ト書きっていらなくない?
土曜日の昼下がり、僕はいつもの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
従業員が忙しなく皿を洗う音と、眠りにいざなうような心地よいカリンバのBGMが閑散とした店内に響き渡る。
いつもと何も変わらない誰にも邪魔されない僕だけの時間にうつむきながら浸っていた。
「すみません、相席いいでしょうか?」
見上げるとそこには従業員ではなく肌の黒いポロシャツの男が僕のパーソナルスペースを脅かさんばかりにずんと立っていた。
こんなに席が空いているのになぜこの男は僕と相席をしようと思ったのだろうか。
「ごめんなさい、勧誘か何かでしょうか」
「いえ、少々話したいことがありましてな。」
「僕にでしょうか」
「いいえ。まあぼやきに付き合っていただけでもしたら幸いです。
無論タダでとは言いません。お話に付き合っていただけたらこのお食事代は私が持たせていただきます。」
「はあ……ありがたい限りです、ではぜひおかけください」
「こちらこそありがとうございます。」
僕はこの男が気前のいいことを言うので席に座ってもらうことにした。
なんとも素性のつかめない男ではあるが、話を聞くだけでお金を払ってもらえるのであればありがたい話だ。
男は席に着くと襟を整え手を組んで机に乗せた。
「ときに、小説はお読みになりますかな?」
「ええ、1月に1本ぐらいですが……」
「お若いのに感心ですね。いえ、私もそのぐらいの頻度で読むのですが、どうしても言いたいことがありまして。」
「というと――」
「小説にト書きっていらなくないですか?」
「ト書き……」
「敷衍して言えば、台詞の前後に書いてある主人公の感情や情景などが書いてある地の文のことです。」
そんなことを考えたことは一度もなかった。
「今出たやつです。」
「心の中を読まないでください」
「例えばこの皿を洗っている音。
こんなものト書きで書かなくったって擬音で書いておけばいいわけです。」
ジャー――ガチャガチャ――
「ダメですって。これじゃバイトが皿を割ったのか分からなくなっちゃったじゃないですか」
「そんなもの口で言えばいいじゃないですか。現にあなたは何の音かわかってるでしょう。」
「小説は絵がないから、台詞だけでは補えない情景や主人公の感情をト書きで補っているんでしょう」
「冗長な小細工は間延びさせるだけですよ。」
「そもそも、最初の店内の描写のト書きは単に皿を洗っていることだけを表してるんじゃありませんよ。
従業員が忙しなくお皿を洗っている、なのに店内は静まり返っている。これは暗にその時間がランチタイムを少し過ぎた午後2時程度であることを示しているわけです。
……これはあくまで私の意見ですが、小説は冗長であるからこそ長く読めると思うんですよ。
地の文を読んで本の中の風景を思い浮かべて、主人公がコップを机に置いたと書かれているなら、自分が映画監督になった気分でコップの頭をつかんだ上の見切れた手がトンとコップを置くわけです」
「最近の人はそこまで書かないと思い浮かべられないんですか?」
「それは昔からそうじゃないですか」
「それに、日本語には豊富な一人称と役割語がある。
今までト書きに説明はありませんでしたが、私の喋り方からあなたは私が初老かそれ以上の年齢であることもわかっているのではないですか?」
「なんでさっきからト書きに何が書いてあるか知ってるんですか」
男
「誰がしゃべっているのか明確にしたいなら括弧の前にこう書いてもいいでしょう。」
僕
「演劇の台本じゃないんですよ」
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「なんか今少し間が空きませんでしたか」
「間が開いたことを表現する謎のハイフンですよ。」
「もうト書きに書けばいいのに」
「そういえば、さっきかあなたは頑なに感嘆符を使うまじとしますが、文字で伝えるだけならどんどん使っていけばいいでしょう?」
「海外の小説ならそれでもいいかもしれませんが、エクスクラメーションマークはもともと日本語にはなかった文化ですよ。
日本語で書いているのならば、明治より続いているこの伝統を続けていくべきだと僕は思いますがね」
「ではなんですか?『ちょっと』という言葉をわざわざ『一寸』と書いている小説を読みたいのですか?わざわざという字も『態々』と書くことになるんですよ?」
「それは内容によりますけど……」
「…気にしましたね?今」
「何をですか」
「私が?の後に続けて文を書くときに全角スペースを入れなかったことですよ」
「……まあ、少し気になりはしましたが……」
「それに『…』だってそうだ。私が…を偶数個にしなかったことを気にしてたんでしょう。」
「……正直なところ」
「さらに挙げれば、私が閉じ括弧の前の丸(。)もわざわざ書いていたことも気にしてたんでしょう。」
「最初からめちゃくちゃ気になってました」
「あなたは小説を通して何を知りたいんですか?物語の起承転結や主人公たちの感情の変化などでしょう!そこに三点リーダーの数が偶数だとか、感嘆符の後にスペースがないとか、約物のことなんて関係ないじゃありませんか!」
(本当読みづらいなこの文章……)
「聞こえてるからな!心の中で偶数個に整えただろう!」
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男はひとしきり文句を言うとそそくさと帰ってしまった。
僕は静寂が広がる店内で今起こった珍事を、冷めたコーヒーを飲みながら整理していた。
ダイアルの2つ付いた時計を見る。時針は午後3時を指していた。
「もうこんな時間か。もう帰らなきゃ」
僕はピンクのアタッシェケースを引きずりレジの前を通り過ぎた。
「お客さん、お会計」
店員に呼び止められる。
「さっきのポロシャツのおじさんが払いましたよ」
「もらってません」
「はぁ」
どうやらあの男は僕との最初の約束を破り喋るだけ喋って帰ったようだった。
僕は男の分の食事代も無駄に払わされ、ガラガラとアタッシェケースを引きずりながら店から出ていった。
これは僕が一人女旅で経験したある奇妙な出来事でした。
「お会計20億ジンバブエドルです」