10話 タマの昔話
タマが生まれたのは、今から五〇〇年前の戦国時代である。
山奥の小さな村にあった木材の影で育ち、母猫の温かい毛並みにぬくぬくとしていたことをかすかに覚えている。
だが、それも長続きはしなかった。
なにせ幼い猫には外敵が多い。蛇やイタチ、タヌキもそうだったが、人間も自分の飼い猫以外には厳しかった。母猫にもご飯をくれる者はいたが、それが子猫もとなるとキリがなく、結果として虫を取ってくるしかなくなった。
とはいえ、まだ生まれて間もないタマに理解できるはずもない。
美味しそうな料理の匂いに釣られてよちよちと家に入ってみると、先住猫に怒られる日々。運が悪い時は人間に見つかり、大目玉をくらっては外に投げ出される始末だ。
「あんた、あそこには入るなって言ったでしょ」
「だって、お腹減ってたニャ……」
母猫にそう言えば、よく自分のご飯をわけてくれた。
あまり美味しいものではなかったけど、タマにとってはお腹が膨れることのほうが大切だった。
しかしタマが大きくなる頃、母猫は突然姿を消した。
その時はわからなかったが、今思うと自分の命が長くないことを察したのだろう。その頃、タマは一歳を迎えたばかりだった。
すでに兄妹たちは山で虫を取れるようになっていたし、心配ないと思ったようだ。
だが、タマは一番下の末っ子で身体も小さかった。
一日中バッタを追いかけて泥だらけになって、ようやく一匹捕まえるのが限度である。
「ニャーにもわけてほしいニャ」
「嫌だ。これは俺が取ったんだ」
あまりにお腹が減って兄に頼んでみたが、彼らも生きるか死ぬかの瀬戸際だ。
仕方なくタマは母猫に禁止されていた家に勝手に入って、人間にご飯を譲ってもらっていた。
しかし、そんな日々は畑の稲や野菜が不作になった年に、あっさりと瓦解した。人間は誰もご飯をくれなくなり、元々ズルをしていたタマに手を差し伸べる同族もいない。
「またこいつか」
「どっかいけよ、汚ねぇな」
そんな人間と同族からの心無い言葉とどうしようもない空腹は、タマの心と体力を削っていく。
そしてとうとう我慢できなくなり、タマはある冬の日。
人間が家の軒下に釣るしていた柿を盗んでしまい、その家の主に蹴り飛ばされた。
寒さに凍えていく中で、タマは幼いながらも自分の死を悟る。
「にゃー、にゃー……」
助けて、助けて。
そうして鳴いた声は吹雪の音でかき消えた。
もうダメだ、と傷だらけの身体を藁の中に投げ出して、タマは孤独な夜を過ごした。長い長い時間が過ぎて、やがて村に朝日が昇る。
タマは動く力もないまま、目を瞑った。
「────」
……賑やかな声がする。
活気のなかった村に響いた人間たちの声に、タマはぼんやりと目を開けた。
かすれそうな意識の中で藁から「にゃー……」と力なく鳴いた。きっと誰も気付かないとは思っていたけど、誰かに助けて欲しかったのだ。
「かたじけない、お侍さま! これで皆、今年の冬を越せますぞ!」
「気にするでない。困った時はお互いさまであるからな!」
はっはっは、と愉快そうな男の笑い声。
どうやら村に食料を持ってきてくれたらしいとタマは悟って、よかったと安堵した。
ひどいこともされたけど、タマは村の人間が嫌いではなかったのだ。
「にゃー……」
よかったニャ、とタマは笑い声の中で目を閉じて──
「なんだ? 今、猫の声が聞こえたぞ?」
ふいに藁をかきわける音がして、ふわりと身体が持ち上げられる。
だらりと力なく脱力したタマを、男が見つけて温かい胸の中に抱き上げてくれたのだ。
「ややっ、これはいかん! ──皆、急いで湯を沸かせ!」
「はっ! ──おい、お侍さまのご命令だ!」
どたばたと騒がしい足音と声。
「おい、お主! しっかりせい!」
強い口調、されど優しさに溢れた男だと、タマにもわかった。
薄っすらと目を開けてみれば、「おう、もう少し頑張れよ!」と言ってニカッと笑う。その男は見たこともない固い鎧に身を包んだ、村の人間とはまとう空気からして違う者だった。
なのに母猫といるような温もりがあって、タマは確かな幸せの中で眠りについた。
ぱちぱちと囲炉裏の火が弾けている。
その音を図体の大きな男のいびきがかき消して、タマはそのやかましさに顔をしかめて起き上がった。
「……にゃ?」
どうなってるニャ、とタマは首を傾げて周りを見渡す。
どうやら人間の家のようだが、いつもはここに入ったら怒られるのだ。なのに目の前にはぐつぐつと煮え立ったお粥の香りを漂わせたまま、タマは放置されていた。
「んん……む、起きたか、タマよ」
タマってなんニャ、とまた首を傾げる。
「ハハハッ、お主の名前である。お主はこれから、吾輩の飼い猫になるのだぞ! ──どうだ、タマよ! 気に入ったか?」
「にゃあっ!」
「おお、これはすまん! まずは飯が先だったな!」
「ふにゃー……」
そんなこと言ってないニャ、とタマが文句を言ってみるが、人間である男に通じるはずもない。底抜けに明るい男は急かされていると思ったのか、嬉しそうに器にお粥をよそい始めた。
「まあ待て。もう少し冷ましてからである!」
「うにゃ」
お粥の美味しそうな香りに誘惑されて、タマはまあいいかと思い直した。
やがてお粥が出されると、タマは男の顔色を窺ってからゆっくりと食べ出す。男は安堵した様子でしばらくタマの食事を見守っていたが、やがて思い出したように自分の分を用意した。
ずずず、とお粥の汁を吸う音にビックリして顔を上げると、男がニカッと笑った。
「どうだ、美味いか?」
「にゃっ!」
それが、タマと呼ばれた最初の日だった。
そして同時に、この男──前田勘吉という侍との日々の始まりでもある。
しかしタマにとって予想外だったのは、この勘吉がやたらと構ってきたことだ。暇さえあればタマを呼び、毎回うざいぐらいに構い倒してくるのである。
「タマー、一緒に飯を食うぞ!」
「タマー、散歩の時間である!」
「タマー、どこにいったであるか⁉︎」
もはやくつろぐどころではない状態に、タマも呆れかえって終いには鬼ごっこに変わっていた。
しかし、勘吉を嫌うことはない。自分がどれほど恵まれているかを理解していたし、勘吉の寂しそうな姿を見たらすぐさま近寄っていった。……まあ、大抵が嘘だったのだが。
とはいえ、やがてそんな日々も終わりを告げた。
当時は戦国時代で、勘吉は侍だ。上から呼び出されたらすぐに馬に乗って屋敷を出ていくのは当たり前である。
「またな、タマ。大人しく待っているのであるぞ?」
そう言って出ていった何度目かの夏。
その年、勘吉は帰ってこなかった。
──何度待っても、何年待っても。
それからずっと、タマはその約束を守っている。
寿命を超えて猫又になっても生きて、生きて──五〇〇年という長い時を、この村で過ごしてきた。
たくさんの人間を見守って、数えきれないほど同族を見送って。
それでもなお、勘吉の帰りを待ち続けているのだ。
タマはそんな昔話を語り終えると、すっかり湿っぽくなったリビングの雰囲気を嫌って外に出ていった。きっとまたどこかの家にお邪魔するつもりなのだろう。
「……タマにそんな過去があったなんて、初めて知ったのです」
「……そうだね。僕もビックリしたよ」
菊がまだ衝撃の抜けきらない声音で言い、僕もコクリと頷いた。
普段からだらけているように見えるタマが抱えていた想いと、そこにこもる感情の強さに、僕はつい宿題をする手が止まっている。
ハッと我に返ってシャーペンを動かそうとしたけど、ちっともその気になれなかった。リビングはいまだ、深い沈黙に包まれたままだ。
タマのご主人がどうなったのか。
それはきっと、タマ自身が一番わかっているはず。
けれど、それでもいつか二人が再会して欲しいと、僕は願った。