないが、高卒というのは逃せない肩書だ。
特に僕のような何の特技もないような人間にとっては絶対外せない要件だろう。
「こういうこと言うのも嫌味になるかもだけれど、別にこの高校に来なくてもよかったんだよ。でも、第一思慕に落ちたからやけっぱちになったわけでもなくて、この高校には専門学校への推薦があるんだよ。どうせ、必死に勉強したところで理容師になることを諦めるでもないだろうし、下手にいい学校に行っても進路の話をすれば止められるのは目に見えているから、自分で決めて納得してここへ来たんだけど……」
チョキチョキという音はやがて完全に消え去った。彼の独白の途中から、その手が震え始めているのは伝わっていた。
鏡に映る友を見ても、俯いていて泣いているのかどうかは分からないが、その声音は手同様に震えていた。
「正直言うと、後悔し始めてる」
ぽつりと本心を話してくれた。
僕の方は初めての友に出会えたし、後悔なんてしたことがないんだけどなと少しいじける心もあるが、そんな子供のようなことを言うべき状況ではないことは分かる。
口下手どころか、その友に対してもほとんど口を利いた事のない僕だ。
何ができるだろうかと考える。僕は友であり、同じ境遇の共感者で、自分の気性も相まって慰めるには向いていないだろう、そのおいしい役目を奪ってやるわけにもいかない。
「……!」
だから、気持ち悪く思われるかもしれないけどハサミを持っていない左手を握ってやる。
いつも口を開かない僕に喋ることを強要せず、気を悪くすることもなく、友達として完璧に意思疎通が図れていた。
こういう時、気の利いた言葉を出すことすら最初から諦めている僕に嫌気もさすが、やれる精一杯だったろう。含むところはない。
ただ一つこの時について後悔することがあるとすれば、土曜日の昼過ぎから夕方手前まで客が一人も来ずに、貸し切り状態だったことに違和感を持たなかったことだけだ。
永い陽も落ち始める夕頃、私と葵はてくてくと帰路についていた。
アリバイ検証を込めてなので電車は使えない。そのため、あと3キロは最低でもこのまま徒歩だ。
ショッピングモールでもかなり歩き回ったので、元々インドアかつ運動神経皆無な私はもうヘトヘトだ。
一方の葵はさすがに男の子、まだまだ余裕そうに私の歩調に合わせてくれている。
徒歩一分80メートル、3000で割って38分程、信号その他諸々で45分程、しかし今の私の歩調はその半分の速度ほどだ。疲労がヤバい。
彼一人なら3キロくらい走って帰ってしまえるだろう。そう考えると少々、申し訳ない気持ちが芽生えてくる。
ここは一度、先に帰ってもいいよと一言申すのがマナー、いい女の嗜みなのかもあしれない。財布を取り出して、支払う仕草をチラリとでも見せるのがいい女であるように。
いや、しかしそれで本当に置いていかれたら惨めが過ぎる。いやいやいや、葵に限ってそんなことはないと信じたいが、でもでも私のせいでこのアリバイ検証は半分死んでいるようなものだから、走ってアリバイ検証の趣旨を貫徹しようとするかもしれない。
その可能性はあり得るな。
事件が絡むと、葵は途端、阿呆に堕ちて女性の扱い方とかそういうものを考慮することがなくなってしまう。この前も……、いや、思い出すのはよそう。
「ひどい話だよな」と前置きに一拍。
「何の話でしょう?」
私は一旦、聞き返してみる。
「分かっているくせに」と軽く苦笑い。
癖になっているのだ。
私の持つ情報と相手の持つ情報の相違の可能性、会話の先手を譲り、出方を窺い、その相違を相手に察することを許さず、自分のみのアドバンテージにしようとしているのだ。
他者から指摘されるなりでこういった癖を発見すると、自分の見えている世界がどれだけつまらないもので、鋭いように見えてただ狭窄なだけで、息が詰まる生きづらい心象に生きているのかが分かる。
「うん。分かってる。荒波の実家の話でしょう」
「そうだ。彼の実家の理髪店に脅迫メールや不評その他諸々、聞いているだけで胸が締め付けられたよ」
「ターゲットが自分以外にも向かったことで限界を超えてしまったのでしょうね」
被害者であるリーダーは人の心の壊し方をよく知っている。
根っからの善人で、根性もある相手にはこれが一番効く。
「今までの話を聞いて迷いでも出ましたか?」
「迷い?」
「被害者にもそうされてもやむ得ない黒い理由があったと考えると、このまま事件を究明してどれほど意味があるのか虚しくは感じませんか?」
「玖音、そういう考えは良くないよ」
陽の当たる彼は背丈以上の影を作りながらきっぱりと断った。
「殺されて当然なんてそんな悲しい人間も主張もあってはならないんだよ」
彼の体躯に隠され陽の当たらない私にはどうも賛同しかねる。
「人を何人も殺したとしてもですか?」
意地の悪い質問だ。
こんな問答を繰り返したところで平行線で結論も出ない益のない会話。
だが、意外にも彼は当然だと答えなかった。
「……分からない。僕は玖音にそんな風に世界に目を向けてほしくないと思っているだけだし、もし、そんな人がいたとしても僕たちが決めることでも決められるようなことでもないというのは確かなはずだ」
なるほど。
それも立派な一つの回答と言えるだろう。
彼はいてはいけないといっただけで、私の考えを心が貧相だと否定しただけだ。
「つまり、葵は私にぐだぐだ言ってないで頭を回せと言いたいのですね」
「言い方がきついよ」と苦笑するだけで否定はしない。
「玖音はいつもこういう時に否定的で消極的だよな。いつも返答に困る気の滅入ることを宣う」
「肯定します。私だって人間なもので冷徹な凶悪犯が相手である時と今回のような情状酌量のあるような事件でモチベーションに違いが出るのは当然です」
意外そうな顔をするものだ。
こちらにとってはその反応こそが心外というものだ。
「もっと機械的なもんだと思っていたよ。どの事件も同様に退屈で思い入れをしないタイプだとばかりに」
葵の推察も別に間違いではない。
私は葵に真昼、それに兄もか、彼らのように各々理由は別にしても精力的に面倒ごとに頭を突っ込もうとは思わないし、機械的に事件を解決していく方が楽だと思っている。
「それでも、私情を持ち込むなというのを高校生に求めるのは酷でしょう」
そもそも、前述した彼らの存在が無ければ噂に耳した事件をクイズ感覚で解けてしまってもそれを警察に伝えに行こうとはしなかっただろう。
おそらく探偵としての素質という点では昔の方が優秀だったろう。多少の知識と引き換えに肌をつんざくような第六感のような勘が損なわれてしまった疑いはある。
しかし、私はこの兆候を好いものだと思っている。
第二次性徴前に良い出会いがあって良かった。おかげで人並みの情緒というのが身についた。
「同情、憐憫、贔屓。仕事をこなすうえで個人的感情を排することが必要という考えですか? それこそ葵の考える良くない悲しい考えというやつでは?」
「ナイス一本。僕も同じ考えさ。だけど、こうも思う。個人的感情で他人の刑状を人生を歪めることを良しとしていいのか。特に玖音のように大きな力を持つ割に何の矜持もないない人間は危なっかしい」
思いがけない言葉に面食らう。ディスられたのか?
「矜持を持たないことは認めるところですが、少し言葉が強いのでは? 親しき中にもなんとやら。ね?」
「君の父兄は誇りに満ち満ちているよ」
これには少しぴきっときた。
「兄はともかくとして父もですか? 数回顔をチラリと合わせただけでしょう。あの放浪はベクトルは違えど、私と同類と認識しているのですが、いやそんなことはどうでもいいか。喧嘩をするほどなんとやら、親睦を深めたいというのならお付き合いいたしますが?」
「僕が悪かった。許してくれるか?」
「……はあ、いいですよ。許しましょう」
何となく気づいてしまった。
彼は私に自覚を持ってほしいのだろう。
とは言ってもだ。私は危険が伴う事件に首なんて突っ込みたくないのに、それ以上を私に望むのは過ぎたことだ。
嗚呼、虫も殺せないような幸の薄い顔をしているくせに真昼と肩を並べるほど
「信じられないほどに自己中心」
それからの会話はなかった。ただ、駅について「また明日学校で」と一言だけ。
もやもやとした消化不良感が残るだけだった。