2-18 想い、駆け出して
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やはり、こうなったか。
色を変えていく空の下、露台でハイファと対面したリュオンは胸中でそうつぶやいた。
ハイファの目が、部屋に籠る直前とは違っている。何かを決めた眼差しだ。
「やあ、ハイファ。いや、もうユフィンと呼んでもいいのかな?」
ヒュウリが声をかけると、ハイファはまっすぐに見つめ返して、首を横に振った。
「……ごめんなさい。やっぱり、あなたたちとは一緒にいられない」
その言葉も、リュオンにはわかっていた。
ヒュウリが表情を凍らせるなか、リュオンはテーブルの上で固めていた拳を解いた。
「どういうことか、聞かせてくれるかい?」
「私はあなたたちの言う通りで、ユフィンなのかもしれない」
言いながらハイファは付け袖の紐をほどき始める。
「あなたたちといれば、リンも安心する。あなたたちを、幸せにできるかもしれない」
両腕の付け袖が、はらりとハイファの足元に落ちる。
リュオンはハイファの腕の傷を見て何かを言おうとした弟を視線だけで止めた。
「でも、これが、これが今の私だから!」
ハイファがそう告げた瞬間、夜空と同じ色がハイファの腕を包み込んだ。
異形の腕が、眼前に晒される。
「お前……!」
最初に声を発したのはヒュウリだった。
「よもや魔獣の類だったとはな!」
「……っ」
その声に反論することもなく、ハイファはじっと耐える。
「私たちを騙したのか⁉ 腹の底では笑っていたのか⁉」
たとえ弟でも、それ以上の暴言は許せなかった。
「やめろヒュウリ!」
「兄さん、だけど!」
「あの顔が、僕らを騙して愉しんでいたように見えるか?」
リュオンが示した先にヒュウリが見たのは、異形の腕を力なく下げ、悲壮に染まる表情をした、妹の面影を持つ少女の姿だった。
押し黙るヒュウリから、リュオンはハイファに顔を向ける。
「それが、僕たちと一緒にいられない理由かい?」
ハイファは俯いたまま、こくんと頷く。
「ここを出たら、どこへ?」
「……リューゲルに行く」
「リューゲル? 遥か東の国だ。どうしてそんなところへ?」
「知りたいから。この腕と、私自身のことを。それから、同じくらい大事なはずのことを」
リュオンはハイファの眼差しに、崇高さよりも悲しさを感じた。
「今からリンさんたちと合流するのかな?」
ハイファの首は、今度は左右に揺れた。
「リンは私がここにいた方がいいって考えてる。一緒にはいられない。だから、自分の力で行く」
リンに心配かけたくないからと、笑ってさえみせたハイファを、リュオンは真っ向から否定した。
「いいや。違うよ」
降りてきた言葉に、ハイファは思わず顔を上げる。
「その腕も、リューゲルに向かうことも、理由じゃない。言い訳だ」
「……言い訳?」
「今の君は、とても思い詰めた顔をしている。他に思いつかないからなのか、仕方がないからなのかは僕にはわからない。でも、君は本当に、自分が今言ったことをやりたいのかい?」
「それは……」
思った通り、ハイファは言い淀んだ。
リュオンは椅子から立ち上がり、さらに言葉を続けた。
「本当の理由は単純なことだ。君の心は、リンさんといることを望んでいるんだよ」
大きく目を見開いたハイファは、顔を赤くして、唇を噛み締めた。
「ち、違う。私は、私を思ってくれたリンのために……!」
言葉を詰まらせるハイファに、リュオンは苦笑する。
「ハイファ。君はいい子過ぎだ。自分の心を殺してしまっている。君くらいの子どもはね、他人のことなんて考えず、自分の心に素直になったっていいんだよ」
「心……」
「聞かせてくれ。君は、どうしたいんだい?」
「わ、私は……」
エルトからも投げかけられた問いに、ハイファは異形の手を見つめた。
「……わたし、は……っ!」
異形の手のひらにポタリ、ポタリとハイファの目から溢れ出した涙が落ちる。
「離れたくない……! リンと一緒に旅をしたいっ!」
ハイファの叫びを乗せた風に吹かれ、リュオンの髪が揺れる。
「リンに会いたい! あい、たいよぉ……!」
座り込んで泣きじゃくるハイファを見て、リュオンは何も言わないまま、ゆっくりと歩み寄る。思えば、ハイファが感情的になったところ見たのはこれが初めてだった。
「兄さん!」
止めようとするヒュウリの声には軽く手を上げるだけで済ませて、リュオンはハイファのすぐ目の前の距離まで足を止めると、静かに膝を折り、彼女の涙を指ですくった。
「それでいいんだ。それで……」
しゃくりあげるハイファの手を取り、拾い上げた付け袖をそっと握り込ませる。異形の手は、見た目以上に軽い感触だった。
「ハイファ、もう一度だけ、顔をよく見せてくれ」
頬を撫でられたハイファが、赤くなった目でじっとこちらを見つめてくる。
リュオンは、この一瞬に永遠を願うことはしなかった。
それが、今の自分がこの少女ののためにしてあげられることだと、理解できていたから。
無言のまま見つめ合い、やがてリュオンの手が離れる。
「また、会えるかい?」
その言葉の意味を、ハイファはわかってしまった。
これは、別れの言葉なのだと。
怪我をしたわけでもないのに、胸が痛む。
結局、何も思い出せなかった。
最後まで、この人たちを家族と思うことに疑問を抱いてしまった。
けれど、頬に残るリュオンの温もりが、愛おしくてたまらない。
「いつか――」
闇色の指で涙をぬぐい、決意を胸に声を上げた。
「いつか、必ず!」
手すりを踏み越え、ハイファは黄昏の空に舞う。そのまま着地した地面を大きく削りながら、一路、リンの待つ場所へと走り出した。
「……行ってしまったか」
走り去る姿を五秒と目で追えなかったリュオンは、万感の思いでつぶやいた。
「兄さん」
憮然とした声音で、ヒュウリがリュオンを呼ぶ。
「どういうつもりなんだ。なぜ、あの子を行かせた!」
声の勢いは次第に強くなっていった。
「俺が! どれだけ待ち望んだと思ってるんだっ! やっと、やっと兄さんを救えると、この地獄が終わると! そう思ったのに! どうして!」
込められている感情は怒りより悲しみが大きいことを痛いほど知っていたリュオンは、覚悟と勇気を胸に、宣言した。
「ヒュウリ、ユフィンを探すのは今日で終わりだ」
「は……⁉」
「お前は、僕のためにユフィンを探してくれた。でも、もう僕は満ち足りた。あの子に会うことができて、充分救われたよ。だから――」
リュオンは、ヒュウリを抱きしめた。強く。強く。
「もういいんだ。今まで、ありがとう……!」
その一言は、ヒュウリが本当に欲しかった言葉だった。
今になってヒュウリは気づく。
兄を救いたいと願う自分を、救ってほしかったのだと。
「にい、さん……! 兄さん!」
「ああ……」
弟が長い年月をかけて押しとどめていた感情を一身に受け止めながら、リュオンは妹によく似た少女の幸福を祈り続けた。
※※※
日没を過ぎ、龍瞳教団の穏健派と共に彼らが暮らす村へと出発したエルトは、一団の最後尾で、リンが操るペックの引く荷台に揺られながら、遠ざかっていくトレリアを眺めていた。
「ハイファさん、来ませんでしたね。……シャンさん」
前を行く龍瞳教団の面々は会話をしているが、リンたちの間にはない。エルトは沈黙が気まずくて対面して座る大男に話しかけるが、返事がないので独り言になってしまう。
エルトは内心、強く後悔していた。
ハイファをもっと強く引き留めていれば。
リンをもっと上手く説得できていれば。
師匠探しに二人を巻き込まなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
終わらない後悔に苛まれ、出発してからリンの顔をまともに見ることさえできない。
屋敷からリンのいる星皇教会の神殿へ戻ったとき、日没まで待っていることをハイファに伝えた際、リンは『期待はしないわ』などと言っていたが、嘘だ。誰よりも、ハイファが戻って来ることを望んでいたに違いない。
事実、陽が沈むときは、泣きそうな顔になっていたのだから。
リンに妙な希望を持たせてしまったことが、ただでさえ罪悪感を抱くエルトの心の柔らかいところをさらに抉る。
その時だった。
「……ん?」
後方で、何かが動いたような気がした。
「んん?」
目を凝らしてよく見ると、それは人の形をして――。
「ああっ⁉」
跳ねるように立ち上がったエルトは、荷台の前部分、リンの背後に移動した。
「り、リンさん! 止まって! 止まってください!」
荷台を激しく叩くと、驚いたリンがペックの手綱を引いて荷台を止めた。
「な、なによ?」
「あああ、あれ! あれ! あれを見てください!」
エルトが指さしたのは、荷台の後ろ。
「あれって、な、に……」
リンは息を呑んだ。そして、視線を外さないままペックの背から降りて歩き出す。すぐに全力の駆け足になった。
「リンさん! ま、待って!」
エルトもリンの後を追いかけて荷台を飛び降りたが、リンはそれに気づいていなかった。
動かす足がふらつき、視界が滲む。
それでも、リンは吸い込んだ空気を精いっぱいの声に変え、叫んだ。
「……ハイファ!」
もう会えないと思っていた姿が、そこにはあった。
「リン!」
付け袖を翻して飛びついてきたハイファを受け止め、勢いを減殺しきれずにリンは倒れるように座り込んだ。
「どうしてここに? あなたはあの兄弟に……」
問われたハイファは、肩を上下させるほど荒い呼吸のまま、興奮気味に答えた。
「素直に、なったの!」
「え?」
「私、自分に素直になったの! リンと離れたくないって、リンに会いたいって!」
「……っ」
リンは何を言おうとしていたのかさえ、一瞬で忘れてしまった。
「私は、本当はユフィンなのかもしれない。でも、今の私は私なの。リンと一緒にいたい、私なの……!」
そう言って胸に顔をうずめてくるハイファの背に、なぜだか震える手を回し、リンは泣くように笑った。
「もう……。もうっ、もう! 仕方ないんだから! 私なんかと一緒にいて、後悔しても知らないからねっ!」
「リンさん、そんな言い方……」
諫めようとしたエルトは、すぐさま口を噤んだ。
「私も、私もずっと一緒にいるわ。あなたが望む限り、ずっと……!」
ぽろぽろと、リンの目から宝石のように光る涙が落ちていた。
これ以上、二人の間に入り込みたくはない。
そう思ったエルトはリンたちが来ていないことに気づいて声をかけにきたレイバを連れ、一足先に荷台の方へと戻るのだった。
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