第一章:隠岐の孤独
怨念か悟りか——和歌が導く、後鳥羽院最後の選択
鎌倉時代、承久の乱に敗れた後鳥羽院は、隠岐へと流される。かつては帝王として武士の世を覆そうとした彼だが、流刑の地で孤独と無念に苛まれる。しかし、彼の心の中にはまだ炎がくすぶっていた。
夜ごと夢に現れるのは、霊界の歌人たち——藤原定家、西行、式子内親王、そして崇徳院。
後鳥羽院は迷い続ける。復讐の炎に身を焦がすのか、それとも悟りを開くか。
和歌の力が導く先に、彼は何を見るのか?
後鳥羽院は死の床に臥せっていた。
源福寺の行在所。潮風にさらされ続けたこの屋敷は、年月を経て古びてはいたが、なお堅固であり、静寂の中に凛とした佇まいを見せていた。
隠岐に配流となって二十年の歳月が流れた。
かつては天下に君臨した帝も、今やこの狭き寝所に囚われた病人に過ぎぬ。歳月は彼の身体を蝕み、手足の力は衰え、呼吸さえもままならない。
枕元には白湯が置かれ、側に侍る僧が気を配る。しかし、それを口にする気力すらなかった。
——見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ(定家)
藤原定家の歌が脳裏をよぎる。
秋の夕暮れ、寂寥たる浦の苫屋。春の桜も、秋の紅葉も、すべては都に残してきた。
「見渡せば……」
かつての華やかな宮廷。玉座にあって臣下を従え、武士たちに命を下していた自分。
しかし、それは過ぎ去った幻である。
後鳥羽院は、十九歳で第一皇子である土御門天皇に譲位し、以後は院政を行った。
この間、彼は宮廷文化の頂点を極めるべく、和歌や武芸に励んだ。彼は勅撰和歌集『新古今和歌集』の編纂を命じ、藤原定家や寂蓮ら名だたる歌人たちを召し抱えた。
都の御所には夜ごと歌会が催され、ろうそくの灯が揺らめく中、雅な旋律とともに、和歌の詠み交わしが続いた。
彼は、自らも筆を執り、時には定家と詠み比べ、また時には歌論を戦わせた。
「歌は、言の葉の剣。武士の刀に劣るものに非ず」
そう信じていた後鳥羽院は、武芸にも深く傾倒し、弓馬の鍛錬を欠かさなかった。
宮廷に道場を設け、自ら弓を引き、太刀を振るう姿は、帝王でありながら歴戦の武士のようでもあった。
それは、彼の気性の激しさと、理想とする帝王像の表れといえる。
やがて鎌倉幕府との関係は悪化していった。
後鳥羽院は、幕府に対し、自らの権威を認めさせようと度々圧力をかけた。
朝廷内では「武士の世を終わらせ、帝の支配を取り戻すべき」とする声が強まっていく。
承久3年(1221年)、ついに討幕の挙兵が決行。
全国の公家や武士たちに密かに令旨を下し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。
しかし、幕府の反撃は迅速だった。尼将軍北条政子の檄に、東国武士団が結集し、幕府軍は瞬く間に京へと進軍。
迎え撃つはずの朝廷軍は、統制が取れずに敗走し、戦の趨勢は一瞬にして決した。
京の都に響く鬨の声。
燃え上がる貴族たちの邸宅。
御所を離れる際、後鳥羽院は最後まで抵抗を叫んだが、それを支える者はほとんどいなかった。
彼が信じた貴族たちは、幕府軍の威に恐れをなし、次々と離反。院の威信は崩れ去り、もはや戦の行方を変える術はなかった。
敗戦の翌日、後鳥羽院は幕府によって捕縛。政権を握った北条義時は、彼に死罪を宣告することもできたが、代わりに流罪を命じた。
それが「上皇の権威」を完全に封じ込める最も有効な策だと判断したからである。
隠岐へと送られる道中、後鳥羽院は輿に揺られながら、目を閉じていた。かつては全国を支配していたこの手が、今や何一つ握るものがない。
穏やかな海風が頬を撫で、遠ざかる京の都の気配が、帝の胸を締め付けた。
それから二十年もの間、彼は隠岐の島で孤独と悔恨の日々を過ごすこととなったのである。
枯れた手指を動かし、古びた硯に手を伸ばす。が、墨を磨る気力はない。ともすれば薄れゆく意識の中、歌を詠むことだけが、己の存在を繋ぎ止める術であった。
その夜——。
風が動いた。
竹林を抜ける風が、後鳥羽院の額を撫でるように吹く。
ふと、意識の淵に立つ。
「……まだ、終わるわけにはいかぬ」
掠れた声が、寝所に響く。
その瞬間、闇の奥から微かに現れる影。
「後鳥羽院さま——」
その声は、過去の記憶を呼び起こした。
「定家か……?」
そこに立っていたのは、一人の男。権中納言藤原定家の生霊であった。
黒衣をまとい、白髪が月光に照らされていた。
かつて、後鳥羽院と定家の関係は、単なる君臣のそれではなかった。
後鳥羽院は和歌を愛着し、勅撰和歌集『新古今和歌集』の編纂を命じた際には、定家を重用した。
だが、二人の間には微妙な緊張感が常に漂っていた。多芸多才な後鳥羽院の多趣味に引きずり回されて、定家は、何度も大変な目に会ってきたのも事実である。
院は、競馬、相撲、鞠、闘鶏、囲碆、双六に熱中したうえ、更に水無瀬離宮の普請、極めつけは、二十八回の熊野詣でだ。熊野はとにかく遠い。
「院は、和歌を愛するあまり、その美を追い求めすぎる」
定家は、内心そう思っていた。
後鳥羽院は技巧を凝らした華麗な歌を好み、定家の選ぶ歌が簡素すぎるまたは難解すぎるとして、たびたび対立した。
ある日、宮中での歌会で、後鳥羽院は定家の選歌に不満を示した。
「この歌、あまりに淡白すぎる。もっと雅なる趣が欲しい」
定家は沈黙し、ただ頭を下げるのみであったが、その双眸には抗えぬ信念が宿っていた。
やがて、両者の溝は深まり、決定的な事件が。
承久二年(1220年)二月十三日、順徳天皇の歌会のことである。定家は次の歌を詠んだ。
—— 道のべの 野原の柳したもえぬ あはれ歎きの 煙くらべに(定家)
「道のほとりの野原の柳が下萌えした」
「あたかも、嘆きのために立ち昇る私の胸の煙と競い合うかのように」表面上は亡母追悼の歌に過ぎない。しかし、天才歌人は二重三重の意を込めるのだ。
この和歌を見て、後鳥羽院は激怒した。
「おのれ、定家、閉門を命ず!」
世に言う「定家院勘事件」である。
後鳥羽院はこの歌の「柳下燃えぬ」と「煙くらべ」の掛詞に隠された意味を瞬時に見抜いていた。
「あれは、三種の神器、草薙の剣なしで即位した院の嘆きを歌ったものですが」
「ふざけるな!歌の真意、我が自ら解説してやろう」
以下、後鳥羽院の解説。
「柳下燃えぬ」は、「柳下に鍛す」という故事成語を踏まえれば、刀鍛冶を意味する。
すなわち、これ、すなわち我が自ら刀剣を鍛え、軍備を増強したことを指す。 さらに、「煙くらべ」は、まさに院が「西面の武士」を設置し、鎌倉幕府への圧力を強めた状況を暗示していた。「軍備増強くらべ」であったのだ。
「お前は和歌で我を批判したのだ」
「紅旗征戎吾が事に非ず」「大義名分のある戦争でも、所詮野蛮。芸術至上主義の自分には無関係かと」
「まだ、言うか!」
よって、定家が謹慎となるは当然のことであった。
翌承久三年五月、承久の乱が勃発。そして七月、後鳥羽院は敗北し、隠岐への配流が決定される。そして、定家に対する院勘は最後まで解かれることはなかったのである。
後鳥羽院の敗北とともに、二人の道は完全に分かたれた。
定家は、院勘のおかげで逆に処罰を免れ、正二位にまで出世した、実際に、上皇側の武士は斬首、貴族も処刑・流罪・解官だったのである。
今、定家の生霊が目の前に現れたのは、過去の因縁の続きなのか、それとも——。
「定家か……そなたも、我を嘲笑いに来たのか?」
後鳥羽院は苦笑いを浮かべる。
「いいえ、帝。私はただ、和歌の力がいかなるものかを、再びお示しするために参ったのです」
定家は静かに言葉を紡ぐ。
「和歌の力……」
「かつて陛下は、誰よりも知っておられたはず」
後鳥羽院は、微かに目を細めた。
「和歌が、何を変えられるというのだ」
定家の目が、鋭く光る。
「言葉は、時を超えます」
「和歌は、怨念にも、浄念にもなります」
「帝が最後に選ばれるのは——」
風が止んだ。
後鳥羽院は、何も答えず、瞑目した。
夜は、なお深まっていく。
(つづく)