午後10時、名前の代わりにくちづけを
午後10時。
カフェのあとの帰り道、ふたりの足音だけが静かに響く夜道。
「……少しだけ、うち寄ってく?」
神谷くんがそう言ったとき、私はうなずくことしかできなかった。
断れなかったんじゃない。
彼の言葉に、もう心が追いついてしまっていたから。
部屋の中は、ほの暗くて、落ち着いた香りがした。
スーツを脱ぎながら、神谷くんがコップに水を注ぎ、
私に手渡してくれる。
「緊張してる?」
ソファに腰掛けた私の隣で、彼が優しく笑った。
「……ちょっとだけ」
そう言った声も、少し震えていたと思う。
けれど、彼はなにも急がなかった。
私の手にそっと触れて、そのまま指を絡め、
目を合わせたまま、黙っていた。
「……帰ってもいいんだよ」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
でも同時に、彼の優しさが胸を満たしていく。
「……帰らない。今日は、そばにいたい」
私がそう答えると、神谷くんの瞳がすこし揺れた。
ゆっくりと、私の頬に手を伸ばして、髪を耳にかける。
「……じゃあ、キスしていい?」
返事をするよりも先に、
唇がそっと重なった。
静かで、優しいくちづけ。
でも、そのあと何も言葉を交わさなくても、
触れた指先や、交わしたまなざしだけで、
気持ちは全部、伝わっていた。
照明を少し落とし、肌が触れ合って、
互いの鼓動が重なって、
ふたりだけの夜が、静かに深まっていく。
名前の代わりに何度もくちづけて、
言葉じゃない方法で、
お互いの「好き」を確かめ合った。
きっと明日から、何かが変わる。
でも今はただ、
この夜の中で、彼の胸の中にいたかった。
私はもう、誰にも代われない“誰か”になれた気がしてい