1-6 野性と執念の対峙
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夜の森は、獣たちの支配する世界。
強ければ喰らい、弱ければ喰われる。その単純かつ厳然としたルールのもとで、彼らは日々を生きている。
ハイファに甲殻を砕かれたカルテムも、その例には漏れていない。
彼はこの森の中で頂点に立っていた。だが、一瞬にしてその頂点から転げ落ちた。
たった一度の敗北。しかし、その敗北は決定的に致命的なもの。
カルテムの持つ甲殻は縄張り争いにおいて最大の武器。彼は他の獣たちにはない堅牢な盾をもってこの森でのし上がった。
だが、今や甲殻は右側が見る影もなく砕け、身体も深く傷つき、捕食する者から捕食される者へと零落した。
事実、彼が息絶えるのを今か今かと待ちわびている有象無象の獣たちが、茂みの奥や木の上から目を輝かせ、舌なめずりしている気配があることを既に知っている。
彼がとるべき行動は二つ。
逃げること。そして回復すること。
右の前脚を引きずって一歩進むたびに、血が地面に滴る。その匂いを追ってくる獣たちの数も徐々に増えていた。
それでも、彼は進む。日暮れ前から漂っていた自分のものよりも格段に強い血の匂いを辿って。
やっとの思いで到着したのは、なんどか近くを通りかかったことのある、このあたりでは一番大きい人間たちの住処……だった場所。
ほとんど瓦礫に埋まってしまっているが、彼にはわかる。
この瓦礫の中に死体 があると。
ひしゃげた柵を乗り越え、鼻先で表面を撫でながら瓦礫の山をゆっくりと登る。
中腹あたりで、ひときわ強い匂いを感知した。
無事な左の前脚で掘り返すと、なぜか右側しかない女の身体が出てきた。
この際なんでもいい。腹を満たすことができるなら。
痛みと空腹で限界を迎えていた身体に鞭をうち、明日への糧に牙を突き立て――。
それが、彼の最期だった。
女の身体が形を失って赤黒い塊になり、飲み込んだ彼の身体の前半分を食い千切ったのだ。
ゴリ、バキャ、ガリッ。硬いものを噛み砕く音が夜空に吸い込まれ、瓦礫の山はすぐに静寂を取り戻す。
塊は二度、三度と大きく揺れると、再び形を崩し、女の身体を構築した。
一糸まとわぬ裸体を晒していることさえ気にも留めず、感触を確かめるように手を握ったり開いたりした女が、わずかに口の端を上げる。
「成功のようね」
切れ長の赤い瞳で周囲を見渡し、腰まで伸びる金色の髪を揺らしながら、軽やかな足取りで荒れ果てた庭園に降り立つと、瓦礫の山を振り仰いで嘆息した。
「派手にやってくれたわねぇ。ここ、居心地良かったのに」
名残惜しそうに瓦礫の一部に指を這わせる。瓦礫に付着していた砂埃が、女の指先を汚す。
「……まあ、いいわ」
指先に着いた砂埃を払い落とした女の目に、既に感傷などない。宿っているのは狡猾な眼光だけ。
「これで、必要な鍵はあと二つ」
鈴を転がすような声音で、歌うように言葉を紡ぐ女が広げた右手に、夜空よりも深い闇の色をした輝きが収束する。輝きは女の手の中で一段階光度を上げ、女を包み込んだ。
光が消えると、女の身体はローブを纏っていた。
その姿が龍瞳教団コンベル支部の女神官と同じであることを知る者は、ここにはいない。
たった一人を除いて。
「こそこそ隠れてないで、出てきたら?」
女は心底面倒そうに夜天に声を上げた。
木の陰から現れたのは、細い体躯の男。
「本当にしつこいわね、あなた」
「なんとでも言え。俺はお前に勝つ。それだけだ」
愛想とはまるで無縁の低い声音。触れれば折れそうな痩せ細った身体だが、その目だけは、明確な殺意を漲らせている。
「あら、怖い怖い。でも……今はだめよ」
女の身体が崩れ、地面に染み込む。
「っ!」
男は瞬時に振り向き、気配を追う。
女の姿は森の奥に見えた。
「今日はあなたに構ってあげる気分じゃないの。また今度ね」
「ふざけるな! 今度こそお前を……!」
だが、男が叫んだ時には遅く、女は男の視界から消えていた。
「……くそっ」
無精髭の目立つ顔で渋面を作った男は足元にあった瓦礫を蹴飛ばす。
その姿を背の高い木の上から見下ろしていた女は、そっと自分の胸に手を当てた。
「せいぜい面白おかしく踊ってちょうだいね。運命に選ばれた子、龍骸装の宣教師ちゃん?」
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