2-11 幸福への恐怖
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リンたちが案内された客室は、コンベルで取った部屋などは比べ物にならないほど豪奢な作りだった。
大きなベッドを四つ並べてもまだまだ空間に余裕があり、机や棚も一流の調度品が置かれた客人用の部屋。そのベッドに横たえられたハイファは、今は穏やかな寝息を立てている。
リンはハイファの傍らに寄り添い、エルトはリュオンやヒュウリとともにベッドから離れた出入り口の扉の近くに立っていた。
「この部屋はみなさんで好きに使ってください。なにか必要な物があれば、使用人に運ばせましょう」
「ありがとうございます。お心遣いに感謝します」
リュオンに礼を述べたエルトは、背後で心配そうにハイファを見つめるリンの代わりを果たしていた。
「ヒュウリ、僕らも出よう。長居してはリンさんたちもくつろげない」
兄から誘われたがヒュウリは少し視線を移しただけで、同意せずにリンへ視線を戻す。
「私は少し彼女に話がある。兄さんは先に行っててくれ」
「……そうか。じゃあ僕はこれで」
リュオンが部屋から出ると、ヒュウリは迷いのない足取りでリンの横に立った。
「なによ」
気配を感じ取って振り向いたリンは、仏頂面のまま変わらない。
「心配か、その子が」
「当たり前でしょ! 誰のせいでこんなことになったのよ!」
「リンさん、そんな言い方は……」
「そう。すべては私たちの責任だ」
弁明するでもなく、受け入れるような言動をするヒュウリに、リンは不信感を募らせる。
「だから、その責任を取りたい」
「どういうことよ?」
ハイファを守るように立ち上がったリンに、ヒュウリは真正面から言ってのけた。
「このまま、その子を置いていってはくれないだろうか」
ヒュウリの提案に、リンだけでなくエルトも狼狽する。
「その子をユフィンとして、この屋敷に迎えたい」
「ちょ、ちょっと待って。そんな勝手な……!」
叫びたくなるのをこらえて、リンは低い声音で詰め寄った。
「ハイファには記憶がないのよ⁉ あなたたちの妹のユフィンだって確証もない!」
だが、ヒュウリは表情を崩さないまま、さらに続けた。
「記憶が無いのなら、そう信じ込ませればいい。仮にその子がユフィンでなかったとしても、それは些末な問題だ」
「なんですって……!」
「卵から孵化した雛鳥が初めて見たものを親と思うように、記憶のないこの子の前に現れたのがあなただったから、あなたに懐いているに過ぎない」
「ハイファは人間よ! 動物と一緒にしないで!」
「その通り。だからいくらでも塗り替えることができる」
拳を握り締めたリンの肩越しに、ヒュウリはハイファを見た。
「奴隷のことを調べたからわかる。身体の包帯は大方、奴隷の刻印を隠しているんだろう? その子をいくらで買った? 倍の額を出そう。それで手を打って――」
ヒュウリの言葉は、リンの平手打ちで遮られる。
「いい加減にして!」
リンの行動にエルトは度肝を抜かれた。
「り、リンさんっ?」
「これだからお金だけ持ってるやつは嫌いなの! すぐにお金で解決しようとして……!」
横でハイファが眠っているとわかっていても、激情は止まらない。
「ハイファは何も覚えてなくて、身体だって傷だらけで! どんな思いでこの子が生きてると思ってるの! それを急に出てきて何なのよ! 自分たちの都合いいように仕立て上げようだなんて!」
「リンさん、落ち着いて! 気持ちはわかりますけど暴力は!」
エルトが今にもヒュウリに掴みかかりそうなリンを抑え込む。
ヒュウリは赤くなった片側の頬を擦りつつ、リンの狼藉に憤るでもなく、静かな所作で足元に落ちた眼鏡を拾い上げた。
どうにかリンを踏みとどまらせたエルトは、ヒュウリに視線を向ける。
「ヒュウリさん、あなたとリュオンさんがどれだけ妹さんを取り戻したいのかは想像するに余りあります」
エルトも、ヒュウリに一言言っておきたかった。
「ですが、あなた方がユフィンさんと呼び、僕たちがハイファさんと呼ぶこの女の子の意思を誰も聞いていないんです。それを無視して話を進めることは、決して正しいことだとは思えません」
「………………」
「それと、これ以上リンさんを貶めるような発言をするのなら、僕はあなたを嫌うことを躊躇いませんよ」
温厚なエルトの口から出た言葉に、リンは一驚した。
「エルト……」
「そうだな。失言だということは認める。だが……」
ヒュウリは眼鏡をかけなおし、ハイファの横に立った。
「この子なら、兄さんを救えるかもしれないんだ。そのためなら、私は喜んで憎まれ役になる」
「救う?」
訝る二人に、ヒュウリはため息をひとつついてから、遠くに視線を投げた。
「兄さんは、家族の誰よりもユフィンを愛していた。だから、ユフィンが消えたあの日から、ユフィンが戻ってくることを望んでいる。同時に、ユフィンを守れなかった自分を責め続けている」
リンとエルトは、酒場の前でハイファを抱きしめ、そしてハイファを妹だと主張したリュオンの姿を思い出した。
「地獄の日々だ。知り合いのつてで似たような少女の目撃情報を仕入れて現地に赴いても、結果はいつも人違い。そんなことがもう何度あったことか。だが、兄さんは諦めない。諦めてくれない。兄さんの苦しみは、ユフィンが見つかるまで終わらないんだ。そこに、この子が現れた」
ハイファに伸ばしかけた右手が止まり、空を掴む。
「私は、兄さんを救いたい。もしこの子がユフィンになってくれるなら、兄さんは妹を失った苦しみから解放される」
「それはあなたたちの都合じゃない……! ハイファのことを考えてない!」
「無論、この子の幸せは約束しよう。私と兄さんの全身全霊をもって、この子に不自由のない生活を送らせてみせる」
宣言したヒュウリは、応接間で見た兄と同じ目をしていた。
「……話はこれで終わりだ。失礼する」
踵を返し、扉へと向かうヒュウリ。ドアノブに手をかけたところで、動きが止まった。
「そうだ。最後に聞いておきたい」
「な、何よ」
「あなたは、その子の……ハイファの幸福を考えているか?」
「当たり前でしょ!」
即答したリンに、ヒュウリはさらに告げた。
「では、その子にとっての幸福が何なのか、答えられるか?」
「ハイファにとっての、幸福……?」
「その子が記憶を取り戻したとき、あなたのそばにいた方が幸せだと断言できるか?」
「それは……」
わからない。わかるはずもない。
記憶が戻った途端、ハイファがどのように豹変するかなど想像できない。
「――怖いんだろう?」
ヒュウリの言葉が、ぐさりと胸に刺さった。
「あなたは、もしもハイファが記憶を取り戻して自分を拒絶したらと、そう考えて怯えている」
リンは、何も答えられず、ヒュウリを睨みつけるだけで精いっぱいだった。
ヒュウリは、まっすぐに、兄と同じ眼差しで、リンを睨み返す。
「私は、そんな怯えを抱いていない。記憶を取り戻してもここにいた方が幸せだと、その子に思わせる自信が、確信がある」
「ヒュウリさん、あなたはまだ……!」
怒りに声を震わせるエルトがリンの前に出る。
「よく、考えてみてくれ」
それだけ言い残して、ヒュウリは扉の向こうに消えた。
「星皇教会の司教として、一個人に悪感情を抱くことは良いことではないのですが、許せません。富を持つだけがすべてではないと知るべきです! ねえ、リンさん」
憤慨するエルトは、いやに静かになったリンの方に振り返った。
「リンさん?」
リンはうなだれ、返事もない。
ただ、後ろを向いてハイファを見つめる。
深く眠るハイファに、リンは手を伸ばすことも、髪を撫でることもできなかった。
※※※
リューゲル城の頂上。
その玉座に、鎧の王ヴァルマがいた。
静謐な玉座の間で、服を着た鎧が古めかしい書物を開き黙読するその光景は、奇妙だがどこか厳かな雰囲気を放っている。
次のページへ捲ろうとした彼の指が、ぴたりと止まった。
同時に、玉座の間に繋がる扉が開く。
『どうしたんだい?』
機械的な音声に尋ねられたのは、扉の向こうから入ってきた金の髪の女神官。
『何か用かな? てっきり引きこもっていると思ってたんだけど』
「少し出かけてくるわ。言っておかないとあなた、地の果てまで追いかけてくるでしょ」
女神官は皮肉っぽく言うが、その声音は明るく、口元は笑みさえ浮かべていた。
『へえ、しかも上機嫌と来てる。まるで思い人にでも会いに行くみたいだ』
「あら、やっぱりそう見えて?」
女神官から『兜を叩き割られたいの?』くらいの恫喝は飛んでくるだろうと踏んで言い放った軽口だったが、予想外の返事にヴァルマは違和感を覚え、直後に彼女が何をしようとしているか理解してしまった。
『お、おいおい』
コツコツと甲高い靴音を鳴らして玉座の窓辺へと進んでいく女神官を、本を閉じたヴァルマが呼び止める。
『やっぱりって……! まさか本当に行くつもりなのかい?』
「ええ」
こともなげに。あっけらかんと言ってのけた女神官に、ヴァルマを呆れたようにため息をついた。
『なんて堪え性のない! 自分の計画を自分で台無しにしたいのか?』
「まさか。ちょっと気になるだけよ。顔を見たらすぐに帰って来るわ」
『それこそまさかだ。今の君にそんな細かい芸当ができるとは思えないね』
ヴァルマの言葉に女神官が不愉快そうにきゅっと口を噤む。
会話を途切れさせればそのまま出て行ってしまいそうな女神官にヴァルマの小言は止まらない。
『大方、僕が言ったことを気にして自分の想い通りに事が運ぶか不安になったんだろ? その楽しそうな様子も不安の裏返しだ。臆病なんだよ。そんなことだから君は――』
ヴァルマの機械音声が途絶える。その一秒後。ガラン、と玉座に後を引く音が響いた。
『………………』
「それ以上言ったら、座ってる椅子ごと吹き飛ばすわよ」
絶対零度の声音の女神官が、右手をヴァルマに向けてかざしている。
床に転がったのは、ヴァルマの肩口から吹き飛んだ右腕。
だが、玉座が血に染まることはない。
右腕の形をした装甲の中身は、空洞であったからだ。
「あなたの減らず口も少しは大目に見てあげることにしてるけど、私を臆病者と呼ぶのは許さないわ」
一歩だけ近づいてきた女神官を止めるように、ヴァルマは残った左腕を前に突き出した。
『わ、わかった。わかったよ。僕の失言だった。謝る。だからここで暴れるのだけはやめてくれ!』
「……フン」
女神官が再び窓辺に向かい出したのを見て、ヴァルマは安堵する。
「ああ、言っておくけど」
だが、窓に足をかけた女神官が視線だけをこちらに向けたのを確認して背筋を伸ばした。
「あなたが何を読もうと勝手だけど、その本だけは私の視界に入れないで。表紙を見るだけで腸が煮えくり返るから」
それだけ言って、女神官は窓から飛び降りた。
再び無音の空間となった玉座の間。再び一人になった鎧の王は、閉じた本の表紙を左手で撫でた。
その本は現代のこの世界広まっているのとは異なる文字で書き記されたものだが、ヴァルマにはなんと書いてあるかがわかる。
題名は『龍姫物語』。
『そんなことだから、君は人を愛せなかったんだ。自分自身も含めてね』
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