捕食者のテリトリー
お読み頂き有難う御座います。
あの後、ロレットの母親は、ガタガタ震え出して人事不省に陥った。
彼女を休ませる場所が必要だ……と、フリックと鷹獣人護衛のマキは剥がれたペンキで塗られたドアの先に案内される。
古びて壊れか桁家具が少しだけ並ぶ、粗末な部屋。物があまり無く、生活感が無かった。
歩く度に大して広くない部屋にぺたり、と靴音が響く。明かりすら置かれていないし、随分と床が湿気ているようだ。靴裏に塗れた感触を感じる。
「ズズグロ男爵、というヤツは……悪人なんだが、かなりのおかしなヤツで、意味が分からないんだ、よね」
母親を古びたベッドに乗せると、ロレットは此方へ向き直る。
明かりの無い、薄暗い室内は彼の表情を隠していたが、フリックの目は暗がりでも利く。
ロレットの顔に宿っていた少しだけ悪意は、消えたように見えた。
「……ゴメン、椅子は2脚しか無いんだ」
「……ええと、気を遣わないで。あまり、長居する気もないし……」
寧ろ、流されてロレットに付いてきてしまって良かったのだろうか。危機意識が足りないと後でミューンに叱られるかもしれない。
フリックの後ろに控えるマキの表情は変わらないが、武器から手を離していないようだ。
……巻き込んでしまった罪悪感がフリックの胸を過る。
早く此処から出なければいけない。
「聞いてくれるかな……。……体温高いね」
ヒヤリ、とした冷たい手がフリックの手を握る。が、直ぐに離された。
不愉快さから咎めるようにロレットを見ると、ヘラリと無邪気そうな笑顔を返された。
「ズズグロ男爵の事は、合成異世界種の単語が出た時点で知ってるよね。
アイツは流れ者……俺達の群れや、他にも事情の有る奴らに色々命じてたんだ」
「それを……何故今、僕に話すの」
「何でだと思う?」
クスリ、とバカにするかのような忍び笑いに、フリックはゾワリと尻尾の毛が逆立つのを感じた。そして、思わず部屋の中に視線を巡らせた。
古びた家には少ない家具と、ロレットと、横たわる彼の母親。背後にはマキ。明かりがなくて暗い室内。
何かがおかしい。ピリピリと肌を刺すような違和感を感じる。
それなのに、何がおかしいのか分からない。
何処がおかしいんだ。フリックは必死に考えた。
「……マキさん、お暇しましょう」
「……御意に」
ずり、ずりと後退りするフリック達にロレットは困った顔を向ける。
暗がりで少しだけ色をくすませたピンク色の神髪の毛を揺らし、可愛らしくて、少女のような……無邪気な顔を。
「それじゃ困るんだよなあ。……お招きしたのに、勝手に帰られるとさあ」
耳を澄ますと、水音が聞こえる。
雨も降っていない。メメル大河の川のせせらぎは闇の大地商店街の喧騒で此処まで届かない。
それなのに、何故……。この、水の流れる音が違和感だ。
「君みたいな賢い子が助けてくれたら、嬉しいなあ」
ふわり、と胸に小柄な体に重みが掛かった。。
そんなに発育の良くないフリックよりも、小さくて冷たい体。
「助けてよ」
くっ付けそうな距離で、そう紡がれた唇の色が、ミューンと同じ色の口紅だ。その色に目を取られ、気づいた時には……フリックは、真っ逆さまに水の中へと落ちていた。
「フリック様!!」
しめった木の破片が耳に当たる。
ふたり分の重みで、床板を抜けさせたらしい。
しまった。
裏通りには、地盤のかなり弱い場所が有ると聞いていたのに。
シャーゴンが建国される遥か前の旧王国時代、メメル大河の支流を地下水と合流させて、地下水路を作らせた。その水は嘗ての旧王国を潤して繁栄を齎したらしい。
流石に古すぎて崩落の危機もあり、上下水道の工事の折りに、粗方埋められたものも多い。
見逃された水路。その上は危険だと……ロレットに引きずり込まれたのは、其処だ。
「ミュ……ーン……」
もがく暇も無く、落ちた瞬間にフリックはゴボリ、と水を飲んだ。
地下水の割に流れが早く、マキが覗き込んだ時には……水面に彼らの姿は無かった。
フリックは泳げますが、そんなに……な実力です。インドア剣歯虎です。




