19話 二人からの恩返し
「あ、もう一〇時だ。そろそろ寝なきゃ」
カーテンの閉まったリビングでそう呟くと、僕はテレビを切って立ち上がった。菊がそんな僕を見上げて、なんだか名残惜しそうに言う。
「もう寝ちゃうのです?」
「うん。だって、もう時間だし」
爺ちゃんたちもそれを配慮してか、すでに台所に移って婆ちゃんと雑談している。テレビの音量も最低限だ。
時計を指差した僕に、菊はむうと不満そうに唇を尖らせた。
「もっとテレビ、見たかったのです……。でも、仕方ないから一緒に寝てあげるのですよ?」
「ありがとう。じゃあ、僕は歯磨きしてくるね」
「菊は台所のタマと話してくるのです。あとで陽太も来るのですよね?」
「うん、そうするよ」
菊の問いに頷いて、僕は脱衣所の洗面台で歯磨きをする。
しゃこしゃこと歯ブラシを動かしていると、何やら真上から物音がした。
「ん? なんだろ……まあいっか」
「陽太ー!」
そこに菊がトテトテと走ってきた。
「どうしたの、菊?」
「タマと鎧さん、見てないのです?」
「え? 台所にいなかったの?」
てっきり爺ちゃんたちと話していると思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
菊はコクリと頷いて、困惑した様子で言う。
「はいなのです。なんでも、少し前に出ていってから戻ってこないらしいのですよ」
「ふーん?」
まあでも、あの二人なら心配ないだろう。
あれでもちゃんと大人だし、どこかでゆっくり話しているんだろうけど……。
「菊は探してあげたいんだね」
「むぐっ……べ、別にそんなこと言ってないのです!」
そわそわしている菊に察して、僕は苦笑しながら言葉を続けた。
「顔見てればわかるよ。で、どうする?」
「……タマたちを探すの、陽太にも手伝って欲しいのです。……ダメ、なのです?」
菊が上目遣いで僕を見上げてくる。潤む菊の瞳に胸が痛んで、僕はしょうがないなぁと半ば呆れながら頷きを返した。
「いいよ。一緒に探そっか。ちょうど一つだけ心当たりもあるし」
「ホントなのです⁉︎ って、心当たり? 二人がどこに行ったかわかるのです?」
「もしかしたらってだけだよ。さっき天井から音がしたから。……ねえ、菊? ちゃんと聞いてる? まだいるとは……あ、もう聞いてないや」
途端に目を輝かせた菊に、僕はいちおう忠告した。だが、興奮している菊にはもう聞こえていないようだ。
「早く屋根裏に行くのです、陽太!」
「はいはい。慎重にね?」
菊に腕を引っ張られながらこの家の奥に向かい、僕たちは秘密のハシゴから屋根裏に上がろうとする。すると誰かの足音がハシゴを下りてきた。
「あれ、下りてきた?」
「そうみたいなのです。でも……」
僕たちは声を潜めながら、怪訝さに首を傾げる。
なぜか足音に混じって、幼い少女の泣き声が聞こえてきたのだ。
「────」
「な、何かおかしいのです! 陽太、隠れたほうがいいのですよ!」
「え……隠れるって、どこに……っ⁉︎」
何か異変を感じ取ったのか、菊が警戒を露わにして小声で叫ぶ。
「……っ、しょうがない。とりあえず隣の部屋に!」
慌てて初めて菊を見た時のように隣の仏壇がある部屋に身を潜め、障子の隙間から様子を窺った。本当は菊に状況を聞きたいが……。
「だ、誰か下りてきたのです!」
「タマじゃなくて?」
「違うのです! あの人は──」
「……えっ?」
その菊の答えに、僕は呆然とした。
あり得ない、と思ったのだ。慌てて聞き返そうとしたが、菊の顔を見て問いかけるのをやめた。あまりにもその表情が真剣だったのだ。
やがてハシゴを降りてきたのは、見覚えのない少女一人だけ。
タマや鎧さんの姿はなく、地味な紺の縦じま模様の着物を羽織った彼女は、僕が菊を見つけた時とそっくりに、しくしくと泣いている。
その格好はなんだか、一〇〇年前からタイムスリップしてきたかのようだった。
「……菊、菊……ごめん、ごめんねぇ……っ」
「あの人が、菊を屋根裏に隠した人……? そんなバカな……」
その場でうずくまりながら謝罪を繰り返し、泣きじゃくる少女。
だけど、やっぱりおかしい。だって、あの人はもう何年も前に亡くなっているはず。なのに、こんな姿で現れるなんて……。
「でも、きっとそうなのです……っ」
涙がにじんだ菊の声。もう一度会えた、と手のひらを握り締める菊の姿は、今にも少女の前に飛び出してしまいそうな危うさがある。
……そういえば、もうすぐお盆だっけ。でも、だからって──。
だが、妖怪の実在を思うと否定しきれなかった。
「ごめんねぇ! だけんど、こうしとかんと菊は父ちゃんに捨てられちまう! だからもう、あそこで隠しとくしか……っ」
「…………あ」
少女の嘆きが、謝罪が続く。
何度も、何度も。胸が痛くなるほどに、自責の念はやむことがない。
「……もう、充分なのです」
「菊? 何を……」
ふいに障子を開けて少女に歩み寄る菊にぎよっとして、僕はとっさに止めようとした。
しかし菊は足を止まることなく少女の前に立ち、柔らかい声音で言う。
「菊が愛されてたこと、ちゃんと伝わったのです。だから……だから、ありがとうなのですよ。──タマ」
「え……?」
なんでタマ? と菊の言葉に戸惑っていると、ポンッと破裂音がして少女が消えてしまった。白い煙が晴れると、そこにいたのは着物の少女ではなく黒猫のタマである。
気まずそうな顔で菊から目を逸らして、おずおずと口を開いた。
「……揶揄うつもりは、初めからないのニャ。ただお前たちに恩返しがしたくて、ご主人と話してひと芝居させてもらったのニャー」
「──タマの言う通りである。吾輩も賛成して、こうして協力しておった」
するとハシゴから下りてきた鎧さんも少し顔を逸らし、「だが」と菊を真っ直ぐに見つめ直す。
「だが、タマがした演技は、決して嘘ではない。吾輩がかつて妖怪になる前、実際に屋根裏から聞いた発言であるからな」
「…………えっ?」
一拍、二拍。
僕たちは目をまん丸にして、驚愕した。
「嘘じゃない? それって、つまり……」
「うむ。先ほどの言葉も、少女が言っていたものをそのまま再現しただけである」
僕の言いたいことを察して、鎧さんが真剣な眼光で頷く。
「……ホント、だったのです? ホントに、菊は捨てられてなかったのです?」
「吾輩、嘘は嫌いであるぞ」
菊は口元を手のひらで押さえながら、その瞳を涙に潤ませている。そんな菊の幾度もの確認に、鎧さんは胸を張ってそう告げてくれた。
とうとう溢れた菊の感情が、赤い着物を濡らす。
頬に伝って流れた涙の雫が、ぽつぽつと畳にも落ちていく。
それは静かで、されど菊の激情にこぼれた歓喜だった。
「……よかったね、菊」
僕はふっと笑って、菊に言う。
「はいなのです!」
返ってきたのは、にぱっと弾けた満面の笑顔だ。
人が紡いだ物語は、人知れず誰かによって繋がれている。だから遥かな時間を超えて、想いは届く。届いた言葉に笑顔が溢れて、また新たな物語が生まれていくのだ。
それが、僕には言葉にできないくらい眩しくて。
いつか自分もこうして誰かを笑顔にできるのだろうかと、そう思った。
「──あ、陽太への恩返しは、ニャーの見つけたキノコだニャ」
「……ねえタマ? これ、ちゃんと食べれるやつ?」
「さあニャ? あと稲荷さまからもらってきた果物もあるけど、いるかニャ? 桃とブドウ、それとお酒ニャ」
「最初からそっちが欲しかったかなぁ。でも僕、お酒は飲めないんだけど……まあ、ありがとね、二人とも」
「ニャッ!」
「うむ!」