厄災と粛清
今回人々が学んでいることはとてもラジカルなテーマである。
ひとつは命について。ひとつは不自由について。そして最後にその先におのずと見えてくるいかなる状況にも付随しているという「幸せ」の確固について。
これを知らざるを得なくなった今回の民衆の機会は強い。
そして新たな、しかし元来真なる、そんな眼差しの生まれた人々は必ずひとつ高みの次元への上昇を、少なくともそれを果たすためのキーを得ているに違いない。
今回で何も得なかった人格には何も残すことはなく、その精神は腐っていくことだろうし、そもそもが腐っているというだけに違いない。何ら自覚はないし何ひとつ意味合いのかけらもない。
そもそもあった、というだけの尊厳に「気づき」という光が射したのだ、というだけのことだろう。この先の地平にて、私は文学に挑んでいきたいし、そういった作品をしぜん受け入れてくれる土壌が出来上がっているに違いないという事実に、その幸運を見いださざるを得なくなる、というだけのことなのだ。
そも、生きている、というだけのあたかも宗教的儀式が目の前に広がっている。人格の濃縮を用いた純粋な虚構による世界の創造。私はほくそ笑む。