3-72 溢れ出る記憶
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「う……?」
冷たく湿った風に目を開けたハイファは、自分が今いる場所に困惑した。
薄暗く、すえた臭いと不快な湿度を持った空間。
通路の左右には、鉄格子がはめられた小部屋がいくつも並んでいる。
リューゲル城の地下牢に似ているが、ずっと狭くて息苦しい。
「ここが、ネヴァンの中……?」
左の檻から物音がして視線を向けた瞬間、ハイファは固まった。
かろうじて衣服と呼べる布切れを身に着けた少女が、力なく床に横たわっている。
伸ばしたままの髪は、夕日の色をして――。
「リン!」
檻の鍵は開いており、ハイファは中へ転がり込んだ。
「誰……?」
「私だよっ! ハイファだよ!」
「はいふぁ? ……ああ」
ハイファはリンが笑い、むくりと起き上がるのを見て安堵する。
「――失礼いたしました。ご主人さま」
だが、リンが取った行動は、ハイファに向けた平伏だった。
「え?」
「お買い上げいただき、ありがとうございます。私は、奴隷のリンです。精いっぱい、ご奉仕させていだたきます……」
「リン……な、何を言って……!」
「まずは、服従の証として、ご主人さまの足に口づけを……」
「やめてっ!」
ハイファは足に伸びたリンの手を掴んで止めた。
「どうしちゃったのリン⁉ 私のこと、本当に忘れちゃったの⁉」
「……ご主人さまじゃ……ない?」
虚ろな目を向けるリンのやせ細った身体は、傷や痣だらけで、縛られた痕もある。
そして露出した腹部には、奴隷の焼き印。
「もしかして……」
ここは過去だ。ハイファの脳裏に泡のように言葉が浮かぶ。シャンとひとつになったことは、ハイファの感覚的な魔法の理解度を高めていた。
「あなたが、昔のリン……」
この光景は、リンが決して語ろうとしなかった奴隷時代の過去。それがネヴァンによって暴かれている。
それも、ただハイファの邪魔をするためだけに。
搔き混ぜられた感情に顔が歪みそうになるのを必死に耐えて、ハイファは自分がすべきことへと動いた。
「リン、一緒にここを出よう」
「出る? ここから……?」
「私はリンを迎えに来たの。みんながリンを待ってる!」
「――いや」
ハイファの手を振りほどき、リンは拒絶を示した。
「いやよ。外に出たって、いいことなんてない」
力なくつぶやいたリンは、そのまま俯いてしまう。
「許可なく外に出た奴隷は殺される……。見せつけられたの。騙されて外に出た奴隷の女の子が、痛めつけられて、縛り首にされて……!」
リンは這うようにして檻の隅に移動し、膝を抱えて小さくなった。
「あんなっ、あんな風になるのはいや! どれだけ痛くて辛くても、ここにいれば殺されないわ!」
「リン……」
「出て行って! ご主人さまじゃないなら出て行って! またすぐに私をいじめるやつが来る! せめてそれまでは、私を一人にしてよぉ……!」
肩を震わせて嗚咽を漏らすリン。
声をかけようとした時、大きな揺れが檻を襲った。続けて、ミシミシと何かを潰すような音と共に、空間が崩壊を始める。
「もうネヴァンが……!」
ハイファが案じて顔を向けたリンは、何も感じていないらしく、じっと隔絶の姿勢を取っていた。
「………………」
ハイファは、そっとリンに近づき、正面に腰を下ろした。
「聞いて、リン。リンにはね、これからたくさん楽しいことが起きるの」
反応はない。それでも、ハイファは言葉を重ねる。
「ここを出たリンは、行商のおじいさんといろんな場所を旅して、おじいさんが死んだあとも、リンはお仕事を継いで、相棒のペックと旅を続けるの」
「旅……? 私が?」
伏せられていた顔がわずかに上がり、涙に濡れた瞳がハイファを収める。
「そう。火山地帯で噴火に巻き込まれたり、川辺の街で洪水に遭ったり、渓谷で突風に吹き飛ばされたりするんだよ」
「それ、楽しいの……?」
「……っ! 楽しいよ! リンが自分で言ったんだもの!」
圧壊の音は、徐々に大きくなっていく。
「それから……それからっ! リンは私を見つけてくれるの!」
こみ上げて止まらない涙もそのままに、ハイファはリンに訴えた。
「何もわからなかった私を、リンが助けてくれて! 龍骸装を怖がる私を慰めてくれて! ハイファって名前をつけてくれるの!」
すがりつくように、自身の額をリンの額と触れ合わせる。
「約束、したんだよ……っ! 離れないって、ずっと一緒って……!」
リンの背中に手を回し、力強く抱きしめた。
「だから、外にいいことがないなんて言わないで……! 思い出してよ、リン……!」
「約束……ハイファとの、約束……」
ハイファの腕の傷から出た黒煙が、リンの身体を静かに撫でる。
「あ、ああ……!」
瞬間、溢れ出る記憶の数々。
大きな手が温かくて、色々なことを教えてくれた大切な人。
人懐っこくて、多少の無茶も付き合ってくれる頼れる相棒。
何も話さないし不気味なのに、なぜだか嫌いになれない彼。
ちょっと意地っ張りだけど、頑張り屋で勇気のある男の子。
そして――。
「……そうだった」
聞こえた声に、ハイファは顔を上げる。
「私たちはこれからも、一緒に旅を続けるんだったわね」
微笑むリンはやせ細った少女ではなく、ハイファが知る姿に戻っていた。
「リン!」
華やいだハイファの表情に、リンは眉を下げる。
「ごめんなさい。大変な思い、させちゃったわね」
「ううん……! ぜんぜんっ、だっ、大丈夫っ、だったよ!」
強がってみせるも、泣き笑いの顔ではうまく決まらない。リンはハイファの頬を撫でた。
だが、二人の間に流れる穏やかな空気はすぐに終わる。
空間の崩壊はすでに檻の半分を飲み込んでいた。
「急がなくちゃ……」
涙を拭いて立ち上がるハイファ。リンも後に続こうとする。
「――おっと」
だが、上手く脚に力が入らず、尻もちをついてしまった。
「リン⁉」
「あはは、なんか久しぶりに身体動かす気分……」
心配そうに見つめてくるハイファに、リンは手を伸ばす。
「ハイファ、手、貸してくれる?」
ハイファはリンの手を取って引き上げた。
「ふふっ」
ハイファと手を重ねるリンが急に笑った。
「どうしたの?」
「なんでもないわ。ただ、またハイファに会えたのが、嬉しくて」
リンとハイファの前で、黒煙が円形に広がった。その中では穏やかな闇が渦巻いている。
「ここに入ればいいってこと?」
「うん。きっと、シャンが道を作ってくれたんだよ」
「……ちなみにだけど、外はどうなってるの?」
「ネヴァンと戦ってる。でも、大丈夫」
ハイファは、リンと繋いだ手にほんの少し力を入れた。
「リンは、私が守るから」
「ハイファ……」
柔和に微笑むハイファの顔が、少しだけ大人びて見える。
「行こう、リン」
二人は繋ぎ合った手を握りしめ、温かな闇の中へ飛び込んだ。
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