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29.いざ決戦への出立、なのですわ!

「緊急依頼……ですか?」


 ユカリは神妙な面持ちで、滑って転んだ職員にそう問いかける。


 緊急依頼。その四文字が示しているものは大概ろくなものではない。


 過去にあったものの中では、王都近くまでワイバーンが飛んできたから腕利きの冒険者を派兵してほしいだとか、魔剣持ちのトロールオーグが城塞都市ファスティラ付近で暴れ回っているとか、そういうものばかりだ。


 さりとて、無視すれば人々の生活に重大な影響を与える以上、そのチョイスはユカリに、というよりは、冒険者ギルドにはない。


 ユカリから手を差し伸べられたことでなんとか起き上がった職員の膝はまだ震えていた。


 彼が大事そうに抱えていた羊皮紙の束は床に散乱していて、騒ぎを聞きつけた冒険者──クーデリアは無造作にそれを拾い上げると、書かれていた内容に絶句する。


「……何々、ヒンメル高地から人里まで降りてきたグランマムートの討伐……って、はぁ!? バッカじゃないの!?」


 思わず目を丸くしていたクーデリアが叫んだその言葉に、先ほどまでは騒然としていたはずの冒険者ギルド、その併設酒場は水を打ったようにしん、と黙り込む。


 グランマムート。


 その名前と危険性は、冒険者の間でも極めて有名だ。


 例えば、ヒンメル高地でしか採れない「万年氷石」や「サンライト鉱」といったアイテムの採取依頼が回ってきた時に、冒険者たちが気をつけるべきことは何か。


 それは採掘ポイントの選定でも、雪山における基本装備の調達でもない。


 そいつに出会ったら、依頼を放棄してでもいいから、一も二もなく逃げろ、ということだ。


 本来は植物食と鉱物食の性質を併せ持つ、ヒンメル高地という、極めて外界からは閉ざされた極限環境に適応したグランマムートが、何故人里に降りてきたのかはわからない。


 だが、例外がない、とは必ずしも言い切れないのがこの世界であり、実際、グランマムートは過去にも人里で目撃されて、開拓村が何個も潰されている。


 だからこそ、そいつの悪名は、「山の化身」の二つ名はこうして、冒険者たちの間に轟いているのだ。


「これは……Bランク、いえ、Aランク以上の方々を呼ばなければ……」


 羊皮紙に記されていた、グランマムートの目撃情報をつらつらと読み取るユカリの目が珍しく、動揺に揺れる。


 この緊急依頼の厄介なところは、討伐対象がグランマムートという危険極まる魔物であるところに疑いはない。


 だが、それに拍車をかけているのが当該する個体の大きさなのだ。


 通常であっても、平均的な成人男性大体五、六人が縦に積み重なってようやく届くレベルなのに、当該個体はその二倍、まさに「山の化身」という名の通りだった。


 大きいということは、それだけでアドバンテージになる。


 ワイバーンと呼ばれる下級の「竜」を倒すためにも国軍の戦力が投入されることからもわかるように、巨体を持つ魔物に対して人間が取れる戦術は、基本的に集団戦法のみだ。


 それでも、凄腕の冒険者や、王都を守護する精鋭の騎士ならば、或いは単騎での討伐も不可能ではないのだろうが。


 そんな諦めじみた感情が滲む、ユカリの値踏みするような視線へ、酒場に集まっていた冒険者たちは一斉に拒絶や恐れを覚えて背筋を震わせる。


「……悪いけどギルドマスター、あたしたちじゃ期待に応えられないと思うわよ」

「……通常個体ならばまだしも、特異個体ですからね。こちらこそ……いえ、ですが」


 ヒンメル高地近くに拓いた開拓村は、皇国に良質な木材や鉱物資源を運ぶのに極めて重要なポジションにある。


 だからこそ、国軍も最初は騎士隊と精鋭冒険者を投入したのだろうし、万が一に備えて、ルヴィアリーラから提供されたポーションだって高値で買い取ったのだ。


 だが、それでも勝てなかった。


「わたくしが行きますわ」


 その声が凛と響き渡ったのは、そんな風情で、誰もが恐れに震え、絶望する中でのことだった。


 正気かよ、と、誰かが反射的に呟いたことから波紋が広がるように、静まり返っていた冒険者酒場がざわめきを取り戻していく。


 そしてその、正気を疑うような発言をした主こそが、国軍に大量の高品質ポーションを提供して、毎朝奇声と共に剣を振り回し、城門近くで釜をかき回している──ルヴィアリーラに他ならなかった。


 いつものように得意げな高笑いこそセットでなくとも、ルヴィアリーラは、極めて真剣な眼差しでユカリを見据え、豊かな胸を下から支えるように腕を組んだ。


「ルヴィアリーラさん、本気ですか?」

「ええ、大マジのマジですわよ、ここにいる誰もが行かないというのなら、わたくしは往く──無論、死にに行くのではなく、勝利を手にするつもりで」

「ちょっとルヴィアリーラ! あんた、いくらなんでも頭おかしいでしょ!?」


 毅然と言い放つルヴィアリーラに、クーデリアは強い語調で食ってかかる。


 しかしそれも、むべなるかなといったところだった。


 どんなにルヴィアリーラが「東の森の主」や、ケーニギンアルマを倒せるほど優れた冒険者であったとしても、グランマムートと「東の森の主」など、比べることすら失礼に当たるほどにその実力には開きがある。


 確かに、ルヴィアリーラが実力者であり、錬金術という、今時珍しい魔術(スキル)によって、数々の困難を打破してきたのは、クーデリア同様に、ユカリもまたわかっていた。


 だが、矛盾するかもしれないが、実力のある冒険者ほど、危険な依頼に送らねばならず、結果として、その存在を、命を失う可能性は高くなる。


 その可能性が心底惜しい、というのが、包み隠さないギルドの本音でもあった。


 そして、ルヴィアリーラ一人でどうにかできるか、という目算も、ユカリの見立てでは極めて怪しい。


 あの巨象をひっくり返せるほどの力があるか、或いは何か、「万年氷石」を主食とし、常に体内に強烈な冷気を宿したグランマムートを上回る、強力な炎の力があれば、というのがユカリの見立てだった。


「……正直に言わせてもらうと、ルヴィアリーラさんお一人では極めて厳しいかと思われますよ?」

「ええ、それはわたくしも承知しておりますわ」


 ユカリからの言葉に、予想に反してルヴィアリーラが返した言葉は極めて謙虚なものだった。


 幸いなのか不幸なのか、ルヴィアリーラは確かに「切り札」を残す形でケーニギンアルマを打倒している。


 ただ、冒険者に憧れていたルヴィアリーラは、幼い頃に穴が空くほどの勢いで、魔物図鑑を読み漁っていたのだ。


 だからこそ、「山の化身」がいかに強力であるかなど百も承知だった。


 承知の上で、ルヴィアリーラは自分が──自分たちが行くのだと、そう宣言したのだ。


「……リリア、申し上げづらいですが……わたくしに、命を預けていただけますか」


 だが、ルヴィアリーラにはリリアがいる。


 リリアの強大な魔法が、自身の「切り札」に重なったなら、そして戦利品として入手した「アレ」があれば、或いは。


 勿論、リリアが拒否したのなら諦めるつもりで、ルヴィアリーラは問いかけていた。


 しかし、リリアの答えなど最初から決まっている。


 目深に被っていたフードを脱いで、リリアはその虹の瞳で真っ直ぐにルヴィアリーラを見据え、小さく、しかし力強く頷いてみせるのだ。


「……はい、ルヴィアリーラ様……わたしの命、尽きるまでお側にいさせてください……!」

「尽きさせませんわ、リリア。そしてギルドマスター! わたくしとリリアの力は、貴女も把握しているのでしょう?」


 リリアがそっと差し伸べてきた手を握って、ルヴィアリーラは高らかにユカリへとそう言い放った。


 それはさながら、研ぎ澄まされた剣の切っ先だった。


 人が蛮勇と呼ぶのと紙一重なその感情は、ルヴィアリーラを突き動かす心そのものだ。


 誰かがやらなければいけないのなら、自分がやる。


 それを自らの使命だと、ルヴィアリーラは捉えているところがあった。


「……わかりました」


 正直なところ、そんなルヴィアリーラと、そして彼女に付き従うリリアだからこそ、ユカリとしては、失う可能性のある任務に送り出したくなかったのだ。


 確かに冒険者ギルドは、冒険者を死地に送る組織かもしれない。


 それでも、否、だからこそ、無事に帰ってきてほしいという祈りを欠かしたこともなければ、ギルドもまた、適正な依頼の分配に日々努めているのだ。


 だが、今、この都市が、そしてウェスタリア神聖皇国が置かれているのは、四の五の言っていられない、文字通りの国難である。


 故にこそ、誰かが行かなければならないのは事実で、そして、それを選ぶならば──彼女たちほど適任な存在がいないのも、また事実だった。


「絶対に帰ってきてくださいね、ルヴィアリーラさん、リリアさん。我々は……そして私は、貴女たちを失うことを望んではいません」

「勿論ですわ、組合長……いえ、ユカリ! わたくしルヴィアリーラ、約束を破ったことなどこの半生で一度もありませんことよ!」


 必ず、リリア共々生還する。


 その決意を込めて、ルヴィアリーラはユカリが心配そうに差し出してきた緊急依頼表に、自らの名前を記す。


 まるで地獄に赴くような空気だ。


 しかし今から向かうのは断じて、死出の旅などではない。


 閉口し、拳を震わせるクーデリアに、ルヴィアリーラは聖衣の裾を掴んで小さく一礼してみせる。


「感謝いたしますわ、クーデリア」

「……何がよ」

「わたくしたちを、心配してくれたのでしょう?」

「……当たり前よ! グランマムート、それも特異個体に挑むなんて、正気の沙汰じゃないわ! でも……」


 そんなルヴィアリーラに心からあきれ返りながらも、クーデリアはどこか遠いところに行ってしまったような、真紅の瞳を見つめて歯噛みした。


「……でも?」

「……なんでもないわ、必ずあんたとリリアが帰ってくること、あたしも信じてるわよ」

「勿論! さあ、参りましてよ、リリア!」

「……は、はい……! ルヴィアリーラ様となら、どこまでも……!」


 意気揚々と、地獄へ飛び込んでいくルヴィアリーラとリリアの姿はやはり、クーデリアの目には正気だと映らない。


 それでも、幼い頃に憧れた冒険者としての姿がそこにはあった。


 聖衣と赤みがかったブロンドを翻して出立するルヴィアリーラと、その半歩後ろを歩いているリリアを見送りながら、クーデリアはそれを蛮勇だと、心の中で小さく詰る。


 だが、それは嫉妬に他ならないと、何よりも自分自身がよくわかっていた。


「……頑張んなさいよ」


 扉を閉じて出立する二人に、その言葉が届いたかどうかはわからない。


 ただ、羨望を抱いていると、そう認めた上で、クーデリアが心の底から送ったその激励もまた、きっとまた、一つの勇気に他ならなかった。


 ユカリはそんなクーデリアと、旅路に歩んで雑踏へと消えた二人の背中を交互に見遣る。


 そして、そこに己の現役時代を思い返し、蘇ってくる、ちくりと胸を針先で突かれたような思い出に、小さく苦笑を浮かべるのだった。

ゴーイング(元)お嬢様──!

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