間違い
今回のものです
「ごめんね」
力のないその懺悔の言葉は、しっかりと聞こえた。
―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―◇―
「わたし」は人付き合いが苦手だ。
「わたし」の身の回りにいる人が怖い。
いつも何かを隠していそうだし、本性が見えないというのか、まあそんなところだ。
そんな「わたし」は今日も学校に通う。そろそろ三年生になるというのに、進路のことなど未だに決めることができていない。
「……はぁ」
窮屈で窮境な日々を送る「わたし」には友人と呼べる友人もいないため、学校ではほぼいつも一人だ。ぼっちとでもなんとでも言えばいい、「わたし」は否定しない。肯定もしないけど。
「わたしにも友達ができたらいいのに」
そんなひとりごとを呟いても、誰も反応しない。「わたし」の学年にはもう大体の人が固定グループにいる。だけど「わたし」はそのはぶれもの。だれも気に留めない、道端の石ころみたいな存在。
「わたし」はみんなとは違う。みんなは同じなのに、「わたし」だけ違う。その事実がどれだけ心を締め付けているのか、「わたし」自身もあまり理解していない。
「わたしは――」
誰にも必要とされていないのか、そう言いかけた瞬間、目の前が急に真っ暗になった。
「……えっ?」
体の感覚がなくなっていくのを感じる。頭が痛い。「わたし」の意識は、徐々に常闇の彼方へと沈んでいってしまった。
「――はっ」
「わたし」は目を覚ます。そこは見慣れた「わたし」の部屋のベッドの上で、窓からは夕日がオレンジ色の光を指し、少しずつだが、すでに夜の帳が降り始めていた。
「なんで、ここにいるの?」
「わたし」は今日のことを思い出してみる。朝起きて、学校に行って、そこからの記憶が、まるで霧がかかっているように思い出せない。
「学校は?」
学校はどうしたのだろうか。今が夕方ということは、倒れてから何時間も経過しているはずだ。普通なら病院で寝ていそうだが、「わたし」がいま寝ているのはベッドの上、しかも自分の家の自分の部屋だ。
「とりあえず、色々確認しないと……」
そう言いながら、「わたし」はベッドから起き上がる。
部屋にはいつものように、いつもの場所に学校カバンが置いてある。中を確認すると、明日の授業で必要なものが全て入っている状態で、ファイルの中にも既に解き終わっている課題が入っていた。
「誰かがやってくれたの?」
そう思って課題を見てみると、そこにあった字は紛れもなく自分自身の書いた字だった。
「…………怖っ」
自然と漏れたその言葉は空気中に霧散し、「わたし」はもう何も気にしないようにした。考えたら考えただけ疲れるだろうから。
今日もまた「わたし」は学校へ向かう。
いつもと変わらない道を通って、学校へたどり着く。昨日は確か、このあたりで目の前が真っ暗になって、気がついたらベッドにいた。
だけど今日はいつも通りで、目の前が真っ暗になることもなく、普通に教室までやってくることができた。昨日のは何だったのだろう、そう思いながら扉を開き、教室に入ると、クラスメイトが一人、「わたし」の方へと寄ってきた。
何かしてしまっただろうかと不安に思っていると、そのクラスメイトが「わたし」に声をかけてきた。
「ねえ、昨日勉強教えてくれるって言ってたけど、今日空いてるかな?」
「――はひ?」
クラスメイトのその全く身に覚えのない言葉に、「わたし」はすっとんきょうな声をあげてしまう。
「あたしは早めに教えてもらえたら嬉しいんだけど、どうかな?」
「え、えーっと……」
「あ、私も教えてほしい!椎名さん、昨日教えるの上手だったし!」
もう一人、近くにいた女生徒が便乗する。
「わたし」には昨日の記憶が一切ない。
しかし、彼女たちの言葉から考えるに、昨日、「わたし」は今まで関わったこともないクラスメイトと話し、大してできもしない勉強を教えた、ということになる。
つまるところ、「わたし」は昨日しっかりと学校に通い、授業を受け、家まで帰ってきたのだ。どういうことだろうか、いやその前に、「わたし」のようなはぶれものがどうしてクラスメイトと話すことができているのだろうか?石ころみたいな、「わたし」が。
なぜ、なぜ、なんで、どうして?
沢山の疑問符が頭を埋め尽くしていってしまう。そうして、しばらく固まってしまっていた「わたし」は、
「……ごめんなさい」
そう言葉をこぼして、自分の席に着いた。
これ以上考えると、頭がどうにかなってしまいそうに感じたから。
「わたし」は今一度考えてみる。「わたし」には昨日学校に行っている間の記憶がなく、気がついたら自室のベッドの上だった。
だが、クラスメイトの話を聞く限り、「わたし」は昨日、しっかりと学校で授業を受けたし、クラスメイトに勉強を教え、さらには後日また勉強を教える約束まで取り付けたらしい。
この話で最も不可解な点は、「わたし」には昨日の記憶がないということだ。記憶がない、となると記憶喪失の線が真っ先に出てくる。だが、そう一部のみの記憶喪失などあるのだろうか。単に物忘れをしたという可能性もあるが、それでもぽっかりと虚空のようになくなったこの記憶を説明するものとしての根拠は薄い。
……うん、やっぱり何度考えてもわからない。
もう一度同じことが起きたら考えよう、「わたし」はそう思い、今日はもうこの問題について考えることをやめた。
「おはよう、『わたし』」
その声は、ぼんやりとした「わたし」の頭を醒ますには十分だった。
「――っ」
頭が痛い。先ほどまで授業を受けていたというのに、一体ここはどこなのだろうか。そう思って、声のした方向へ視線を向けると、
「よく眠れた?」
私がいた。
「えっ……え?」
「まあ、困惑するのも無理はないよね」
仕方がない、とでも言うように、彼女はため息を吐いた。
「私はあなたのもう一つの人格……って言ったらいいのかな。そんな感じ」
「わたし」は今の状況を飲み込めていないでいる。授業を受けていたと思ったらいつの間にかこの真っ白な場所にやってきていて、目の前には「私」がいる。
こんな状況、はいそうですかと飲み込める方がおかしいだろう。
「あ、貴女は……わたし、なの?」
「うん、私はあなただよ。でも、その存在は違う。私はあなたの手助けがしたいの」
「て、手助け?」
「わたし」が聞くと、「私」は答える。
「あなたはさ、学校で皆に馴染めなくて、一人で石ころみたいだとか、はぶれものだとか。自分のことをそう言ってるでしょ?」
「だって、それは、事実だし……」
「私」は「わたし」の言葉を否定する。
「そんなことない。私はあなたのいいところを沢山知ってる。あなたは気遣いができるし人のいいところを沢山見つけられるし、勉強を教えるのも上手だし――」
「それは、わたしじゃなくて貴女のいいところなんじゃないの?」
なんとなくわかった。昨日の「わたし」の記憶がない理由が。
それは多分、昨日表に出ていたのは「わたし」じゃなくて「私」だったからだ。
「私」は多分、いま「私」が言ったことが全部できるのだろう。どう考えても、「わたし」にはできないようにしか思えないから。
「……私の元はね、あなたなの。だから、私にできることは絶対、あなたにもできる。私は、あなたの代わりに表に出て、まず皆と少しずつ関わっていく。その後に、私じゃなくてあなたが表になって、そのまま皆と関わり続ける。私にできることはあなたにもできるから、あなたは皆と仲良くなれる。はぶれものとか、石ころとか、そんな存在じゃなくなるの。あなただって、今のままじゃ嫌でしょ?」
「でも、それは皆を騙すのと同じじゃないの?貴女は言ったよね、わたしと貴女は違う存在だって。仮にわたしに貴女ができることが全部できるとしても、皆の求めている人はわたしじゃなくて貴女でしょ?」
「……優しいね」
「優しくなんてないよ、ただ真実を言ってるだけ。確かに、わたしは今のままじゃ嫌だよ。でも、皆を騙すのも嫌だ」
「皆のことを考えてる時点で、十分優しいよ。じゃあ聞くけど、あなたはこのまま時間が過ぎて、成長しないままでいいの?さっきも言ったけど、私はあなたの手助けがしたいの。あなたが人としてしっかり成長する手助けを。だから私はあなたとこうやって話してるの」
「それは、貴女のエゴじゃない?」
「私はあなただから、あなたが考えればわかるよ」
「わたし」は考えてみる。もし、「わたし」と「私」の立場が逆だったら。
そしたら多分、「わたし」は善意で「私」を助ける、そう思った。
「……じゃあ、お言葉に甘えるよ」
「わたし」がそう言うと、「私」はにっこりと笑顔を返す。
そうして、「わたし」と「私」の奇妙な関係が始まった。
そこからは驚くほどに早く事が進んだ。
まず、「私」が持ち前のコミュ力でクラスメイトに話しかけたり勉強を教えたりする。その後、「わたし」がその関係を持続させるために話しかけられたら話したり、時には自分から話しかけたり、勉強を教えたり教わったり、一緒に出かけてみたり。
皆を騙してしまうのは心が痛むが、それ以上に、「わたし」の心には幸福が訪れていた。石ころみたいなはぶれものが、皆と仲良くなることができた。それもこれも全部、「私」のお陰。真っ白な場所で度々会っては、その都度お礼を言っている。
ただ、等価交換だ、とでも言うように幸福が訪れた後には必ず不幸が待っている。
それを実感したのはちょうど今日だ。
「ねえ、椎名ってさ、いつまで騙されてんだろーね?」
「ただの都合のいい道具でしょ、あいつなんて。実際、勉強教えてくれたり奢ってくれたり、頼めばなんだってやってくれるじゃん」
「ね。誰も友達として見てないって。てゆーか、誰があれを友達だって思うんだろ」
聞こえてしまった、友達だと思っていたクラスメイトたちの本音。
「わたし」は利用されるだけの、ただの都合のいい道具。そう思われていた、そんなことないと思いたい。だけど、クラスメイトはその話を楽しそうに、さぞ愉快に話している。
人はいつもなにかを隠しているって、わかっていたはずなのに。
本性が見えるはずもないって、知っていたのに。
頭ではわかっているつもりだったことをいざ現実として突きつけられると、「わたし」は涙が出そうになるのを必死でこらえることしかできなかった。
こうなってしまったのは誰のせいだろうか?
「わたし」に本性を隠し利用し続けたクラスメイトだろうか。
そんなクラスメイトを信じていた「わたし」だろうか。
そんなクラスメイトと仲良くなるように仕向けた「私」だろうか。
それとも、こんな理不尽な世界を創った神様だろうか。
「わたしはもう、何がなんだかわからなくなっちゃった」
「わたし」は、目の前にいる「私」にそう言った。
「……ごめんね」
「私」は静かにそう言う。責任を感じてるのか、その表情は暗いままだ。
「貴女が謝る理由なんて、どこにもないよ」
「いや、あるよ。私のせいで、あなたに迷惑をかけた。なら、これ以上迷惑をかけないためにも、私はいなくなった方が――私っていう人格を消した方がいい」
「っ!そんなの、駄目だよ」
「でも、やらなきゃ」
「私」は力なく、そう言った。
「私が弱いからこうなっちゃったの。きっと私じゃなかったら、こんなことにはなってなかった」
「……そんな事ないよ」
「わたし」は「私」の言葉を否定する。
「ううん、私じゃ力不足だったんだよ。だから――間違った。皆にあなたを利用させちゃって、あなたに迷惑をかけた。そんなに否定してくれてるけど、薄々思ってるでしょ?私のせいなんだって」
「思ってない!そんなこと、思ってなんか……!」
「わたし」の頬を熱い液体が伝う。一瞬、そう思ってしまった。だけど、「私」は何も悪くない。だって貴女は、「わたし」を手助けするっていう善意で、「わたし」に仲良くなってほしかったんだよね。「わたし」が貴女と立場が逆でも、「わたし」は絶対貴女と同じことをする。
だって、貴女と「わたし」は同じ人間だから。
「……そう言ってくれて嬉しい。けどね、人の心なんてわからないんだよ。たとえ私とあなたみたいな関係でも、絶対に。だからさ、私がもう間違えないためにも、あなたにこれ以上迷惑をかけないためにも、私はこうするしか――消えるしかないの。今後、あなたは苦労すると思う。でも、それもこれも全部、私のせいだから。」
「違う……貴女は、何も悪くなんて、ないの……貴女じゃなくて、わたしが……」
嗚咽混じりに、「わたし」は「私」の言葉を否定する。
「じゃあ、お互い様だね」
「私」はそう言って、「わたし」の両頬に手を添える。
「でも、私はもういかなきゃ」
「わ、わたしも……連れていって……お願い……」
「それはできないよ、あなたが一番理解してるはず」
「だったら、わたしは……これから、なにを、だれを、こころの、よりどころにすれば、いいの」
それは、「わたし」の心の底からの本音。周りには「わたし」を利用する人しかいない。「わたし」を都合の良いものとして見ず、「わたし」として見てくれるのは「私」しかいない。だからこそ、「わたし」は「私」がいなくなってしまったら、もう誰も信用できない。誰も、心の拠り所にできない。「わたし」はすっかり、「私」に依存していた。
「わたしは、どうしたらいいの?ねえ、教えてよ……じゃないと、わたし、こわれちゃう。だれを信用すればいいのかもわからないのに」
「ごめんね」
「私」は「わたし」をゆっくりと抱き寄せ、その頭を撫でる。
「でも、私は消えないといけないの。罪を償うためにも。それが嫌だったら……このまま、一人で……いいや、」
「私」がそこまで言って、一区切りつけてもう一度言う。
「『二人』で、堕ちよう?」
「――うん」
これは「一人」の人間にいた、「二人」の人間の話。
いつかどこかで、誰かに起こり得る、可能性の未来。
わたしたちは今日も、二人で空を見上げる。
――現実という足元を、もう見たくないから。
ご読了ありがとうございます
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更新は不定期ですので気長にお待ちください