2-24 闇に光る白銀
「……ん」
とっぷりと夜も更けた頃、リンは眠りから目覚めた。
「んう……」
もじもじと脚をすり合わせ、やがて身体を起こす。
「飲み過ぎたかしら……」
ベッドから降りたリンは、ハイファを起こさないよう静かに抜き足差し足で移動し、部屋を出た。
用を済ませ、月明りだけに照らされる廊下を進む。
「……あら?」
一部が格子状になっている壁の隙間から、誰かがこの建物の前を通るのを見たリンはふと足を止めた。
「今のは……」
壁に身体を寄せ、外を覗く。
「チャフと、村長さん……?」
村の人々が完全に寝静まっているこんな時間に、なぜあの二人が。
気になったリンは後をつけることにした。
起き抜けだった頭はすぐに調子を取り戻し、リンは音を最小限にして玄関を開けた。外に出ると、リンに気づいたペックが小さく鳴いたが嘴に手を添えると静かになった。
遠くに見える二人はこちらには気づいていない。リンは歩きながら自分が聞きたいことを簡単に整理した。
一つ、獣骸装とは何か。二つ、ハイファの腕について。
龍瞳教団に身を置いているゼモンなら何か知っているのではないか、という淡い期待だ。
無論、答えが得られなくても落胆するつもりはない。レイバたちから聞いたゼモンへの印象からして、そういった物事すら忌避していそうだ。
遺跡の中に入っていったチャフとゼモンを追い、リンも中へ。
通路は先刻入ったとかと変わらず、松明で照らされながら冷たい空気を漂わせている。
「勢いで入っちゃったけど、道あんまり覚えてないわね……」
一人で進むにはいささか不気味な通路に、はやくも気持ちが削げそうになる。
しばらくして、ようやく扉の隙間から覗く明かりを見つけた。夜の森でランタンに近寄る妖精や虫を思い出しつつ、リンは扉へと近づく。
「ここ、村長さんがいた部屋じゃないわね……。ま、いいか」
「よもや、洗脳が解けかかっているとは」
扉に手を伸ばした瞬間に聞こえた声に、動きを止めた。
「今回の調整を機に、改めて強めにかけておくか」
ゼモンの声だ。けれど、会った時よりも声音がずっと低い。
扉に耳を押し付けながらリンはそう感じていた。
「調整……?」
そっと扉を押し開く。扉の隙間からこちらに背を向けるゼモンと、そのゼモンと向き合う幾人かの人々の姿が見えた。村の住民だろうか。その目に生気がないことが気になる。
「さあ、来い」
ゼモンが指を鳴らす。ジャリ、と足音が聞こえた。
直後、リンの目に新たな人物が映る。
「チャフ?」
ゼモンの横に現れたのは、チャフだった。
「いったい何を……」
より隙間に身体を寄せた瞬間、チャフに異変が起きた。
「う……ウグ……ア、アアァアァァァッ!」
チャフの咆哮のあと、彼の背中から肩、肩から腕、そして脚が、凄まじい勢いで隆起し、変形していく。
「うそ……⁉︎」
リンは目を疑った。
チャフは、巨大な魔獣へと変身したのだ。
四足歩行で、毛に覆われた身体は狼に似ている。
だが、一箇所だけ狼とは似ても似つかない部分がある。
頭部が、大トカゲのように鱗に覆われていた。
リンの頭の中に、つい最近の記憶が弾けた。
湖に出没する、人を襲う魔獣。
直立不動の人々の周囲を、品定めするかのように悠然と歩く姿が、合致していた。
「さあやれ! バンデロシュオ!」
号令の直後、魔獣が唾液に濡れた牙を剥く。
人々は、抵抗らしい抵抗を見せないまま、鋭い牙と爪を突き立てられ、魔獣に押し倒された。
「……!」
リンは咄嗟に身体を扉から離す。喉が引き攣るも、声を出さぬよう手で口を押えた。
グチャギチャッ、バリガリッと肉を引き裂き、骨を砕く音が、恐ろしいほどにはっきりと聞こえる。
扉の隙間から、何か丸いものが転がり出てきた。
手のひらに収まりそうな大きさのそれと、目が合う。
「ひっ!」
認識が恐怖を呼び、思わず声が漏れてしまった。
少しして、音は消えた。
「――!」
遺跡を揺るがすほどの叫び。獣そのものだった叫び声が、次第に人の、チャフの声に変わっていく。
「おお……! 新たな段階へと進化したか!」
ゼモンの興奮した声が、扉の向こうで起きた現象を知らせる。
「はははははっ! いいぞ! 素晴らしい! やはりあの方の言った通りだ! これでお前は更に強くなる! 我らが神の名に相応しい力を得る!」
遺跡に響くゼモンの哄笑。リンはこれが悪い夢であってほしいことを祈った。
「――だが」
突然、笑い声が止まる。
「その前に、邪魔者を消さないとなぁ?」
勘付かれている。
そう察知したときには、リンは後ろに飛んで扉から離れていた。
「逃がすな!」
ゼモンの命令を端にして、血に塗れた魔獣が扉を蹴破って通路に躍り出る。
振り返ったリンが見た魔獣の姿は、リンの知識には全くないものだった。
シャンを遥かに凌ぐ異形の巨人。鋭利な爪を持つ四肢は凶暴に血管が浮かび、腰のあたりからは太い尾がうねる。
松明が照らすその頭部には、チャフの面影が残っていた。
「どうしよう……どうしよう……!」
半狂乱の頭で策を練りながら、曲がりくねった通路を走り回る。
最初の角を曲がっていなければ最短距離で外に出ることができたのだが、迫る死の予感にそんなことを思い出す余裕すらなかった。
闇雲に右へ左へ蛇行をしながら、遺跡の奥へと進む。依然として、魔獣の足音は聞こえている。
何度目かの曲がり角で、ついに追いつかれてしまった。
「――ッ!」
振り下ろされた爪がリンの背中を捉える。
「うあっ⁉」
背中に浅く赤い三本の線が走り、血を散らしながら、リンは石畳に転がった。
「痛ぅ……!」
痛みに悶える間もなく、リンの身体が強張る。
目の前に、チャフだった魔獣がいた。
「あ、ああ……!」
座ったままの姿勢で後ずさる。熱を持った背中がすぐに壁とぶつかった。
魔獣はリンの怯え切った表情を見つめ、右腕を振り上げる。
「ひぃっ!」
両手を前に突き出して硬く目を閉じるリンは、目尻に涙を浮かべ、自らの最期を悟る。
しかし、思っていたような結果は訪れなかった。
「……?」
目を開けて顔を上げると、魔獣は腕を振り上げたまま固まっていた。
「り……」
血に染まった魔獣の口から、声が聞こえた。
「り、ン……」
魔獣の目が、熱く揺れていた。
もしや。リンの脳裏にその言葉が浮かぶ。
「チャフ、なの?」
恐る恐る問いかける。
魔獣はよろめきながらリンから離れていく。
「が、あ、アァアッ!」
やがて、魔獣は咆哮とともに元来た道を戻っていった。
音が聞こえなくなって数秒。リンはどっと息を吐いた。
「た、助かった……」
自身のひとまずの無事を喜んだのも束の間、リンはすぐに次の行動に移ろうとした。
「とにかく、ここを出てハイファたちに知らせないと!」
立ち上がろうと床から突出していた石に手をかけた瞬間、石と床が連動して沈み、壁が後ろに大きく傾いた。
「え? わあっ!」
リンの身体は重力に引かれ、そのままゴロゴロと坂を転がり落ちていく。止まろうにも掴むところがない。
「な、なんなのよぉ!」
完全な闇の中に、一定の間隔で光が見えるようになってきた。出口だ。
意識した瞬間、投げ出されるように宙を舞ったリンは、重力に従って地面に打ちつけられた。
「いたた……!」
ジンジンと痛む尻をさすりながら、周囲を確認する。
「どこよ、ここ……」
湿度が高く、狭い部屋。ところどころ崩れてはいるが、鉄格子がはめられているとこらを見るに、牢屋のようだ。
「嘘でしょ! 逃げようとしたのに閉じ込められちゃったじゃない!」
錆びついた鉄の棒を両手で掴み、がくりと肩を落とす。
だが、すぐにこの状況の打開するために思考を巡らせた。
「なんとかしないと。なんとか……!」
「あの、そこの方」
「えっ⁉」
自分以外に誰かがいることに、リンは飛び上がって驚いた。振り向いた勢いで肩が鉄格子にぶつかり、小さな音を立てる。
「お、驚かせてしまってすみません。こちらに気づいていなかったようなので……」
しおらしく謝るのは、リンと同じか少し年上の感がある、銀色の髪の女性だった。
「い、いえ、平気よ。というか……」
リンはその女性の状態に、思わず言葉を失う。
「あなたこそ、大丈夫?」
女性は鎖に繋がれた石の手枷を嵌められ、壁際で拘束されていた。長い間その状態だったのか、白い装束は薄汚れている。
「見たところ、その、とっても辛そう」
「はい……魔力を吸われ続けているので……。この通り、です……」
力なく腕を揺らしてぐったりとうなだれる女性に近づこうとしたリンは、一歩目で足を止めた。
「あれ?」
長い銀の髪で、白い装束を纏う若い女性。
「……あ!」
条件が、一致している。
「あ、あ、あ!」
目を見開いて、震える指先をその女性の顔へ向ける。
「あなた、もしかして……エルトのお師匠さん⁉」
鎖に繋がれた大司教は、聞き覚えのある名前に瞳の輝きを取り戻した。