五十三話 邂逅
ヤナギを連れ立って森へと向かう途中、私は以前にやって来たときとの違和感、風向きの異様な変化から何度も立ち止まっては指先を舐めて風向きを確かめていた。
それをヤナギが訝り理由を訊いてくるので答えてやればかなり呆れ、そもそも私のような者に頼むことではないと言い、更には稽古の続きをする為に戻ろうと言い出す始末。
当然そんな意見は拳骨ひとつで却下して先へと足を進めることにしたけど、このガキは自分の意見を曲げる気がさらさらないのか同じ事を繰り返す。
もうすぐにでも辟易しそうな心境の私はもう一度拳骨を落とそうとして――そこに邪魔が入ったことでただでさえ不機嫌だった私の心象は更に悪化する。
「何の積もりか知らぬが。その手を放せ」
拳骨に恐れをなしてか、自慢できそうな逃げ足を発揮するヤナギの様子を把握しながら、私の行為を着物の袖を掴むことで妨害した相手へと意識を向ける。
突然の邪魔、相手のしたこの邪魔への苛立ちから殺気を加えて手を放すように言った。
「いやだね」
それなのに、茶屋の縁側に腰掛けているソイツは平然として言う。
私の言葉を柳に風とばかりの態度で受け流すようにしながらも、私の殺気に対しては負けじとばかりに鋭い気を返して応じてきている。
その力強さに私が驚いていると、相手は腹の底に怒りを押し込めた声で言う。
「なぁ、恐い顔して子供を追い回すのは、女といえど見過ごせねぇよ」
「そう言うオマエも女だろう。それにまだ追い回してなどいない」
言葉を返せば相手の女は妙な事に、無視されずに済んだ事を笑ったらしい。
確かめてみれば、隙だらけな構えの中で唯一、私の袖を掴む手に在る力が油断してはならないという警告を発していた。
コイツも大会参加者だとするなら、下手に関わり合いたくはない。
今回はフィリップの造った刀を帯びているので、空手よりはマシだけど。
面倒ごとはできる限り避けたいところではある。
「あんたならガキ一人捕まえるのなんていつでもできるだろ? なら今すぐじゃなくてもいいよな。そこでものは相談なんだけど、ちょっとあたいに時間を割いて、ついでに金を貸しちゃくれないか? 今財布の中を見てみたら記憶してたのかよりかなり少なくなっててさ」
女は腰から吊るしている財布を空いている手で取ると振ってみせる。
哀れむべきなのか、全く音がしない。
それで私には十分に分かった。コイツ、全然お金持ってない。
「オマエ、最初から金をせびる腹積もりで拙者に目を付けたのか?」
若干の軽蔑を込めた視線を送ると、女は妙な余裕を滲ませて笑った。
「だったらさ、あんたよりもさっきのガキを捕まえて、あんた脅してるかもしんねぇよ?」
「・・・・・・」
それもそうかもしれないけど、何処か腑に落ちない。落ちないけど、コイツがお金が無くて勘定を済ませられずに困っているのは、どうにも本当らしい。
面倒臭い。それと胡散臭いと思わずにはいられない。
「金を貸せばその手を放すのか?」
「もうとっくに放してるよ」
「!」
瞬間、私はそこにあると感じ取っていた手に注意を向ける。
すると、途端に手の気配が霧のように散り散りとなって、私の顔の前に再び手の形をなして現れていた。
この事態に私は女から僅かに距離を取り、強い警戒心を孕んだ視線を突き刺すと共に、圧力を掛けた。
「ちょいと気を移して錯覚させただけだよ。でも不意を打とうとかそんな事は考えてねぇから安心して、さっさと睨むのやめてくんねぇかな。なんつうかさ、その、眼力みたいなのあたい苦手なんだよ」
事実、かなり苦手な素振りをしている女に対してこのまま圧力を掛け続けようかとしたが、私は『心眼』の力を弱めていく。
弱めるしかなかった。二代目に当てられた気のせいで、どうにも上手くいかない。
こんな状態なら、出し抜かれたとしても仕方が無い。全く、二代目は当たり気の強さがいかれている。
疲弊から目頭を押さえると女は何故か異様に動揺した素振りをする。
「あぁ」しかし、口を開けばそれも嘘のようだった。「疲れてんのか・・・・・・ならどうだい? 隣にでも座る?」
このまま無視して立ち去ってもいいものを、どうしてか私はこの女のことが気にかかる。
気にかかってしょうがない。
この女の息遣い。再び腰掛ける際の重心の繰り方といったものが、言うなればその人間一人一人に染み付いた・・・・・・その人間にしかない固有の質感が、私の知る誰かによく似ている。けど、この女はそれを呼吸によってブレさせて気付かせまいとしていると気付いてしまった。
はっきり言ってこの女は怪し過ぎると私の勘が告げている。
「遠慮しておこう。それよりもオマエ、何者だ?」
訊けば女は弱ったなと小さく呟く。
「やっぱそれ聞く? ならあたいが誰かに似てるって感じたってことだろ?」
「何故それを?」
こっちの内心を知られるのは好きじゃないんだけど。
「・・・・・・そうだなぁ、あたいが用意してた答えって、あんたにも言えることだろうから答えておくよ。えー、我は汝がいずれなるであろうところのものにして、かつては、汝が今かくあるところのものなりき。なんてね」
言葉の意味以前に、台詞を棒読みしてみせる女の態度が私には気に入らなかった。
「ふざけているのか? それとも喧嘩を売っているのか?」
「店の前で喧嘩なんてするかよ。あんたにそれが出来たとしても、あたいはそんなことをするような迷惑な勇気は持ち合わせちゃいないのさ」
気付いた時には女は私からスッた財布に手をつけて金を出していたかと思いきや、次の瞬間には私の後ろに立っている。
またしても出し抜かれている。
恐らく今の私はコイツが動いた跡を見せられているんだろうけど、その所々が欠落してる。
たとえば、コイツが私から財布スッた決定的瞬間が全く判らない時点で遊ばれていると言っても良い。
知らず奥歯がギリリと鳴る。物凄く気に喰わない。
コイツの気配はどうなってるの? 動きはまるで判らず、けど速さ自体は恐らく常人のそれだ。幻術の類ではないようだけど、一体どうやってるのかがまるで分からない。
女自身が言っていた「気を移す」という術・・・・・・どこかで感じた覚えがある。
そう。あれは二代目が独り稽古をする時に似ている。もっとも、二代目がやるほど嫌な感じがしないだけマシなのかもしれないけど、非常に厄介ね。
「あたいの技が気にかかるって顔してるね?」
気に入らない言葉をかけられた私は女に殺気を浴びせるが、やはり効果は無く、逆に笑われた。
「殺気とかさぁ、効かなきゃ意味のないものを無闇に使うのは下策じゃないの? まぁ、あんたの眼力があれば話は違ってくるけどさ、今は使えない。てことは万全じゃない。だからあんたは今あたいと仕合うことはしない。そうだろ?」
そこで一度息を継ぎ、後に放たれた言葉は私を怒らせた。
「負ける勝負はできないよな。だってあんた、すげえ臆病だもんな」
その一言が、どうしようもなく癪に障った。
「その言葉、挑戦と受け取っても良いのか?」
「いいけどさ、まだ予選だ。いや、もう予選だからってことでもあるのかな?」
コイツと意見を合わせる必要なんて無い。
私は刀を抜き、即座に女へと打ち込んだ。
「対策もなしに振ったって、あたいには掠りもしないさ」
三度、気配を錯覚する。それも、今度は当てるつもりでいたのに外した。
驚愕と焦り、そしてあってはならない恐怖が胸中を過ぎる。
それを瞬時に読み取ったらしい女はからかうように笑い声を上げる。
気に入らない。
二の太刀を打ち込もうとしたその時、腕を掴まれた。
即座に振り払おうとしても、私の腕はまるで言うことを聞かなかった。
「大人しそうな見た目して短気で危ない奴だな」女は手を離す。「ちょっとは落ち着きなよ。あんた、無理にあたいの気配を追って、肝心な気配から注意を逸らしただろ? 今でもその気配の場所が分かるのかよ?」
「・・・・・・っ」
言われて気付く。『心眼』がヤナギを見失っていることに。
「どうするよ? あの子ほっぽって置く訳にもいかないだろ?」
「・・・・・・そうだな」
この一言では到底済まされない様々な感情と言葉が胸中を巡ったものの、私はそれで全てを片付けることにした。
何時までもこの女に関わってはいられない。
それだけは、絶対に間違えようのないことだったから。
「やっぱり、あんた疲れてんだよ。仕方ない。こうなっちまったのはあたいのせいでもあるしさ、ガキを探すのを手伝うよ」
だというのに、この女はまだ私と関わるつもりでいるらしい。
「財布はくれてやろう。そしてさっさと立ち去るといい。拙者はオマエとこれ以上関わるつもりはない」
「そう言うなって。あたいとあんたの仲だろう?」
「戯れは程々にしておけ。でなければ早々に予選敗退となるぞ」
脅しつけるように言ってみるけど、予想通り、女はまるで応えた様子が無い。
「いやいや、戯れは大事だろ?」
女は言葉と共に仕草を道化じみたものに変えて私の反応を推し量っている。
笑わせでもするつもりかと思えば、女の指が私の眉間に触れそうになっていた。
それを軽く払いのける――今度は何故か上手くいった――と女は大げさに痛がってみせる。
「イッターイ!」全く痛そうに聞こえない声だった。「ひでぇな。あたいが誇る美しい指を叩くなんてあんまりじゃない!」
女は奇妙な調子で言いながら、先程から前に進もうとする私の前に立ちはだかる。
そのことに、内心で舌打ちをする回数が増えていく。
「そこをどけ」
「どいてもいいけど、刀、納めたら」
「問答無用」
私は捨て身となって、懐に潜り込んで切り上げる。
それがよほど意外だったのか、女は避けることを忘れて刀で受けた。
そうして、お互いに着かず離れずの鍔迫り合いとなる。
その最中に力を拮抗させる呼吸が重なったことに、私は不審感を抱いた。
とはいえ、口を動かすことはしない。
私と女は刃を絡み合わせたまま、円を描くようにして、足を一進一退させ、体を変化させ続ける。
まるで舞でも舞うかのように。
絡み合う刃が鳴る度に、ドンドンと音が聞こえる。
それは向こうも本気になったということなんだろう。
私が聞いている音というのは、相手が死神を呼び出そうと門を叩く音に他ならない。
相手がそうするように、私も相手の死の門を叩く。
互いに死神を呼び出そうと必死になっている音がする。
けど、死神が応じる気配は未だない。
それはそうよね。一対一の殺し合いにおける死神は己であり、相手なんだから。
死という門を叩き合いはしても開けはしない。
だって開けた方が負ける。
門を潜らされて、終わる。
殺されてしまう。
「・・・・・・!」
「・・・・・・!」
奇遇にも同時に死の気配を感じ取ったのか、状況は変化しなかった。
これに息を呑んだのは私の方なのか、女の方なのかは判らない。
鍔迫り合いは終わらない。
お互いに何度か隙を見せることはあったけど、そこで衝動的に動くことはなかった。
誘導だと判りきっているのだからそれも当然。
けど、このままだとまずい。
この状態は五行で言えば比和、同じ気のぶつかり合いとも考えられる。
剣においても五行思想というものを当て嵌めて考えることは可能である。
その場合、それぞれの気の性質と構えが関係してくる。
土火金木水。これが五行。
土は下段、火は上段、金は脇構え、木は八双、水は正眼。
剣士の性質もこの構えに表れることがあるし、実際に相性が良いことが多い。
今でこそ無構えではあるけど、私は脇構えを得意としていた金の性質を持った剣士。
開祖は八双を得意としたから木の性質が強く、二代目は上段が得意だから火の性質が強い。
だからといって、開祖が二代目よりも弱いという訳じゃない。
この構えに見られる五行で重要なのは、構えそれ自体の相性にある。
でもそれも参考程度。地力が違ってしまえば、この五行は容易く反剋する。
そして・・・・・・目の前で鍔迫り合いをしている女は水の性質の剣士。
得意とするのは正眼で間違いない。
鍔迫り合いという状況の中で、本当に水のように変化に富んだ運剣を行っている。
無構えという境地に立てば相性の問題など無いと思っていたけど、どうやら実力伯仲となってしまうと、この気の性質が影響するみたいね。
金気に対し水気。
理屈通りに事が運べば、私は負ける。
「――」
おまけに、相手には気を移す技がある。
集中し、感覚を研ぎ澄ませているからこそ欺かれてしまう可能性のある技が。
ここは退くべきところ。
けど、そうした気配をちらとでも見せたなら斬られる。
私は退くに退けない。
なら相手はどうだ?
常ならば最も重要な動静を、危険を覚悟で見極めようとする。
その時、相手から声が発せられた。
「なぁ、やめねぇか?」
このたった一言が、心の水面を波立たせる。
一か八かではあるけど、ここで『心眼』を使う。
オマエが気を移す技を持つように、私には心を写す技がある。
オマエに引き出されたこの心、利用させてもらう。
絡み合っていた剣が離れて、時を移さず、間合いを離すと同時に一閃する。
放たれた剣気は交差し、お互いの小手を打とうとして止まった。
決定的に違うのは、私の刃が女の肌を裂いているということ。
「やっぱし一拍の動きはそっちに分があるわけだ。で、騙まし討ちしようとしたあたいの大事な右手はこのまま宙を舞うのかな?」
私は刀を鞘に納めた。
「小太刀なんぞを使っておいてよく言ったものだ。本来ならば決め手となるオマエの一刀は始めから拙者には届かないようになっていた。そんなことに今更になって気が付くとは・・・・・・オマエの言う通り、疲れているようだな。しかし、どういうつもりだ? 直前で気付いたとはいえ、拙者が剣を止めることをする可能性など無きに等しいだろうに。運試しでもしたかったのか?」
「結果的には興ざめしてやめただろ?」
「そういう訳ではない。しかし、勝負の最中にあの技を使ってこないのが不可解ではあったが、まさか剣の長さを錯覚させるために使っていたとは」
「そんで鍔迫り合いを何とかもたせてただろ? だから手加減したとか、そういう話じゃ・・・・・・」
「どうでもいいことだ」
「そうかよ」
「しかし、あのような手を選択する理由が拙者には判らぬ。あのままであったなら、オマエは死んでいたんだぞ?」
「あんたは短気だけど、マジで問答無用に斬り捨てるような奴じゃないだろ」
「知ったような口を利くな」
「それで、どうしてあたいの技は破られたんだ? 教えてくれよ」
「簡単なことだ。オマエの剣気は切っ先に届いていなかった。オマエの実力からして、気が切っ先に届かないなどということはないはず。それに・・・・・・」
「それに?」
「拙者が自身と同等と評した剣の使い手がそんな初歩もできないなどと思いたくはない。そんな相手を斬ったところで面白くもなんともなかろう」
「へえ、やっぱり分かってんじゃねぇか」
「何が言いたい?」
「勝負の楽しさってやつ。分かるだろ? そんで、殺し合いはそんな楽しさとは違うってこともさ」
妙に涼やかな風が体に吹き付けてくる。
その発生源が女からだと気付くのに時間を要することは無かった。
けど、何故そんな風が起こっているのかがよく判らない。
「判らぬな。剣の勝負は殺してこその勝利だ」
「それでも、ただ殺すっていうのは気分が良くないからあんたは剣を引いた。違う?」
女の語気が一時強まる。まるでそうであってくれと願うように。
それを煩わしく思った私も語気を強めていた。
「違うな。拙者はただ己の掟に従って、無用な殺生を避けただけのことだ。何より」
「何より?」
「拙者にはオマエを殺す気など最初からありはせぬし、オマエを殺すと弟子を探すのに余計な時間をくう。まだあの未熟者には、死の臭いや気配といったものに触れる時機ではないからな。言うなれば、オマエは拙者の勝手な都合で生かされたに過ぎぬ」
途端、周囲が水を打ったように静まり返る。
ほんの一時の静寂だと思っていたそれは、五秒ほど続き、
「くっ、あははははははははは――」
女の爆笑によって吹き飛ばされた。
「最高の師匠だ! おお師匠! 本当にあんたはもうこの時からこんなだったか!」
目で見えずとも笑顔だと判る喜色に溢れた声に、私の顔は何故か熱を帯びていた。
「何が可笑しい。気でも違ったか?」
「あはははは――ごほごほっ・・・・・・いや、あのガキは本当にいい師を持ったと思ってさ」
「それで何故笑うのか」
「ああ、そうだよな。笑ってなんかいられない。あんたは結局、気付けなかったから」
「オマエ、まだやるつもりか?」
「ないさ。今は刀持ってるだけで精一杯だ」
そう言うと、女は驚くほど速い納刀を行った後、恭しい動作で私に道を開けた。
「あたいに構わず弟子を探してあげなよ。あたいに構うのは、」
「本選で相手をしてやろう」
短く告げると、女はようやくその場から離れていく。
「ああ、本選で」
嬉しさに溢れた声を残して。
私にはその声が、まるで嬉しくなかった。