ロード・エドーモンスターにしか欲情しない性賢者は世界を救えるか?ー
某ニコ生放送の企画作品です。
キリのいいところまで書けたので、もしよかったら覗いてやってください。
ヒトが獣を犯すとき、ヒトは同時に人倫をも犯している。
これは広義に、ヒトと獣と人倫の3Pと言えるのではないだろうか。
――『伝説の性賢者/エドのキセキ』の一説より
海が荒れていた。
分厚い黒雲が空を間断なく覆い、吹き荒れる暴風が飛沫を上げながら波を砕く。
光のない海を前に、島民たちはただ祈祷を捧げていた。
大海の主よ、どうかその気を鎮めたまえ、と。
「見ろ、海が割れるぞ!」
島の高台に上っていた男が、声の限りにそう叫んだ。彼が指す方を、島民たちも遅れて見やる。
盛り上がっていた海面が左右に分かたれた。まるで地割れのようなその光景に、島民たちは息を呑む。
瘴気。およそ感受し切れないほどの圧倒的な禍々しさ。
「あれは…………っっ!」
現れた海の主に、見た者全ての身が竦んだ。
大岩ほどもあろうかという、怪しげに光る両眼。吸盤と大棘がびっしりとついた、複数の触腕。その膨張した頭部と無数の歯のある口器を見て、一体どれだけの人間がそれを生物と思うだろう。
クラーケン。その全容が視認できないほど巨大な姿をした、海の魔物だ。
「ヴォ、ヴォオオオオオオオオオオオッッッ!」
クラーケンの咆哮が、衝撃波のように島民たちを襲う。たった一瞬のその嘶きに、耳を押さえてのたうちまわる者さえいた。
頭足類に声帯はない。ゆえにその咆哮は、正確には漏斗からただ空気が漏れた音なのだが、島民にとってそれはクラーケンの怒りを具現化した『前触れ』に思えた。
前触れ。
これからこの怪物が引き起こす大災禍の前触れ。
「シ、シンシアっ! 海の主に話を……っ!」
長老らしき男性に押され、一人の少女が浜辺に姿を現す。
フウ・シンシア。彼女は、この島で唯一、動物や魔物と対話できる能力を持った少女だった。
「……………………っ」
クラーケンを前にして、シンシアはびくりと体を震わせる。腰を抜かさずに済んだのは、ひとえに為すべき大命が彼女を立たせる芯となっていたからだった。
「――――――――――――」
一つ息を吸って、シンシアは声を出した。人間には捉えられない、高音の特殊言語。
それを聞いたのか、クラーケンはうねらせていた触腕をしばし止める。
「―――――――――――――」
言葉が通じたことを好機と捉えたのか、シンシアは次の呼びかけを発する。傍目から見れば奇怪極まりないその光景に、しかし島民たちは並々ならぬ緊張を感じていた。
綱渡りめいた交渉だ。いや、彼我のパワーバランスが均衡していない以上、これは交渉ではなく単なる懇願である。
「――――――――――――――」
三度の呼びかけを発した後、シンシアの顔に焦りが走る。
刹那、落雷とともにクラーケンが触腕を海に叩きつけた。
「ぁ、うわァァァァァアアアぁぁッッッッ」
衝撃に、島全体が揺れる。クラーケンの周りに乱流が生まれ、遥か遠方から津波が接近してくる。
「ぁ、あァ…………」
逃げ惑う島民たちの中で、シンシアは一人膝をついた。
漏れたのは絶望と諦観のため息だ。自分たちは間違えてしまった。その報いが滅びを招いた。
「ヴォ、ヴォオオオオオオオオオオオッッッッ!」
クラーケンが触腕を上げる。それが空気を裂くような速さで浜辺にいるシンシアに叩きつけられ――
「――うおおおおおおおおおおおおおおおお、待てやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
――る前に、迫りくる津波から声が聞こえた。
「…………声?」
自分の認識に、シンシアは違和感を覚えた。
津波は喋らない。動物や魔物の声が聞こえる自分でも、水の声なんか聞いたことがない。
だとすれば、どうして声が。
「……ぇ、ええ!?」
思わず、驚きの声が漏れた。
シンシアは目が良い。高台に立てば地平線の彼方にいる船を見つけることだってできる。
だけど、今ばかりは自分の目が信じられなかった。
少年が海を走っている。
羊飼いに追い立てられる羊のように、津波に追われながら海面を全速力で走っていた。
「俺抜きで、盛り上がってんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!!!!!」
雄たけびとともに、少年は津波よりも遥かに早く島へ上陸する。そしてシンシアの前に立つと、その右手を津波へと向けて叫ぶ。
「欲情次乗の双球波」
瞬間、少年の手から放たれた風魔法は、波状となって津波へと飛んでいく。
そして、それは迫りくる津波を冗談のように相殺した。
「なっ……!」
あまりに無茶苦茶な魔術に、シンシアは大きく目を見開く。
自身の体内を巡る血液を依り代に自然へと干渉する魔術は、大きな術であればあるほど大掛かりな準備が必要だ。地脈の流れを把握し、それをもとに呪具や贄となる生体を用意し、その上で体内の魔術回路から術式へとマナを流し込む。それだけやって初めて、木を切断するほどの風魔術を使えるようになる。
なのに、ただ手を向けただけで、この少年はあれほどの津波を撃ち止めた。
「はぁはぁ…………、やべぇな、めっちゃエロい…………」
「………………はい?」
少年が漏らした声に、シンシアは耳を疑った。
えろい…………エロい?
こんな状況で、この少年はエロいと言った?
「…………っっ!?」
遅れて、シンシアは自分の格好に気づく。
水しぶきに当てられて透けた下着、濡れてピッタリと頬についたショートカットの髪、そして上気した頬と体。
女性への変化を遂げつつあるその胸の膨らみは、少年から見ればちょうど谷間が見える角度ではないのか……?
「え、ええぇっ……!?」
こちらを向いた少年が、手を差し伸べてくる。その目は確かにケダモノのそれで、ハァハァと荒い息を吐くその様はまさに欲情したエロ猿だった。
「え、い、嫌っ!」
身の危険を感じ、シンシアはその手から逃げるように後ずさった。
命の恩人であることもわかっている。そんなことを言っていられる状況でないのもわかっている。
だが、この少年からは何かそれ以上に『異様な』恐怖の欲情を感じた。
ともすれば、海の怪物のクラーケンよりも異様な何かを――
「――ぁ」
漏れた声は、シンシアの思考を現実へと引き戻した。
少年の背後に迫る、クラーケンの触腕。
怒り狂った海の主が、乱入してきた愚かな人間へ断罪の一突きを下す。
「…………が、は…………ッッ!」
一瞬、シンシアの視界が真っ赤に染まった。それが、少年の胴が貫かれたことによる出血だと気づくのに、しばしの時間を要した。
「ぁ……あっ…………」
力を失った少年の体が、シンシアの方へ倒れてくる。彼女はそれを、意味の為さない声とともに受け止めることしかできなかった。
何で、何が、何を。
自分の目の前で人が死んだ。触腕を引き抜かれ、ぽっかりと空いた少年の腹部からはとめどなく血が溢れ出てくる。
赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、あか、あか、あか、あか、あかあかあかあかあかあかあかあかあかアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカ。
シンシアの頬に、肩に、手に、零れた生命がべっとりとつく。
「ぁ、……あああぁぁぁ…………」
シンシアの口から呻きが漏れる。先刻よりも一層ひどい震えが指先まで走る。
死んだ、死んだ、死んだ。
自分の、目の前で、人が、死んだ。
慟哭が漏れる。全身が震える。感情の意味さえ理解できぬまま、涙が零れていく。
せめて何かできることはないかと、シンシアが少年の体を抱いた、
その、
直後。
「ふ ひ ひ ひ ひ っ っ」
煩悩に侵され切った少年の声が、シンシアの耳に届いた。
***
「…………ぇ?」
聞こえた声に、シンシアは反応できなかった。
息が漏れた? それがまるで声のように聞こえた?
巡る疑念を打ち破るように、次の笑いが少年の口から漏れる。
「ふひっ、ふひひひひひ、ふひひひひひひひひっっっ」
「い、嫌ァ!」
先ほどの後悔も冷めぬ間に、シンシアは少年の体を突き飛ばした。ぎょろりと動く少年の瞳、不気味に吊り上がった口角、よろりと立ち上がるその姿は、伝承に聞く不死の魔物のようだ。
少年がゆっくりとこちらへ振り向く。たったそれだけの所作に、シンシアは全身の血が凍るのを感じた。
何なのだ。一体何だというのだ。
この少年は、一体全体私をどうしようと――
「――すまねぇな、汚しちまった」
スッと、シンシアの頬から血を拭って、少年はそう言った。
さっきの欲情し切った顔や声音とは打って変わって落ち着いた様子に、シンシアは戸惑いを隠せない。
「……ぇ、あの、えっと」
「ここは危ねぇから、離れときな」
静かに言うと、少年は再びクラーケンに向き合う。
「…………っっ!?!?」
その背を見て、シンシアはありえないことに気が付いた。
体が修復している。
ついさっき、クラーケンの触腕に胴を貫かれたばかりなのに、まるで何もなかったかのように。
「…………蒼い、炎…………?」
少年の体からは、まるで陽炎のように蒼い炎が漏れている。
その炎が、少年の体を再生しているのだと、シンシアは直感的に体感した。
「エドはねぇ、不死鳥に抱かれた子なのよ」
「ひゃあぁっ!?」
突然耳元から聞こえた声に、シンシアは飛びあがった。
バッとその方を見ると、いつの間にか掌サイズの妖精がシンシアの肩に乗っている。
「フェ、フェアリー!? どうしてこんなところに!?」
神秘の森にしか姿を現さないと言われている伝説の存在を前に、シンシアは驚嘆の声を上げる。
「私はあの子と旅をしてるからねぇ」
「旅? でも、フェアリーは」
「私のことはいいわ。それより、今はあのタコさんの方が大変なんじゃないの?」
フェアリーの言葉に、シンシアはハッと意識を現実へと戻す。
見れば、少年はクラーケンの触腕に時折薙ぎ払われながらも、何とかその攻撃を凌いでいた。そのおかげで、触腕の圧は島にまで届いていない。
「む、無茶です! あんな巨大な魔物を前に、たった一人で立ち向かうなんて……!?」
シンシアが言った直後、クラーケンの触腕に少年の右腕が吹き飛ぶ。勢いよく噴射する鮮血に、シンシアは思わず目を固くつむった。
「大丈夫よ、あの子は『特異』だから」
「……ぇ?」
穏やかな声音に導かれるように、シンシアは目を開ける。
――再生する。
再生する再生する再生する再生する再生する再生する。
蒼い炎に包まれた少年の右腕は、光を発しながら再生する。
「性欲の制約による無限再生。あの子だけに許された、最優にして最高の超級魔術。あの子の性欲が尽きぬ限り、彼の体は繰り返し繰り返し再生する」
「性、欲………………?」
「それに……ほら。捉え始めてきた」
フェアリーの言葉の通り、少年はクラーケンの動きを把握し始めていた。何かしら身体強化魔術を使っているのだろう。振り下ろされたクラーケンの触腕を、彼は右腕一本で受け止める。
「す、ごい……っっ!」
およそ人間業とは思えないその光景に、シンシアは歓喜めいた声を上げる。
「でも、どうしてあんな力が……」
「性欲よ」
「…………性欲?」
ちらちらと出ていた奇怪なワードに、シンシアの思考が止まる。
もはや慣れた説明なのか、フェアリーは教え諭すように喋り始めた。
「魔術の源は人間のマナ、つまりは生命力ね。マナの強さが何に依存するかは人それぞれだけれど、あの子――エドの場合はそれが性欲だった」
「生命力……性欲……」
「あの子の性欲は天井知らず。だから、エドの使う魔術は常人のそれを遥かに凌駕する」
「で、でもっ! それだけじゃあんな理外の魔術は説明がつかな」
「ヴォ、ヴォオオオオオオオオオオオッッッ!」
シンシアの声を遮るように、クラーケンの咆哮が響き渡った。
うねる触腕が全て少年目がけて襲い掛かる。
「あ、ああぁっ……!」
さしもの彼も対応しきれなかったのか、苦し気な声を漏らしながら触腕に締め上げられる。
「あ、あれはさすがにまずいんじゃ……!」
「いや、大丈夫よ」
「そ、そんな悠長な!」
「だって、あの子――」
言葉を切って、フェアリーは呆れたようにため息をつく。
絞り潰されるようにして触腕に囚われている少年の口が開くのを、シンシアはその目で見る。
その口から漏れるのは、苦悶の呻きかと身構えた直後。
「クラーケンの触手の圧がしゅごいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
「――あの子、魔物に欲情するド変態だから」
耳にしたのは、とても信じられない事実だった。
***
「まものによくじょーする、どへんたい……?」
「そう、魔物に欲情する、ド変態」
「まものによくじょーする、どへんたい……?」
「魔物に欲情する、ド変態」
「まものによくじょーする……?」
「ド変態」
「えぇ…………」
あまりにもあんまりなカミングアウトに、シンシアは知らず呆然とした。
「人の枠に収まらぬ特異な性癖を持つあの子は、それを基にした魔術も理外のものとなる。筋の通った理論でしょ?」
「えぇ…………」
絶句するシンシアをよそに、少年はクラーケンの触腕から逃れ、まるで滑り台のようにその触腕の上を滑り倒す。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、ヌルヌルすりゅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「ヴォオオオオオオオオオオオッッッ!」
クラーケンは怒ったように触腕を振り回すが、それを遊び場とでも感じているのか、少年は触腕を滑り続ける。
「ローションだ! これはもはやローションだ!」
高揚のあまり意味のわからないことを口走る少年を見て、フェアリーは話しかけてくる。
「知ってる? ローションは海藻から作られているの。そしてクラーケンは普段深海の海藻の中にいる。ならもう、海の主クラーケンは生けるローションと表現しても過言ではないわね」
「何を言っているんですか…………?」
「加えて言うなら、クラーケンは吸盤を使って吸い付き、触腕を使って搾り上げてくる。これはもはや、全自動バキューム式オ」
「本当に何を言っているんですか……?」
どうしてか良からぬ予感のしたシンシアは、フェアリーの言葉にかぶせるようにそう言った。
「でも、彼がド級の変態だということはわかったんですが、どうしてそれが再生につながるんですか? あれはとても、人の身で再現できるような魔術じゃ……」
「さっきもちらっと言ったけれど、あの子は不死鳥に抱かれたの」
「不死鳥に……?」
「厳密に言うと、不死鳥を抱きに行ったと表現した方が正しいかしら」
「心底どっちでもいいんですが」
「不死鳥が死んで復活するときの炎に包まれながら不死鳥を抱きたい! って言って、十日間の遠征から帰ってきたら、あの能力を得ていたわ。不死鳥の再生を体感することで、魔術回路の一端に再生の術式が埋め込まれたのかもね」
「えぇ…………」
ドン引きのあまり、シンシアは言葉を失う。
実際、人間の扱う魔術には、使用者の心象が大きな影響を及ぼすことがあると言われている。かつて神の子と呼ばれたイエス・ムッツリストは、自身が磔にされ炎に焼かれることで、復活後に奇跡の猛火を扱えるようになったと伝承がある。
であれば、不死鳥の炎をその身で体感すれば、再生の魔術を扱えるようになるというのもまるでありえない話ではない。
(でも、そんなの……っ!)
常人に扱える魔術じゃない。
高度な魔術であればあるほど、マナは枯渇しやすくなる。あの魔術を維持できるほどのマナ、そしてそのマナの源となるあの少年の性欲とは一体どれほどのものなのか。
「気持ち悪…………」
「正直ね」
思わず漏らしたシンシアに、フェアリーは苦笑する。
そうこうしているうちに、少年とクラーケンのバトルは佳境を迎えていた。
「ヴォオオオオオオオオオオオおおおおオオオオオオオオオオオオオオオッ」
「あひゃっ、あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっっ!!!!!」
咆哮を発しながら、クラーケンは少年へと触腕を叩きつける。しかしもはや、それが少年の体を叩くことはない。
風を切る。空を裂く。
今やあの少年の動きは、視界で捉えるのも難しいほど異常な速さを誇っていた。
「加速する性欲の脈動。あの子の欲情が昂れば昂るほど、体内の回路を巡るマナの速度は上がっていく」
「奇声が気持ち悪い……」
「でも、あの加速魔術は諸刃の剣。本来人間に耐えられないほどの運動をその身体に課すわけだから、当然内部からの崩壊が始まる」
見れば、少年はクラーケンからの攻撃を受けていないにも関わらず、全身をあの蒼い炎に包まれていた。
「モンスターに萌えながら燃え死にたい。どれだけ諭しても、あの子はあの戦い方をやめないわ」
「変態は死んでも治らない、というか死ね、ってやつですね。気持ち悪い」
「厳しいわね」
汚物を見るような目で少年を見るシンシアに、フェアリーは再び苦笑する。
だが、戦況はそう楽観できるような局面ではなかった。
「あの、あれ……」
汚物を見る目で少年を睥睨していたシンシアが、不意に何かに気づいた声を出した。
「やばい、やばいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、クラーケンしゅごいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ」
縦横無尽にクラーケンの触腕を滑り回っていた少年の姿に、シンシアは変化を認める。
炎の色が、白く変色してきている。
陽炎のようにたゆたう炎は少年の体を覆い尽くし、さらには天へと向けて立ち上る。
「そろそろ限界ね……」
危惧したようにそう呟いたフェアリーに、シンシアは不安げな目を向ける。
「げ、限界って」
「人間の魔術回路には許容量があるわ。流れているマナがそれを越えたとき、マナは暴発する」
「暴発……っ!?」
ただでさえ人智を越えた魔術を扱う少年のマナが溢れてしまえば、その暴発はどんな事態を引き起こす?
「そ、それってまずいんじゃ……ッ!」
「まあ安心しなさい。私はあの子の暴発は何度も見てきたんだから」
フェアリーはそう言って、指を一度鳴らす。
「巡れ巡れよ輪廻の円転」
刹那、クラーケンと少年を囲うように六面体の結界が現れる。薄く張られてはいるものの、触れることさえ憚られるような圧を放つ紅のマナ。魔術の根源となる『魔法』を編み出したと言われるフェアリーたるゆえんの一つを目の当たりにして、シンシアは驚きを露わにする。
「す、すごい……っ!」
「まあこれくらいはお手の物よ」
「というか、これだけの魔術が扱えるならフェアリーさんがクラーケンを制圧すればよかっ」
「やばいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおマナが出りゅううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううっっっっ」
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ????」
少年とクラーケンの断末魔を聞いた直後、視界が白く染め上がる。
「性欲の限界!!!!!!!!」
そして。
島が、白光に満たされた。
***
「世界の始まりは海にあったという人がいる。大陸も生物も起源は水にあり、今ある世界はそこから作られたのだと。であれば、海の魔物として人々に恐れられているクラーケンも、自然という大きな枠組みから見れば、生態系の原初を守らんとする海の神と考えることもできるのではないだろうか」
「ヴぉ! ヴぉヴぉヴぉ!」
「………………」
「………………」
「かのソノベルト・アアンシュゴインは言った。『この世界からミツバチがいなくなれば、四年後に人類は滅びるだろう』と。彼が我々後世の人間に伝えようとしたのは、一つの生態系の狂いはいずれ大きな破滅をヒトへももたらすだろうということだ。人間は自然の覇者ではなく、自然の中で生きている生物の一種なのだという意識が今の我々には欠けている。それはいずれ人類の滅亡に繋がるだろう」
「ヴぉっ! ヴぉヴぉっ!」
「………………」
「………………」
「貴方方の行っていた養殖魔術を分析した結果、あれは海の生物の繁殖にとてつもなく悪い影響を与えていることがわかったよ。クラーケンが姿を現したのも、その警告だ。天災ではなく人災。いや、自然の悲鳴と言ってもいいかもしれない」
「ヴぉヴぉ! ヴぉヴぉヴぉ!」
「………………」
「………………」
「わかるか? 貴方方がやっていたのは自然の改造、ひいては破壊だ。それらがどれだけ愚かな行為か、身を以て考えた方がいい」
「ヴぉヴぉヴぉヴぉヴぉヴぉヴぉ!」
「………………」
「………………」
晴天の下、島民は高台に立った少年の説教を正座で聞いていた。
「何この絵面」
「ごめんね、あの子の癖なのよ」
右肩に小さなタコを乗っけた少年は、変わらない様子で説教を続ける。
あれから少年のマナは暴発し、結界内に閉じ込められた少年とクラーケンは一度死んだ。
だが、少年の炎は再生の象徴である不死鳥の蒼炎。
ゆえに。
「復活した……んですか」
不死鳥が死を迎えるとき、また新たな生命として生まれ直すように、少年の炎を受けたクラーケンは一度死んで生まれ直した。そして今、新生クラーケンは小さなタコとして少年の肩に乗っている。
「あの子の魔術は死よりも強く生を植え付ける。穢れを体内に溜め込んだ魔物とてそれは同じこと」
穢れ――マナの不自然な淀みによって、生物は魔物化する。魔に侵された生物は異形の姿となり、周囲を蹂躙する魔物となる。
「私とあの子は穢れを殺し、魔物を救うために旅をしているの。……あの子の場合は、単なるゲテモノ趣味だろうけど」
「モンスターの中でも魔物が好きとかどれだけ歪んだ性癖なんですか……」
ゲッソリした顔で、シンシアは演説を行っている少年を見る。
先刻まであれだけ奇声を上げて欲情しまくっていたのに、少年は今至極マジメに生態系について語っている。森が川にもたらす栄養が海を肥沃にするとかいう話を、島の漁師たちは熱心に聞いていた。
「ギャップというよりもはや詐欺ですね、アレ」
「男なんてそんなものよ」
微笑みとともにそう言うと、フェアリーはふわりと少女の前に浮遊する。
「どう、私たちと一緒に旅をしない?」
「…………え?」
突然投げかけられた問いに、シンシアは間の抜けた声を出す。
「さっきも言ったけど、私たちは魔物たちを魔から救うために旅をしてるわ。モンスターと話のできるあなたがいれば、私たちもずいぶんと助かる」
「いや、でも」
シンシアはしばし迷う。
「それもいいじゃろう、シンシア」
「長老……!」
フェアリーとシンシアの話を聞いていたのか、老人がシンシアに声をかける。
「お主は前から言っておったではないか。『島せっま。遊ぶにも遊べへんわ何とかせぇやこのどちゃくそ腐れハゲが』と」
「一言も言ってないんですけど⁉」
「儂はそれを聞いて前々から心を痛めておった。若い娘をずっとこの島に閉じ込めておいていいのか。広い世界を旅し、見聞や了見を広げた方がこの子のためになるのではないかと」
「だから何も言ってないんですけど⁉」
「じゃが、これも神の思し召しじゃろう。世界を知るのにちょうどいい機会じゃ。素晴らしい賢者殿とフェアリー様もおいでじゃしな」
「いや私何も」
「……………………」
「言ってな――あれ、急にプルプル震え始めてどうされたんですか長老」
「…………誰がどちゃくそ腐れハゲじゃ!」
「いやだから私言ってないんですけどぉ⁉」
理不尽だった。
だが実際、外の世界を見たいという気持ちはシンシアの中にもあった。そしてそのチャンスは、今目の前に転がっている。
「なんだ、こいつもついてくるのか?」
議論が終わったのか、少年がいつの間にかシンシアたちの側に寄ってきていた。
そんな彼を見て、シンシアは反射的に少年から跳び退る。
「ひぃっ、ド変態!」
「ん? 変態? 俺は分別あるからロリには手を出さないぞ? ねークラちゃん」
「ヴぉ! ヴぉヴぉっ!」
「ロリ……その小さいタコさんのことをロリと呼ぶんですか…………?」
「クラちゃんはこれから海に帰るからな。しばしの別れだ。また会おうねー、クラちゃん」
「ヴぉっ! ヴぉヴぉヴぉ!」
先刻戦った間柄というのに、知らぬ間に少年とクラーケン、もといクラちゃんは仲良くなっていた。
意味がわからなかった。
シンシアは考えるのをやめた。
「歓迎するぜ。旅の道連れは多い方がいいしな」
「は、はあ」
すっきりした笑顔で言う少年には、先刻のような異様な気持ち悪さはない。
むしろ、まともな印象さえ受けた。
「……やっぱり詐欺ですよね、これ」
「エドは賢者モードのときだとこんなもんよ」
苦笑しながら、フェアリーは答える。
だが、その言葉に引っ掛かりを覚えたのか、少年は立てた人差し指を左右に振った。
「いつも言ってるけど、それは少し違うぞ、フェアリス、嬢さん」
「はい……?」
「男はエクスタシーの臨界点を突破することで宇宙の真理に近づく。それは傍から見れば、彼が一時的に賢者になっているように映る」
「はぁ」
「だがそれは逆だ。人は情欲を発散し切ったときだけ神に近い思考を得るのであって、煩悩に溢れた普段は愚者でしかない」
「はぁ……」
「情欲から解き放たれることで人は神の子となる。愚者が賢者となる。これは俗に言われている『性の行い』が、実は『聖の行い』を暗示しているという論拠になりはしないだろうか」
「はぁ…………」
めんどくさ。
喉元まで出かかった言葉を、シンシアはどうにか飲み込んだ。
「まあ、エドがこんな理屈っぽいのは賢者モードのときだけだから。普段はもっと普通よ」
フォローするように、フェアリー、もといフェアリスはそう言った。
「エドはこう見えて色々な教会や商人組合ともコネクションがあるわ。だから旅路は寝床にも食事にも困らない。……どう、悪い条件じゃないでしょう?」
「いや、でも……」
「お肉もジュースもスイーツも、私たちについてくれば好きなだけ飲み食いできるわよ?」
「……!!!!」
乗り気でなかったシンシアの目が、その言葉で輝きを得る。
近隣の国と貿易を行っているとは言え、この島では肉や嗜好品はとても貴重なものだ。周りには言わないものの、それらが大大大好きなシンシアにとって、フェアリスの提言はあまりにも魅力的過ぎた。
「で、でも、男の人と旅するのなんて怖いですしぃ?」
「エドはモンスターにしか欲情しないから大丈夫よ」
「た、旅先でどんな危険が待ってるかわからないですしぃ?」
「エドはとても強いから大丈夫よ」
「さ、災害とかで命を落とすかもしれないですしぃ?」
「エドは2キロを5秒で走るから逃げ切れるわよ」
「ス、スイーツもお肉も各地で食べられるかなんてわからないしぃ?」
「食べ放題よ」
「行きます」
出来レースだった。
旅の不安などなかった。
「よおーし、じゃあ決まりだな」
少年はそう言って、さわやかに笑う。
「俺はエターナル・ドーティ。フェアリスからはエドって呼ばれてる。よろしくな」
「私はフウ・シンシアです。気持ち悪いので、旅の道中は私から五歩離れて歩いてください。よろしくお願いします」
エドから距離を取りつつ、シンシアはぺこりと頭を下げた。
それを気にした様子もなく、エドは懐から地図を取り出す。
「俺たちの次の目的地はコロヤナシティだ。ちょうどこの島から見て向こうの方角だな」
地平線の向こうを指して、エドは言う。
「でしたら、儂らが船を」
「いんや、大丈夫だ長老さん」
長老の申し出を断って、エドは屈伸を始める。
「シンシア、俺の背中に掴まれ」
「え、嫌ですけど」
「いいからいくぞ、ほら!」
「え、ちょっと、何でお姫様抱っこなんか」
「じゃあ達者でな、クラちゃん! 島のみんな!」
「え、嘘、まさか来たときみたいに海を走るつもりじゃ」
「フェアリス、先走っとくからちゃんとついて来いよ」
「ちょ、うそ、待って、怖……いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!!」
尾を引くようなシンシアの悲鳴を残して、彼女を抱っこした少年は海の彼方へと消えていく。
「はぁ、もうしょうがないわね」
フェアリスは呆れたように笑う。
その隣で、どこか名残惜しそうに少年たちの姿を見ていて長老は、やがてフェアリスに頭を下げた。
「ウチのシンシアを、どうかお願いします」
「ええ、立派なレディになって帰ってくるから待っていてあげて」
そう言うと、フェアリスは少年が走っていった方へ向き直る。
「ふふっ、どうやら賑やかな旅路になりそうね」
フェアリスの柔らかい微笑みに、クラーケンのクラちゃんが「ヴぉ!」と答える。
それは、後に世界各地で語り草となる、少年少女の旅の幕開けだった。
劇場版FateHFハンパないって。