婚約を破棄するとおっしゃるなら、せめて私の名前を呼んでくださいまし
『シエラ・ディヴァーシュ、この陰険な悪女め! 貴様の卑劣な悪行の数々、既に証拠は挙がっているぞ!
貴様のような悪女は、我がドランディア王国の王太子妃にはふさわしくない。よって我は、貴様との婚約破棄をここに宣告する!』
王太子バスティウス殿下の声が大広間に響き渡り、舞踏会に参加している皆が一斉に静まりかえります。
殿下とその取り巻き連中によって、私の『悪行の数々』が数え上げられていくなか──、私はその騒ぎをどこか遠い世界のことのように感じて、ただ立ち尽くしていました。
ああ、やっぱりこうなってしまったのですね……。
私という婚約者がいるにもかかわらず、バスティウス殿下がナタリア・カルパード子爵令嬢と密かに情を交わし、私の有責で婚約を破棄しようと画策していることは、すでに知らないものがいないほど有名な話です。
彼らに言わせると、どうやら私は、殿下と『ただのご友人』であるナタリア様との関係を邪推して嫉妬し、様々な嫌がらせをしかけ、ついには人を雇って殺害しようと目論んでいた、ということらしいんですけど。
でも、いつも殿下や取り巻き連中とべったりだったナタリア様にどうやったらそんなことが可能なのかしら。
それに、殿下とナタリア様がしょっちゅう二人っきりで密室に何時間もこもっているというのは、もう多くの方に目撃されてしまっています。それで『ただの友人』だとか言い張られても、ねぇ?
あれで周囲にバレていないと思い込んでいるあたりが、殿下が密かに『残念殿下』などとあだ名される所以ですわ。
そもそも、そんな殿下が優秀な弟君たちを押しのけて王太子になれたのは、貴族中最大派閥の長であるわが父、ディヴァーシュ公爵の後ろ盾があってのこと。その公爵の娘を袖にして、ただで済むわけもありません。
まあ、だからこそ父上も国王陛下も臨席していない、この若手貴族や貴族家子弟だけの舞踏会を断罪の舞台に選んだのでしょうが──それでごまかしきれるとでも思っていらっしゃるのかしら。
私の隣では、イリウス兄様が声を張り上げ、懸命に彼らの言い分に反論してくださっています。
「ええい、黙れ、イリウス! 貴様の発言など許しておらんぞ!」
「いいえ、黙りませんぞ、殿下! ディヴァーシュ公爵家次期当主の名にかけて、当家の不名誉となるような言いがかりには、断固抗議いたします!」
「そのように公爵家の権威を振りかざそうとしても無駄だ! シエラが我が『友人』ナタリア嬢にしてきた悪行については、すでに何人もの証人から証言を得ておるのだぞ!」
「──ほう?」
兄様はふところから書状を取り出し、勿体つけるように高々と掲げてみせました。その書状に記された魔道ギルドの紋章が何を意味するのか。──何人かの野次馬たちが顔色を失い、こっそりと人混みの後ろに隠れようとしているのがわかります。
ああ、あの方たちが私の罪を告発した『証人』なのですね。お顔は覚えておきますわね。
「そのような根も葉もない噂が広まっていることは承知しております。それゆえ、妹シエラは自ら『真実の塔』に赴き、『真実の魔道具』による鑑定を受けて、身の潔白を証したのです。
ここに魔道ギルド発行の、妹の潔白を保証する書状がございます!
何なら、ナタリア殿や証人たちにも、同じように『真実の魔道具』の鑑定を受けていただこうではありませんか」
──そう、『真実の魔道具』の前ではどのような嘘も必ず見抜かれます。これは我が国の裁判制度の根幹ともいえる大前提で、その鑑定には何人たりとも異を唱えることなど──。
「え、ええい、そのようなもの信用できるか!」
──え。
「おおかた、魔道ギルドに金でも掴ませて、証拠を捏造させたのであろうが!
兄妹そろって、卑劣なやつらめ!」
──ええと、もしやおわかりにならないのですか、殿下。今のその一言は我が国の裁判制度を全否定し、さらに魔道ギルドを敵に回しかねない大問題発言なんですけど。
さすがにマズいと気づいたのか、取り巻きのひとりが慌てて話を逸らそうとします。
「そもそも、そのような疑いをかけられること自体が貞淑たる貴族の女子にあるまじきこと。シエラ様が王太子妃にふさわしいとはとても思えませんな」
いい加減にしてくれないかしら。私が気弱で、自分の無罪を強く主張など出来ないのをいいことに、悪評を広めていたのはあなたたちではないですか。
もういいです。そちらがその気なら、私にだって考えがありますわ。
──実を言えば、殿下が正直に己の非を認め、『他に好きな女が出来たので婚約解消してほしい』と願い出るなら、大人しく身を引くことも考えていたのです。私が殿下の好みのタイプでないことくらいは自覚してましたもの。
でも、あくまで私を悪人に仕立てて排除しようというのなら──私だって自分の名誉を守るために、勇気を奮い立たせねばならないのです。
「──すると、殿下。あくまで非は我が妹にあり、婚約解消は妹の有責によるものだとおっしゃりたいのですな?」
「む、無論だ! だいたい、シエラが──」
「殿下ご自身には一切非はない、と? しかし──」
「兄様、もういいですわ」
私が初めて口を開いたので、殿下も兄様も虚を衝かれたように言葉を詰まらせました。
「どのみち、私たちがどれほど証拠を集めたところで、殿下たちはお認めにならないのでしょう? ならば、これ以上何を言っても詮無きことですわ」
私の発言に勝利を確信したのか、殿下の顔にほくそ笑むような嫌らしい表情が浮かびます。
ああ、情けない。たとえ幼かった頃のこととはいえ、こんな方にひと時でも恋心を抱いていたなんて。でも、今の顔でほんのわずかに残っていた情も消え失せましたわ。
「ですが、婚約破棄を承諾する前にひとつ、確認しておきたいことがございます。
殿下。そもそも、私は殿下にとって本当に婚約者だったのでしょうか?」
「な、何を──?」
私の発言に、殿下も取り巻き連中も目を丸くします。
「思い起こせば、私、殿下に婚約者として扱っていただいた覚えがまるでないのです。
お誕生日を祝っていただいたことすら一度もありませんでしたし」
「そ、そんなことはないっ! 贈り物は届けて──」
「ええ、贈り物だけは家臣の方が届けてくださいましたわね。なぜか殿下は、私の誕生日には決まって体調を崩されるようですので。
しかし顔を見せるでなし、メッセージカードがついているわけでもなし──あれでは、家臣の方が気を回して届けてくれていたようにしか思えませんわ」
「そんなことは──」
「では私の誕生日がいつなのか、言ってみてくださいませ」
殿下が答えに詰まったのを見て、取り巻きのひとりが慌てて怒鳴りつけて来ます。
「黙れ! 王太子殿下にそのような疑いを抱くなど、不敬であるぞ!」
「あら? 『疑いを持たれること自体があるまじきこと』なんじゃなかったかしら。
あなた、先ほどそうおっしゃってたわよね?」
もう手下は黙っていて下さらない? 何だかちょっと楽しくなってきたところなんですから。
「それに、こういう社交の場にエスコートしていただいたこともありませんでしたわね。
体調が悪いからと断りの連絡は来るのですけど、その割には毎回参加して、ナタリア様やそこの側近の皆様と存分に楽しんでおられたようですし──不思議ですわね」
「そ、それは、だな──」
殿下は必死に言い訳を考えておられるようですけど、そろそろ終わりにさせていただこうかしら。
「それに何より──私は殿下から、ただの一度も名前を呼ばれたことがありませんの。
どうしても私との婚約を破棄したいとおっしゃるなら、せめて──せめて一度くらいは『シエラ』という愛称ではなく、ちゃんと名前を呼んで宣告してくださいまし」
私が懇願するように呼び掛けると、皆がぽかんとしたような表情を浮かべます。
兄様と、青ざめた顔で固まってしまった殿下を除いては、ですが。
「おお、皆様、お聞きになりましたか! 我が妹の願いの何とつつましく、いじらしいことか!」
──兄様、身振りがちょっと芝居がかり過ぎですわよ。
「これほどないがしろにされ続けた妹が、婚約破棄の代わりに求めるのが『ただ名前を呼んでほしい』だけだなんて──!
殿下。ここはひとつ、妹のほんのささやかな願いだけでも叶えてやってはもらえませぬか?」
それでも全く動こうとしない殿下の後ろから、取り巻きたちやナタリア様が励ましの声をかけます。
『殿下、それぐらいはかまわないではないですか!』
『そうよ、そんなのさっさと済ませて、あんな性悪女、放り出してしまいましょうよ!』
その声に背中を押されても、殿下は一向に動こうとしません。その口から、小さく恨み言が漏れます。
「イ、イリウス、貴様──なんと卑怯な──!」
「『卑怯』? はて、何のことです? 婚約者同士なら名前を呼び合うなど、当たり前のことではないですか。
それとも──まさか、妹の名前を憶えていないなどというわけではありますまいな」
殿下に凄むように言葉を叩きつけた兄上は、がらりと表情を変え、明るい声で大広間中に声を響かせました。
「イリウス・ディヴァーシュの名において宣言いたします!
殿下が妹のささやかな願いを聞き届けてくださるなら、当家はこの不名誉な婚約破棄を甘んじて受け入れましょう!
妹との婚姻がなくとも、変わらず王太子殿下をお支えするともお誓い申し上げます。
ですが、それすらも叶えていただけぬということであれば──」
兄上はあえてそこから先を口にされませんが、さすがに殿下にも察しがつくでしょう。
そこまで私をないがしろにするのなら、逆にこちらから殿下の不実を訴え、向こうの有責で婚約破棄を申し出ることが出来ますし、そうなれば父上も完全に殿下の敵に回るでしょうから。
『殿下、何を躊躇っておられるのです! 名前さえ呼んでやれば、問題ないではないですか!』
『そうよ、さっさと片づけちゃってよ!』
後ろの取り巻きたちは、懸命に殿下に声援を送り続けていますが──やはりご存じないのね。私の名前がどういうものなのか、ということを。
しばらくのあいだ、殿下は苦悶の表情を浮かべて俯いたままでしたが、やがて覚悟を決めたのか、がばっと顔を上げて私に向き直りました。
「よかろう、よーく聞くがよい!
我が婚約者たるシエラザード・バーンズ・セルバンティエンヌ・トーランド・クラッカ・マーゼリア・イスファール・トパンガ・サンドラン・ネルバラート・パルミラ・イエルク・ランディルガ──」
殿下の口から発せられる呪文めいた言葉に、広間中の皆があっけにとられるのが見えます。
やがて、我に返ったように取り巻きのひとりが兄上に詰め寄りました。
「イリウス、何だこれは! 貴様、殿下に何をさせているのだ!」
「何だと言われましても──これは全て妹の名前ですが」
「ふ、ふざけるな! そんな馬鹿な話が──」
「全貴族の名と出自を記した『貴族譜』にも記載されている正式な名前なのですが、何か?」
──そう、実は私には200以上もの名があるのです。
ディヴァーシュ公爵領は陸路・海路ともに王国の交易の玄関口。他国とも良好な関係を保つため、何代にもわたって多くの国や民族との婚姻を重ねてきました。
そして、私が未熟児として生まれ、命が危ういことを知った世界中の縁戚から、長寿だったご先祖様などの名前を贈りたいという申し出が相次いだのです。その総数──なんと211。
そしてどれかひとつだけ選ぶと、選ばれなかったところとの間に角が立ちかねないと思った父上は、あろうことか211全ての名前を私につけたのです!
つけられた側としては迷惑この上ない話なんですけど、──今回だけは殿下の策略から私を守る鎧代わりになってくれたようですね。
殿下も、一度くらいは覚えようとしたのか覚えさせられたのか、30個目くらいまでは勢いよく名前を呼んでいきますが──そこからは急に自信無げな様子に変わっていきます。
「──ゼルターナ・イザ──イサベル・トル──ええと、トラッパ──トルッパ──」
「『トルッペントード』」
「い、今のはちょっと喉が詰まっただけだ! 間違えたわけではないっ!」
私が訂正してさしあげたら、殿下は悔しそうに地団太を踏み鳴らしました。
「くそ、もう一度やり直しではないか! いいな、二度と口を挟むなよ!」
そう忌々し気に言って、殿下はもう一度最初から私の名を呼び始めました。
まあ、大目に見てさしあげますわ。こういうのって勢いが止まるとやりにくいでしょうし、遠国から贈られた名前は発音しにくいものも多いですしね。
──向こうでは、またあの取り巻きが兄様に食ってかかっているのが見えます。
「おい、イリウス! いつまで続くんだこれは!」
「さあ──? なにしろ妹の名前は200以上もありますからなぁ」
「に、にひゃく──!? そんなの、覚えられるわけがないだろうが!」
「おや、そうですか? 当家では使用人から5歳の末の弟に至るまで、全員が諳んじておりますのでね。婚約者なら覚えていて当然だと思いますが?」
まあ、我が家では私の名前をどこまで正確に覚えているかを競うのが、ちょっとしたゲームになっちゃってますしね。
──さて、そうこうしているうちに、殿下の挑戦もようやく終わりを迎えようとしています。途中で音を上げなかったところだけは、褒めてさしあげてもよろしくてよ。
「──イルミラーゼ・シャラーヴィー・ソレット・ディヴァーシュ! 貴様との婚約は破棄させてもらうぞ!」
殿下が肩で息をつきながら、『これでどうだ!』と言わんばかりに睨みつけてきます。でも──。
「52番目の『ワーデマルク』を先頭に8か所抜けてましたわね」
「ああ、あと言い間違いも10か所以上あったな」
兄様も数えていてくださったようですね。
そこで私は、殿下にとびっきりの笑顔を向けてさしあげました。
「というわけで──殿下。
もう一度、最初からやり直してくださいましね?」
「ぐ──ぐわあああアああああっ!」
殿下は髪を掻きむしって、その場に膝から崩れ落ちてしまいました。
──そろそろ、国王陛下と父上との間で、殿下の処遇についての話し合いがもたれているはずです。おふたりとも殿下のご乱行には怒り心頭らしいので、良くて廃嫡、たぶんナタリア殿や取り巻き連中ともども国外追放でしょうか。
さあ、そのお沙汰がここに届けられるまで、もうしばらく楽しませていただこうかしら。
「殿下、さあ、お立ちになって?
一度くらいの失敗で諦めてどうなさるのです?
では、改めて──どうか、ただ一度だけ私の名前を呼んでくださいまし」
──ああ、何なのでしょう、この高揚感は。
今までずっと、王太子妃にふさわしい貞淑な貴婦人であろうと、ずっと周りの目を気にして大人しくしてきたけれど──他人をやり込め、その表情が絶望的なものに変わっていくのを見るのがこんなに楽しいだなんて!
ああっ! 何だか私、イケナい性癖に目覚めてしまったかもしれませんわっ!