2-16 幼き叫び
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「どうしてシャンだけなの? 一人で戻ってきたの? リンとエルトは?」
詰め寄って一度にまくしたてるハイファに、シャンは声を出さず、仮面越しの眼差しを押しつけるだけ。
「……ねえ、シャン。私って誰なの?」
不気味とも思えるその姿を、半日見ていないだけなのにひどく懐かしく感じたハイファは、縋る思いでシャンに問いかける。
「本当にユフィンなの? この場所のことも、覚えてないのに、覚えてる気がするの。頭の中がぐちゃぐちゃで、わからないよ……!」
だが、少女の切実な言葉であっても、異形の男は答えない。
「……やっぱり、何も言ってくれないんだね」
落胆するハイファは、力なく笑った。シャンが話すことをしないのは初めて会った時から変わらない。それが急に話すようになるなど、都合がいいにもほどがある。
「とりあえず、ここにいるのはまずいから、どこかに隠れよう?」
ハイファは動こうとしたときに、シャンの手が動くのを見た。
ゆっくりとハイファの頭に伸びる。
「もしかして……」
ハイファはコンベルを出た夜の経験から、シャンが何かを伝えようとしているのだと即座に理解する。
背伸びをして、自分からもシャンの手のひらに近づく。
触れ合うまで、あと少し。
その時だった。
「ハイファさん。ハイファさん」
真横から呼び声が聞こえ、ハイファは振り向いた。
「エルト……」
ツタの茂る柵の向こうに、白い装束に身を包んだ小さい司教がいた。
「目を覚まされたんですね。すぐに見つけられてよかった」
ハイファの回復を喜んでいる様子のエルト。しかしハイファは困惑する。
「エルト、シャンと二人で来たの?」
エルトはハイファの質問にきょとんとなる。
「え? 僕一人ですけど……。シャンさんがいるんですか?」
「だって、ここに……あれ?」
振り返ると、すでにシャンの姿は消えていた。
「シャン? どこに行ったの?」
突然現れ、そして消えたシャンの姿を探して左右を見るハイファ。
エルトは、まだ本調子ではなさそうなハイファを案じつつも、自分に与えられた役目を果たすことにした。先延ばしにすることは、できない。
「ハイファさん。大事な話があります」
エルトの方へ向き直ったハイファは、彼の思い詰めたような表情に驚く。
「大事な話?」
「よく聞いてください。今日、日没に合わせて僕はこの町を出ます」
「えっ?」
「詳細は省きますが、師匠の手がかりを見つけたんです。リンさんも同行してくれます」
進展があったことを伝えるわりに、声は全く弾んでいない。ハイファは違和感を覚える。
「それにあたって、リンさんからハイファさんに伝言です」
エルトは感情を押し殺し、淡々と言葉を紡いだ。
「――あなたとはここでお別れする。もう会うことはない、と」
ハイファの時間が、完全に停止する。
その沈黙は、実際は数秒だったが、エルトにとっては今まで経験のないほど長く、そして重苦しい沈黙だった。
「どう、して?」
ハイファの喉奥から絞り出された声が、横たわる沈黙を破る。
「リンは、私のこと、嫌いになっちゃったの……?」
瞳を潤ませるハイファに、エルトは「違います!」と声高に叫んだ。
「そんなことありません。リンさんは、ハイファさんのことを考えています!」
柵の間から両腕を伸ばし、ハイファの肩を掴んで力説する。地面に落ちた錫杖から音が鳴った。
「わたしの、こと?」
震える声に、なぜだかエルトの方も泣きそうになる。
「リンさんは、ハイファさんをこれ以上苦しめたくないと思っています。辛いかもしれない記憶を思い出すより、ここで不自由なく生きていけるなら、ハイファさんにとってはその方が幸せだと、そう考えたんです!」
エルトの言葉の意味をわかりたくなかった。だからハイファはエルトの後ろに、いるはずもないリンを探す。
「リンは、どうしてそれを自分で言いに来ないの?」
「……ハイファさんの顔を見てしまえば、やっと決めた心が鈍ってしまうから、と。私を恨んでくれて構わないとも言っていました」
エルトはハイファの肩から手を離し、だらりと下げた。
「みんな、勝手ですよね。伝言役を引き受けておいてなんですが、僕だって到底納得できません」
拳を固めたエルトが、真剣なままの顔でハイファに問う。
「ハイファさん。教えてください。あなたはどうしたいのか」
「私……」
今のハイファには、すぐに答えを出すことはできなかった。
リンが別れを告げてきたことは確かに衝撃的だった。しかし、それがリンの思いやりの形であることもわかる。この屋敷に残れば、彼女の気持ちに応えることはできるのだ。
さっき見た記憶が、ハイファの中で眠るユフィンのものである可能性も捨てきれない。
「私は……」
「そうか。それが、彼女の選択か」
エルトは、真後ろからの声に身体を強張らせた。
「ヒュウリさん……!」
シュルツ家の次男が、眼鏡の奥で冷たく目を光らせている。
「仕事を切り上げて来てみれば……。さすがは行商。しっかり現実を見ているな」
眼鏡を押し上げたヒュウリに、エルトは掴みかかりそうになるのをこらえて、全身全霊をこめて睨みつけた。
「リンさんは別にあなたに屈したわけじゃありません! リンさんがどんな気持ちでこの決断をしたと思ってるんですか!」
「ああ。わかっている」
ヒュウリは一歩だけエルトに近づく。
「だから、それに応えよう」
おもむろにエルトの手を掴み、片膝を折って頭を垂れた。
「ありがとう……!」
ヒュウリの目から落ちた涙が地面を濡らすのを見て、エルトは言葉を失う。
「彼女に伝えてくれ。必ず、この子を幸せにすると! 私と、兄さんで!」
「まっ、待ってください! まだ決まったわけでは!」
「エルト。もう、いいよ」
ヒュウリの手を振りほどいたエルトを、ハイファが止めた。
「もういいって……。ハイファさん、あなたは――!」
エルトは息を呑む。ハイファは、泣きそうな顔で笑っていた。
すぐにそれが無理をしていることは理解できた。
何も面白いことなんてない。突然、一方的に別れを突き付けられて、平気でいられるはずがない。なのに、自分とそう歳の変わらない少女は、笑っていた。
「最後に聞かせて。リンは、私がここに残ることを望んでるの?」
否定してしまいたい。
けれど、この決断を下した瞬間のリンの顔を知っているエルトには、できなかった。
「……リンさんは、それがいいと」
ハイファはそれを聞いて、頷いた。
「わかった。リンが決めたことなら、信じられる」
「ハイファさん……!」
柵の間から手を伸ばすエルト。ハイファは避けるように一歩後ろへ。
「リンに伝えて。今までありがとうって」
開いたままだったエルトの手が、空を掴む。
ハイファに背を向けて、何も言わずに歩き出すエルト。
「彼を外までお送りしろ」
控えていた使用人のふたりが、ヒュウリの指示に従ってエルトを追う。
しかし、エルトは三歩目で止まった。
「やっぱり……やっぱりダメだ。こんな終わり方でいいはずがない! ハイファさん!」
身を翻したエルトは、使用人たちに止められながらも、身を乗り出して思い切り叫んだ。
「リンさんはあなたのことを想っています! 会って間もない僕でさえわかるんです! だからリンさんはこの選択をした!」
両腕を掴んでくる使用人たちを振りほどき、その弾みで錫杖が音を立てる。
「でも、リンさんのあの表情が、あの目が! 本心だなんて思えない! リンさんはあなたを待っているはずです!」
「リンが、私を……?」
「この町の中心にある星皇教会の神殿! 日没までそこで待ってます! あなた自身が決めてください! リンさんと一緒に、待ってますから!」
そして、エルトは使用人たちに押されながら曲がり角へ消えていった。
ようやく戻って来たリュオンが目にしたのは、いつの間にか戻ってきていた弟と、うずくまっていたはずなのに、今は立ち尽くすハイファの姿だった。
※※※
東端の国リューゲルと中央国家レウンの間に広がる深き森。
城を出た女神官は、魔獣の群生地として人々から恐れられているその一帯を見下ろしていた。
彼女が立っているのは、先端が細く尖った足場。
しかし、それは長い時をかけて風に削られた岩などではない。
遥か昔、この大陸を支配した魔獣の頭骨である。
この森はかつて荒野であり、戦場だった。
今は木々が生えているこの地で、剣と牙が、矢と爪がぶつかり合った。
人の放つ魔術が空を裂き、獲物を求める獣の肉体が地を駆けた。
しかし、その痕跡はもはやどこにも存在しない。
どれだけの傷も、時間をかければ上辺だけは埋まっていくのは、生き物も世界も変わらない。ただ、その傷の下にある痛みや苦しみ、悲しみは、いつまでも残り続ける。
その痛みから癒えない者がいる限り。
その苦しみを消せない者がいる限り。
その悲しみを忘れない者がいる限り――。
「……別に、不安なんてないわ」
フードを脱ぎ、露わになった女神官の金の髪が風に揺れる。
「私は、絶対に諦めない」
ここにはいない何者かに向けた言葉を口にする女神官の表情には、揺るぎのない意志が垣間見える。
「今度こそ、あなたを手に入れてみせるわ」
一陣の風が吹きあがり、女神官の姿は森から消えた。
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