五十六話 呪い
――圧。
振るわれた刃から伝わってくる腕の硬直。
この感覚の正体は、一如の刃が目標へと到達する直前に差し込まれた刀の鞘であった。
――さすがだ。まさか、俺の剣を完璧に受け止められるとは。
一如は嬉しさを多分に含んだ思考をしながら、剣を離し、感覚を研ぎ澄まして相手の位置と間合いを把握し直す。
把握して、一如は己の剣を止めた相手へと目線を戻す。
目の前には黒い着物姿の女が映り込む。
名はエスタシア。長年探し続けた自らの姉だ。一如は内心で呟くようにして確認する。
本来ならば、この手合わせは一撃で済まそうと考えていた。
だが、今の防御を見て一如の気は完全に変わってしまった。
ただ、今この時にある興味の感情に流されるようにして、一如は構えを八双へと変化させる。それはさながら、風に揺らめく火の如き妖しさに満ち溢れた滑らかさだった。
一方、エスタシアはここまでの流れを茫洋とした目で見ていた。
彼女の目は視線ではなく視界を……一如の動きを追うのではなく、捉えている。
一如はそれを経験と才覚から得た第三の目で見届けながら、己が得意とする足の踏み変えからの切り上げを放った。
呼吸も同然の行為。この技が決まればエスタシアは右腕を付け根から斬られて終わる。
一如のこの技は、先程に死合った男を破ったものと同一の技。
精妙に過ぎる弧を描いて、上段へと移行しつつあった一如の剣が忽然と消えて、翻る。
如何に優れた目があろうとも、見えなくなってしまえばそれまでのこと。技の仕組みを知らぬ相手には何が起きたのかさえ分からない早業である。
だが、初見であるはずのエスタシアに動揺の色は見られない。
これに一如は微かに動揺する。
――まさか、完全に見切っているのか。
細切れにされた時間のなかで、エスタシアが取った行動は、体の軸を僅かにずらすこと。
そう、一如の動きを見てから剣の軌道より一寸離れた場所へと体を移したのだ。
そして、回避と同時に反撃をする準備も既に整えている。
本当に見切っている。一如は柄を握る五指へと力を送る。
既に、一如の放った一撃の行き着く先には何もない。
だが、と、一如は強く思う。
――一度見切っただけでは避けられるような技を好むほど、俺は単純な剣士じゃない。
エスタシアは反撃の一手の為に重心を落とそうとする刹那、優れた直感からなのか一如の思念を感じ取ったらしく、その顔に微かな色を浮かべる。
その色がはっきりとした驚きへと変わる瞬間を思って、一如は喉を震わせた。
「シアァッッ」
一如はここで、足を再度踏み変える。
この時点での剣の位置はエスタシアの腰よりも上。一如の体は既に最速の一撃を繰り出す為の形として完成している。
神速で振るわれる剣は一切失速しない状態。
そこで行われる、再度の足の踏み変え。
通常ありえない体の変化を可能とする一如の卓越した身体技法によってそれは起こる。
その現象、変化が剣の軌道に現れた時、エスタシアの顔がついに驚きの色に染まった。
「っ!」
エスタシアが最後となるかもしれない息を呑む刹那で、一如は勝利を半ば確信していた。
――鋭く曲がれ。
そう念じる一如の意のままに、剣の軌道が直角に曲がる。
『転剣』。
この剣を最初に受けた男からそう名付けられた、一如のみが可能とする必殺剣。
一如の奥義が、エスタシアへと白刃を突き立てようとする。
直角に変化した剣の軌道上には、無防備であるエスタシアの胴体がある。
そして、それは瞬く間の内に一如の剣によって両断される運びとなった。
さて、どうする? と、意地の悪い思念に染まった言葉を一如は内心で呟く。
一如は相手がどういった対処をするのかということを、内心では既に待ち構えていた。
その余裕が功を奏したのか、一如は己の認識の外にあったものにふと気付いた。
エスタシアの右手が腰の位置にあり、鞘に納められた刀を持っていることに。
その柄頭が抜刀するには不自然な方向に――一如の眉間へと向けられていることに。
そして、――自らの刀が、いつの間にか脇に挟み込まれて固定されていることに!
その事実――攻撃を防がれていること――を一如は目撃し、戦慄する。
「――っ」一如の呼吸が、乱される。
瞬間、エスタシアの刀が一如の眉間めがけて必殺の威力と共に射出される。
「ぐおっ!」
一如は咄嗟に刀を手放して、その場から咄嗟に退くことで撃ち出された柄を間一髪のところで避ける。
だがしかし、一如の直感は攻撃を回避したにもかかわらず、より強い警鐘を鳴らす。
気が付けば、エスタシアは一如が手放した刀の柄へと手を伸ばしている。
一如が次の行動を起こさなければ、このまま斬られるという一つの筋書き。
数瞬前までの優勢は、一転して劣勢へと変わる。
得物を失ったのとそうでない剣士とでは、勝負の結果は火を見るより明らかである。
脳裏にその理が過った瞬間、一如は己の視界が、端から白く染まっていくのを感じ取っていた。同時に、感覚が普段の状態という殻を破り、押し広がっていくのも。
目の前のエスタシア以外は時間が止まったかのような世界で、一如の手が無意識の内に伸びる。
撃ち出され、後には宙を飛んでいくだけの刀の柄へと。
このままではやられる。一如は到底納得できない事実に抗おうと宙にある刀を手にする。
『!』
それは運命の悪戯なのか、両者同時に柄に手を掛けるという事態となる。
一如はこの柄を軸として体勢を立て直し、それを見たエスタシアは澄み切った蒼い瞳を見開いた。
お互いに握った刀を構える間を惜しむかのようにして、二人は剣光を閃かせる。
只人の目には決して映ることのない超高速での剣戟が繰り広げられる。
紙一重で互いの剣を躱し続け、体の位置を目まぐるしく変えていく内、一如の首が徐々に目で追い切れなくなったエスタシアの動きを追おうとして振り回され始める。
その事に一如が気付いた直後に訪れる一時の静寂は、巧妙な体移動によって打つ手を制限されたことで威力を削がれ、結果的に甘くなった一撃がエスタシアの目論見通りに受け殺されたことによって訪れた。
一如はエスタシアからの返しの一刀に首の皮を切られ、死という抗えぬ力につけこまれたことによって否応なく脱力させられ、地にガクリと膝を着くことになる。
一如はその表情に微かな怒りに染めて、上方を睨んでいる。
睨まれているのは、エスタシアの手にした一如の刀。次の瞬間には振り下ろされる凶刃。
刹那を重ねるごとに、一如の怒りは膨れ上がる。
――何故、臆する? 何故、片腕しか使えない相手に、俺の剣が押し返される。
振り下ろされた一刀を受けて、膂力に劣ることで徐々に押し込まれるというこの現実は、男である一如をより苦しめる。
だが、肝心なことを一如は失念していた。エスタシアが片腕のみで勝る理由は、片腕のみで戦わなくてはならないという厳しい条件下のもとで練られた剣捌きと体移動の賜物なのだという、ごく単純な事実でしかないのだということを。
そして、気付けないがために知らず意地になった一如はエスタシアの剣を受け流すということを忘れ、ただ力で勝ろうとする。
一如の両腕の筋肉は限界まで膨れ上がり、そのあらん限りの力を発揮している。
それなのに、エスタシアの腕は全く震えない。ただ静かに、下へ下へと刀を降ろしていく。
「ぬぅぅぅ」
一如は呻き、内心においては何故だと絶叫しながら、両腕から力の抜けることがないようにと注意しつつ全身に気を張り巡らせ、腰を上げようとする。
だが、何もできぬままに徐々に押し込まれる。
一如は自信と共に培ってきた己の世界たる肉体で、強者という現実を作り上げてきた。
しかしそれは、今この時において己の敗北という現実に潰されかけている。
――くそ、上を取られてさえいなければ……まだ、やりようはあるんだが。
そう思った直後、ついに一如の額に刃が食い込み、勢いよく血が流れ始めた。
――本気を出すとなると、相手を殺す覚悟が必要になる。……ようやく会えた姉を殺すのか。
顔を熱い血が伝っていくのを一如が感じ取った時、相手の力が不意に弱まった。
絶好の好機であると一如の剣士としての感覚が獣のように叫びだしたが、体は意識に反して攻める気力を失っていた。
見れば、エスタシアは呆然とした面持ちで、よろよろと後ろに退がっていくと、頭を抱えてその場に蹲ってしまった。
「な、まさか」
一如は受けた傷の痛みすら忘れて、続く言葉を完全に失くしていた。
先程まで一如の目の前に存在していた、鬼神の如き強者はもうどこにも居なかった。
今この場に居るのは、見紛うことのないただの弱者でしかなかった。
「――うぅ」
エスタシアは殺人者が亡霊に襲われる類の幻覚でも見ているのか、恐怖に震えながら呻く。ただ恐ろしいのは、その声が獣の気を帯びるにつれて一如の刀の柄が嫌な音が立ててひび割れていくという異様な光景だった。
そして、割れ目が全体に行き渡り、砕け散った柄を失った刀身が地面に虚しく落ちる。
まるで、首を落とされた死体を見るような心境になりつつ、一如は大きく脱力した。
「脅かしてすまなかった。まさか、心を病んでいたとは……」
一如が非常に情け深い声をかけると、エスタシアは体の震えを止めて顔を上げる。
表情には何の色もない。これで肌の色が違っていれば、死人と言っても差し支えのない顔のまま、エスタシアは立ち上がる。
――これが己を偽ってまで力を求め、捻じれ曲がった剣士のなれの果てか。
口にこそ出さないが、一如はこうはなりたくないものだとエスタシアを内心で虚仮にした。
そして、そんな一如の内心を知ったエスタシアは誤魔化すようにして笑う。
「わたしって、三代目からもよくそんな顔をされるんだ」
顔にはっきり出ていると指摘されて、手遅れと思いながらも一如は顔を引き締める。
「敵を討つ瞬間に限って脅えるなんていうのは、おかしなことだ。そんな真似をすれば、殺されるのは自分だ。姉さんの手はそれこそ巨大な岩であっても軽く持ち上げられるはずだろうに。……その手はそこまで、命を重く感じている。それは、どうしてなんだ?」
「さあ、分からない。ただ、さっきみたいに一歩手前のところに来ると、色々なものが見えて怖くなるの。それが見えると、まるで自分に刃を向けているみたいな怖さを感じて、手が止まってしまう。それが血を分けた人間なら、当然でしょう?」
「……戦っている間は、平気なのか? 今にして思うと、正気を失っていたようにも見えるんだが、姉さんは戦う時はいつもああいう感じなのか?」
「ああいう感じって、どういう感じ?」
「人が変わったような感じだ。それにしたって、あの状況で剣を引くのは感心しない。くどいかもしれないが、あんな真似をすれば殺されるのは自分なんだぞ?」
「あなたは、私を殺そうとはしていなかった。それをわたしは、」
血を吐くようにして言うエスタシアの言葉に一如は素っ気ない反応をする。
「そういう問題じゃないな。戦いというものはだな、体が無意識に動いて相手を殺すことだってよくあるんだ。ましてや、俺や姉さんみたいな殺人刀の使い手は特にだ」
戦場でそうした殺しを幾度となく見てきた一如が語気を荒くして言うが、エスタシアはそれを否定するように緩やかに頭を振った。
「わたしは殺人刀の使い手なんかじゃない。型捨無流は、そんな流派じゃない」
落ち着いたように見えて依然として不安定な精神状態にあったエスタシアの様子は目に見える狂気を放ち始めたことで、一如は精神を見えざる万力で締め上げられるのを感じた。
エスタシアの奥底から目を覚ました闇の気配に、一如は覚えがあった。
「これは、まさか呪いか」
――それも相当な年月を経た、異常なまでの大きさのものだ。
「呪い?」
エスタシアは驚いたような表情をして見せたが、言われた瞬間には納得していたのか、すぐに無表情となって柄を失った一如の刀を拾い上げて立ち上がる。
それから一如の傍へと近づいて来るが、その途中に何度とも呪いという言葉を呟く。
今のようにどこか虚ろな目をして呟かれるのは御免こうむりたい言葉だった。
手渡された刀身を鞘に納めたことで平時に戻った一如はようやく会えた姉に対して、これまたようやく親愛の情が湧いてきたことに笑う。
エスタシアはそんな一如の笑うという行為そのものを危険の前触れか何かと学んだのか、表情を硬くしながら不安そうな顔をする。
「姉さん、本当はお祝いでもしたいんだが、まずは呪いを何とかしよう」
「呪いなんかよりも、傷の手当てをしなくちゃだめだよ」
一如の精一杯の優しさを込めた言葉は、その言葉を向けた姉にあっさりと流された。
これまで気にならなかった傷の痛みが、心痛と相まって急に痛く感じられる。
――いいさ、どうせ俺の勝手なんだから。
好意を押し売りする。それが一如の悪癖であり、精神的な脆さでもあった。
それを知らないエスタシアは、やはり受けた傷が痛かったのだろうと心配する。
一如はそれが嬉しいような哀しいような、複雑で苦い気持ちを笑うことで表現した。
笑いながら、一如は目の前の姉が背負う厄介な呪いをどうするかを考えるのであった。