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3、奴隷

粗末な木製の二段ベッドが敷き詰められた狭い部屋。

壁の一部は腐れ、ところどころに空いている穴から隙間風が吹きこんでくる。

そのくせ窓にはしっかりとした格子がついていて、唯一外に出られる扉は見るからに頑丈そうだ。


あたりからは大きないびきに混じり、すすり泣く声、うめき声が微かに聞こえる。

さらにはなんとも言えない悪臭がただよっていた。


「・・・・・」


そんな部屋の中、俺は自分にあてがわれた硬いベッドの上で、夢に堕ちそうな意識を必死に引きとめながら

いつものように復習をする。


「『いし』、『しょくじ』だろ?そしておそらくあれは『持ってこい』って言う命令で・・・」


ぶつぶつと、今日聞いた言葉を反芻し、必死に理解していく。


体はあちこち痛み、心底くたくたで。

今すぐ寝ないと、明日の重労働に耐えられないかもしれない。

それでも俺はこうやって起きて、勉強している。


早く言葉を理解しないと、おそらくすぐに壊される。

役に立たない奴隷は、使いつぶされてしまう。


・・・そう、俺は奴隷にされたのだ。


俺を拾った男は奴隷商だったのだろう。服ははぎ取られ、代わりにボロ布と、首輪、そして奴隷の刻印を与えられた。


首筋に打たれたその焼き印は、いまだにずきずきと熱をもって痛み、『お前は奴隷に堕ちたのだ』と主張する。


奴隷なんて当然なりたくなかった。

だが、どんなに抵抗しようと、その暴力の前に屈するしかなかったのだ。


いや・・・今考えると、違う、かもしれない。

俺はそれを心のどこかで受け入れてしまっていたのかもしれない。

心身ともに衰弱していたのもあるし、何より、右も左もわからぬこの世界で、一人で生きていくことはできないと理解してしまったからだ。


意味の分からない化け物に食われたくなどない。

俺は生きて、家に帰るんだ。

だから、今はどんな屈辱だって受け入れてやる。


その希望だけを心の支えに、必死に働き、勉強する。


幸いにも、俺が買われたところは奴隷に過度な無茶はさせなかった。

それはけして奴隷を想う心優しい雇い主だから、というわけではない。


奴隷という道具を、壊さぬように、さりとて生きぬように。されてしまうのだ。


つい先日も、怪我をして歩けなくなった奴隷が、どこかに連れて行かれるのを見た。

泣き叫びながら連れて行かれるその奴隷がどうなったのかはわからない。

だがその様子から、おそらく・・・。


「・・・父さん、母さん、静流」


生きる希望の呪文を唱える。


大丈夫、俺が想定していた事態の中では、下から数えて3番目くらいだ。

少なくとも最悪じゃない。


この世界だって、まったく馴染むことができない世界ではない。

細部は違うのだろうが、中世のヨーロッパに近い生活様式のようだ。

国があって、王様がいて、貴族がいて平民がいて、そして奴隷がいる。


大きな違いといえば、この世界には魔法が存在し、小さい子供から大人まで誰もが魔法を使えるということだろう。


魔法のある世界、憧れたことがないと言ったら嘘になる。


しかし今は断言できる、魔法なんてない方がよかったと。


俺はこの世界の住人ではないからだろう、魔法がまったく使えないのだ。

他の奴隷ですら使える魔法を俺は使えない。

だから、俺はそれを持ち前の体力で補うしかなくて、結果他の奴隷よりも重労働となってしまうのだ。


この世界の標準身長からすれば、俺は大柄な方らしく、力もあるため、魔法がなくてもなんとかやっていけていることは不幸中の幸いか。


だから大丈夫。

生きいれば・・・きっと帰れるから。


父さんも、母さんも静流も心配しているはずだ。

静流なんてきっと泣いていることだろう。

泣き虫だし、兄ちゃんとしてはちょっと心配するほど俺になついてくれているし。


入試は・・・うけられなかったから、浪人することになるだろうけど。

いや、別に必ず大学に行かなければならないわけじゃない。

これを機に就職することも視野に入れるのもいいかもしれない。


・・・うん、さっさと帰ろう。


そう心を決めて、まずは生き残るために、必死に言葉を覚えるのだった。


・・・。

・・・・・・。

・・・・・・・・・。


信じていたんだ。


信じるしかなかったんだ。縋るしかなかったんだ。


半年経っても信じていた。歯を食いしばりながら。


一年経っても信じていた。涙を流しながら。


二年経っても信じていた。帰還した自分を夢想しながら。


三年経っても、信じて、いた。黙々と、働きながら。


四年経っても、五年経っても―――


八年目に、頭に描いた父さんと、母さん、静流の顔がぼやけていることに気付いて、絶叫した。


九年目は、薄れていく記憶をつなぎとめようと、時間を見つけては地面に知り合いの顔をかき殴った。


そして十年目―――


・・・。

・・・・・・。

・・・・・・・・・。


それは唐突に訪れた。


いくつもの布袋を抱えて、倉庫に詰め込んでいるところで。


鏡に映った自分の姿を見たところで。


日焼けし、この世界に来る前とは比べられないくらいに太く、ごつく、傷だらけになった体を、無精ひげが生え、死人のように光を灯さぬ目を、元の世界にいた俺とあまりにも乖離している今の俺を直視して。


もう、元の世界に帰ることはできないと、認めてしまった。

そう認めた瞬間に、ぷつりと体から力が抜けた。


「おいっ、44番!何をしている!」


現場の監督者がすぐに駆けつけて怒鳴り散らしてくるが、まるで現実味がない。

ディスプレイの向こう側の世界の出来事のように、他人事に感じてしまう。


「・・・」


「44番!44番!しっかり働け!破棄するぞ!」


・・・。


破棄か、破棄ね、うん。


もう俺がここでは一番の古株の奴隷だ。

俺より前にいた奴隷は壊れたか、破棄された。


今度は俺の番ということか。


「いい加減にしろ!」


ふるわれる鞭に、皮膚が裂け、血が飛び散る。

だがそれさえも他人事で。


「・・・ああ」


もう、いいじゃないか。


「おいっ・・・おい?」


帰れないんだ。

この世界は俺を帰さないんだ。

このクソッタレな世界は俺から全てを奪って、何も与えないんだ。


この国では暁の女神なるものを信仰しているようだが、ろくでもない神に違いない。

なんの意味もなく俺をこの世界に引きずり込んで、放置して。

いや、おそらく俺のことなど眼中にすら入っていないことだろう。


何が慈悲深い神様だ。


「44番!返事をしないか!!」


どろどろとした汚濁が、十年もの間封じてきたこの世界に対する憎悪が、急速に心の中にあふれてくる。

凍えるほどに頭は冷たいのに、体は溶けてしまいそうなほどに熱くなる。


「くそっ、ついにこいつも壊れたか。

 予想よりだいぶ使えたんだ、他の奴よりましだか。

 ちっ、まだ使えると思ったんだがな」

 

「・・・」


帰れないなら、もう。


生きている意味なんてない。


せっかくだしこの世界に中指立てて死んでやる。


「おい、44番が壊れたぞ、こいつを破棄するから連れて―――え?」


「・・・ふんっ!」


「ごぁっ!?」


よそ見している監督者の足もとに一足で飛び込み、体をねじりながら伸びあがり拳を突き上げる。

それは見事、監督者の顎を打ち、その体を宙に飛ばす。


「44番、何しているか!?」


「あぁあああああ!」


集まってくる他の監督者達に地を這うようにとびかかる。

一人目を力任せに殴り飛ばし、二人目を掴んで三人目にぶん投げる。


四人目に―――


「『44番の戒めよ、裁きの痛みを与えよ!』」


「ぐぎぃ・・・ぐ」


急激に、首輪が締まる。

首輪にかけられた魔法だ。


「大人しくしろ44番!―――なっ!?」


「じねぇえええ!」


だが、そんなもの関係ない。

殺してくれるなら望むところだ。

だが、殺される前により多くを壊してやる。


「やめっ―――げぷっ!」


四人目にとびかかり、全体重をかけて蹴り飛ばす。

そいつは面白いように地面と水平にぶっ飛んでいった。


「はっ」


その無様な姿を鼻で嗤う。


距離さえつめられれば、勝機はある。


なんせ俺は拳闘士のチャンピオンだ。


・・・といっても、国を挙げて大々的に行われるようなものでなく、主人の仲間内で行われる

余興の一環としての決闘に過ぎないが。


それでも、それで壊される奴隷を幾人も見てきた。

俺はそうなりたくなかった、生きて帰るために。


だから仕事の合間をぬって訓練したのだ。


そこで役に立ったのは日本にいたころの記憶だ。

学校の授業でならった柔道、テレビで見ていたレスリング、空手、あるいは漫画の知識。

死が間近に迫る中で、俺の頭はそれらの記憶を驚くほど鮮明にひねりだしてきたのだ。


それが俺をこの市世界で拳闘士のチャンピオンにまでしてしまうのだ、何が役に立つかわからない。

・・・これから俺は意味なく死ぬんだろうけどな。


「44番を止めろ!!」


「『猛々しきアグート精霊よ、炎となって我が前にある障害を―――』」


足元で意識を失っている監督者をおもむろに掴みあげると、それを盾に、増援に向かって駆け出す。


「―――っ」


魔法は『人間』には撃てないってか。

お優しいことで。


「おらぁああ!」


「く、おぁああああ!?」


慌てて腰に下げた剣を引き抜くが、遅い。

剣が降り下ろされるより早く懐に飛び込む。

相手の腕をとるや否や全身をねじるようにひねり、放つは一本背負い。


「げはっ!!」


地面に叩き付け、さらに集まってくる監督者に向かって猛然と襲い掛かった。



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