午後5時、帰りたくない理由ができた
「午後5時、ふたりだけの約束」
午後5時。定時のチャイムが鳴る少し前、オフィスはそわそわし始めていた。
キーボードの音が少しずつ減って、席を立つ人たちの気配が増えていく。
私も、ようやく最後のメールを送り終えて、深くひとつ息を吐いた。
神谷くんとは、あれから毎日のように言葉を交わしていた。
“特別”になった私たち。
でも、まだ誰にも話していない。
仕事中は、これまで通り。
だけど、視線が合うだけで気づく。
彼が、私の隣にいてくれるってこと。
「佐伯さん、今日……少し寄り道しない?」
席を立とうとしたとき、彼がそっと声をかけてきた。
普段と変わらない声。でも、その中に微かな“特別”があって。
「うん、行きたい」
私は自然にそう返していた。
オフィスビルの外に出ると、春の風がやさしく頬をなでた。
街は、ちょうど仕事終わりの人たちで少しだけ賑やかだった。
「ねえ、行きたいお店があるんだ。前に話してた、あのカフェ」
神谷くんはそう言って、小さく笑った。
私が仕事の合間にポロッと話した、気になってたカフェの名前を、ちゃんと覚えてくれてた。
歩く歩幅が、自然と合っていく。
話す言葉も、沈黙の間さえも、全部が心地いい。
「ねえ、佐伯さん」
カフェに着く直前、彼が足を止めた。
「仕事中は、ちゃんと線引きするって決めてるけど……やっぱり、こうやって君と一緒にいられる時間が、いちばん好きだなって思う」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
私も、そうだった。
どんなに忙しくても、彼の声ひとつで心が軽くなる。
そんな存在になっていた。
「……私も。こうして隣にいてくれるの、すごく嬉しい」
午後5時過ぎ。
街の音に紛れるように、小さな“約束”が生まれる。
ふたりで過ごす時間を、大切にしていこう。
急がず、焦らず、でも確かに、恋を育てていこう。
そんな気持ちが、春の風に乗って、そっと心を包んでくれた。