四十九話 開祖の誘い(上)
あくる日の朝、クレーデル=サイフは未だに「異神の島」と呼ばれる土地で往生していた。
どうしてそんなことになったのか?
その原因は昨夜この島から離れるべく海に向かった際に血で海面を赤く染め上げ、危うくサメの餌になりかけていた怪我人を見つけてしまい、見捨てられずに助けたことにある。
そして、そのそもそもの原因は、討ち漏らした吸血鬼の下僕を追って訪れた島で開かれるという大会に要らぬ興味を抱いて、仕事が終わったというのに長居したからだろうと独りごちるクレーデルはすぐ脇のベッドで横になっている女を眠い目で見遣る。
滑らかなシルクのような白い髪に無駄なく整った顔が、どんな夢を見ているのかずっと微笑んでいる。
寝顔独特のあどけない感じが妙に愛くるしく、軽い悪戯をしてみたいとも思わせるがそうするととてもむずかるだろうなと容易に想像もできるので、結局は起きるまでこのまま待つことにしてクレーデルは椅子に座って歯磨きを始めた。
そうする途中で、昨日起こったことを軽く整理しておくことにする。
まず一番に思ったことは結果的に騙したことになるだろう女侍のこと。
とてもお淑やかな印象のある美女であり、腰辺りまでの長さのある亜麻色の髪に少しはだけた着物から覗く扇情的な肩のえもいわれぬ曲線美と、剣なんて絶対に持ちそうも無い整った指先は同じ女でもついつい目が追ってしまっていた。
そして盲目故なのか、嘘がまるで通じない相手であった。だから関わりを避けようとしたのだが、思わぬ拾い物が予定を狂わせる結果となってしまっている。
(絶対に嘘の通じない相手を偶然とはいえ騙したあたしってスゴイんじゃない?)
始めにそんなふざけたことを思った後で、狂ってしまった予定をどうするか思案する。
その補助的な事として懐中時計を取り出し、秒針の音を聞き取りながら思考を続ける。
(取り敢えずは怪我人の世話をする。それでもって、島を出る?)
ついこの間、海が急に荒れたことを思い出す。
(海のご機嫌なんてあたしには分かんないし、もうしばらくはここにいようっと)
規則的な音と脳裏を過ぎる記憶、その両方がある瞬間でピタリと重なった。
「決めた」
そう言って、クレーデルは今後の予定をしっかりと決めた。
ちょうどその時、怪我人が目を覚ます。驚いた事に、もう起き上がっている。
クレーデルがヴァンパイアの他にもしぶとい生き物はいるもんだと感心していると、相手と目が合う。
突然目が合ったクレーデルは慌てて歯磨きをやめると今までの行為を無意味にするかのように飴を口の中に放った。
「やぁ、おはよう」
怪我人の第一声はそれだった。
本当に何気ない、しかし必要だと思わせる挨拶だった。
「それで、あなたは何者? 融魔か何かなのかな?」
融魔。クレーデルの故郷にはそんなものは存在しなかったが、知ってはいたので同じに扱われるのは不愉快だった。
「あたしはそういったものを狩る側なの。狩られる側じゃない」
「私には酷く半端に見えるよ」
一言一言を無視できない不可解な力を以って言ってくることにクレーデルは苛立った。
そして、自身の正体を知られたのかという恐怖がない交ぜになって、声が焦る。
「あんたにはあたしがどう見えるって言いたいの?」
「狩られる筈の者が狩る者になった。そんな印象だよ」
クレーデルは返す言葉が見つからず、ただ目だけで「どうしてそう言えるのか」と問いかけた。
「私も似たようなものだからね。それで、あなたは私を助けてくれたの?」
「うんそう・・・あぁ、そうだった・・・・・」
言われてクレーデルは自身の失態に気付いて目を覆いたくなった。
明らかに危ない橋を渡っているだろう女を助けて匿っているこの状況はまずいことはあっても旨いことはない。
面倒事にすっかり慣れてしまったクレーデルはもう既に、面倒事を避けるための警戒心が磨耗してしまっていたらしい。
自分でいくら心がけていても所詮は「つもり」かと、自嘲せずにはいられない。
今更見捨ててどうにかなるとは考えない。今まで生きてきて、そんな生易しい厄介事には巻き込まれた試しがないクレーデルはいち早い対処に当たるために目の前の女に訊く。
「ねぇ、あんた名前は?」
「さくら=季節名=サークス」
(季節名か・・・ならこの人も武人。そう意識してみると、なるほど確かに)
「さくらね。あたしはクレーデル=サイフ」
「財布? 変わった姓だね」
「それを言うならあんたの名前も変わってるでしょ」
そう返すとさくらと名乗った女は一瞬眉を動かす。
怒っているのかいないのか分かり難いが、もしかすると怒ったのかもしれない。
「そう。そういえば、助けてもらった礼をまだ言ってなかったね。ありがとう」
口だけでなく気持ちが込められていることが何とも不思議だとクレーデルは思い、
「律儀なんだ」思ったことをそのまま口にする。
さくらは特に何も言わずに腕を回して体の調子軽くみると、首を捻って何とも不気味な音を鳴らした後で軽く欠伸をする。
クレーデルはそんなさくらを観察するうちに彼女の鳶色の瞳を見てどこか鳥のようだ何となく思わされた。
そうして無遠慮に見ていれば視線を向けられる。
まるで何か言えと命じられているように感じたクレーデルは用意していた言葉を出す。
「さくらは一体なんで・・・もう治ってるけど、怪我なんてしたの?」
「ちょっとした小芝居に付き合っただけだよ」
「あんな大怪我を小芝居なんかで負えるっていうあんたの演じる魂に脱帽だよ」
「それにしても、凄い匂いだね。これは、薔薇?」
「そ。あたしの故郷ではありがたいお守りなの。さくらの住んでいる所ではどうか知らないけど結構な貴重品なんだ」
「じゃあクレーデルはお金持ちっていうことかな?」
「お守りだって言ったでしょ。それも迷信とかじゃなく効果は本物だから、頑張って匂いをつけたんだ」
「そう。それじゃあ私は失礼するよ。やることがあるからね」
そうして動き出す兆候を見せた時には既に、さくらは音も無くクレーデルの脇を通り過ぎて行く。
さくらはそのまま通り過ぎるつもりだった。その事に対する自信を問われたのなら「余裕」の一言で片付くと。
だがしかし、クレーデルの手はさくらの服の襟首を難なく掴んでそれを阻んでいた。
「・・・・・・」
目を丸くしてクレーデルをまじまじと見つめるさくらに対し、クレーデルは不機嫌な顔をして言う。
「治ったってのは分かるけど、怪我人だったんだから少し大人しくしてなきゃ」
「心配してくれるのは結構だけど、怪我をしたことがあるからって引き留められる覚えはないよ。
それにしても、驚いたよ」
さくらはクレーデルのことを技術は相当だがそれを上の段階へと押し上げる力が決定的に不足していると見ていた。
だから気付かれずにこの場を去ることは容易いと見極めたうえで行動した、その筈が、阻まれてしまった。
いかなる修練の為す技なのか、クレーデルの力が急激に上がったのである。
制御していたのかと再考するさくらであったが、それはあり得ないと結論付け、にやりと笑った。
「強かったんだね」
その一言に嫌な気配を感じたクレーデルはさくらから素早く距離を取る。
「怪我が治ったばかりなんだから、荒事も控えなきゃ・・・喧嘩なんてもっての他だからね」
クレーデルの言葉を聞いても、さくらの笑みは消える事がない。それがひたすらに不気味だった。
「少し、鍛錬に付き合ってくれないかな。付き合ってくれるなら、私はここに留まる」
それがさくらなりの配慮なのだろうと受け取ったクレーデルは苦い顔をする。
(本当なら遠慮したいけど、さくらを今自由にさせるのは・・・良くない気がする。
それに、あの回復力を考えて・・・最悪、しばらく動けないようにするしかないかも)
クレーデルはそう考えた。その考えがさくらへの危機感に侵されていることにも気付かずに。
そうして、渋々ながらさくらの願いを聞き入れることになる。
人目に付かないだろう森の中へと入り、適当な場所を見つけるとお互いにここだと決めたのか立ち止まる。
「さくらはすることがあるって言ってたのに、そっちの方はいいの?」
「今更だよ。それに、そう急ぐことでもないからね」
クレーデルは口の中から飴が無くなったのを感じると、それを合図とするようにコートの中からコピシュと呼ばれる短剣を取り出して右の手に持ち、左手には赤い革の手袋を嵌める。
「あたしはさくらの目的とかは知らないし、知ろうとも思わないけど、
今はあたしがあんたを引き留めなきゃいけない気がするから・・・何か、物騒だし」
「確かに私は戦いを引き起こすし、そうすることしか能が無い人間だけど、こんな風に何もしないうちから止めに入る相手はあなたが初めてだよ、クレーデル」
対するさくらは軽妙に受け答えをするだけで、手には武器らしい武器をもっていない。
ついでに言えば、服や身体に仕込んだ武器はクレーデルに盗られたらしく、今になってさくらは自身が素手だということに気が付き、辺りをうろうろと見回していた。
それでいて刃物を構えるクレーデルをさくらは「中々に卑怯な相手」と断じて、傍に落ちていた木の棒を拾う。
そして、それを目の前の木へと鋭く当てると、風を切る音を伴って振り切っていた。
遅れて倒れていく木を、クレーデルは呆然と見届けるしかない。
「え? 木の棒って・・・棒で木を切り倒すって、嘘でしょ!」
「驚くことじゃないよ。窮めればこれくらいはできるようになるのが、人間だよ」
一度そこで言葉を切るとさくらは大きく息を吸う。
周囲の空間が怯えたようにしてぞわりと揺らぎ、クレーデルを恐怖で縛ろうとする。
無論、その程度の威圧で動きが竦むようなことはなかったが、焦りはある。
さくらは既に疾走を開始している。
その速度は十分目で追えるが、それがクレーデルを警戒させる。
急激に加速されれば自分の目が欺かれるという危機感が、焦りを募らせる。
その警戒を見透かしたのか、さくらはクレーデルを中心として周囲を歩き始めた。
そして、何やら木の棒を適当に振っている。
(遊んでるの?)
思わずそう感じるクレーデルは警戒を怠らず、コートの中からリングダガーを一本取り出すとそれをさくらに見せつけるようにする。
さくらの注意がそこに向かいかけた瞬間、クレーデルの手からダガーが忽然と消える。
ノーモーションでの投擲。
さくらの目を持ってしてもダガーが自動で飛んで来たようにしか見えないほどの技量を誇るその一投は間合いを完全に侵略し、二の腕に傷を負わせていた。
「面白い技だね」
だが、さくらは恐怖するどころか嬉々として言う。
怖いという気持ちが無いのかとクレーデルは必然的に思わされたが、嬉しさにも狂気のようなものは感じられず、手品を見てただ純粋に喜んでいる子供のようだった。
狂っているようでいて、正常とも思える矛盾。
それはつまり、始めから在り方が違うということの証明に他ならない。
狂人ではない。
目の前の相手は別物なのだと認識した事でクレーデルの中にあった未知に対する恐怖は消え、視界が一瞬前よりもクリアになった感覚に口の端が上がる。
「さくらみたいな子ってさ、理解できないけど、受け入れられれば怖くないね」
「そう言ってもらえると嬉しい」
二人の距離は変わらず、依然としてさくらはクレーデルを中心として歩いていたが、会話の終わりと共にその足を止め、正面から向き合う。
互いに同時に踏み込み、また同時に互いの動きを予期する。
直感か、それとも経験を取るべきか。
その判断を先に下したのはクレーデルになる。
影が本体を忙しなく追っているかのように見える程の素早い動きで左手が突き出される。
開き切ったその手をさくらは間一髪で避ける。
しかし、避けたことにさくらが逆に違和感を感じたところで視界を塞がれ、次の瞬間に体を地面に打ちつけられていた。
顔を鷲づかみにされていると気付いたところで自由の利かない目に変わって第六感が鋭敏に働き危機を知らせる。
それに従ってさくらは顔を摑んでいる腕へと攻撃を入れて拘束から抜け出すが、目の前には再び、手の影が顔に落ちてくる。
何度避けても、すぐ目の前に赤い魔の手が映り込む。
これまで戦ってきた中で、ここまで視界の自由が利かない戦いをさくらは経験したことはなかった。
どれだけ動いてもまるで本当に目に焼き付いたようにして目前に赤い手が迫ってくる。
反撃しようにもそれができる暇が無いことにさくらの中で焦りが募る。
状況を打開するために大きく距離を取ろうと跳躍するとクレーデルは攻めの手を休め、油断なくさくらの状態を観察している。
さくらは息を切らせてはいなかったが、精神的には同じような状態にする。
そのための連続攻撃の効果のほどを判断していた。
一方、さくらは一呼吸終えた瞬間には平静を取り戻して反撃の手を考えている。
クレーデルの今の攻撃が逃がせばそれまでの使い捨て同然の奇襲であることは既に読めていたが、逆にそれによって常に変化するだろうという予測が相手に攻めさせてはならないということを告げている。
(ならば、攻めさせないこと)
さくらがそう考えれば、当然クレーデルは攻められないことを考えている。
両者共に動かないという選択はしない。
もし動きを止めてしまえば、必要以上に見ることに注意を向けたその瞬間に不意を突かれることを既に理解していた。
しかし、動こうにもお互いに間合いを把握させないがために今は無言で距離を取り合ってあちこち歩き回るという傍からすると間抜けな陣取り合戦という様相を呈していた。
「どうしたの?これじゃ鍛錬にならないよ?」
こうなってしまうと、さすがに挑発の一つでもしなければならなくなる。
だがクレーデルはさくらの挑発を無視する。
これにさくらは憮然とした表情を浮かべる。別に彼女とてこんな無駄口を叩く気など本当なら真っ平ごめんなのだから。
(踏み込むべき死が見当たらない。だから死に踏み込んでもらうかと思ったのに)
思惑が外れたことをやや残念に思いながら、何時までも動きがないのが面白くないさくらは鍛錬ではするつもりのなかった手段で攻撃をすることに決める。
「仕方ないな。上手く避けてね」
手に持った木の棒を振るう。
只の棒とは信じられない鋭さを以って周囲の地面を切り抉り、粉塵と共に無数の石を宙へと舞い上げるその太刀筋は、人間からは遥かに遠い存在の業の為せるもの。
だがクレーデルはそれを眺めている余裕などなく、目の前の光景に背筋を凍らせる。
(来る!)
胸裏を警告が過ぎったその刹那、かろうじて見えていたさくらの棒捌きが加速する。
宙を舞っていた石の全てがクレーデルへと向けて打ち出され、襲い掛かってくる。
粉塵を吹き飛ばしながら迫る殺人技の連続を前に対抗する武器を選択する時間はあまりに短い。
可否を問う時間すら惜しまれる。
与えられている猶予はすぐにでも尽きるだろう。
クレーデルは咄嗟の判断と己の技量に賭けるのは分が悪いと考える諦めをつけ、
己であることを一時やめる決断する。
「!」
さくらは二度目となる感覚の正体を得た。
迫る石たちを前にもうどうしようもないかと思われた瞬間に、クレーデルから感じる力が再び急激に上がるのが分かった。
紅い双眸が光の尾を引き、それにつられるようにして全身が朧な影を無数に生み出す。
無数の残像が消えた後に残るものは無音。
砕かれた筈の石は音を立てることなく崩れ去っており、まるでこの世から突然消えたようにすらさくらには思えた。
その神業を見て、彼女は懐かしいと感じていた。
(これほどの動きは、シルクリム以来かな)
あの日、死を超えて戦った相手のことを思い出し、彼女は微笑む。
「あぁ、やっぱり戦いは楽しいね」
それが自分にかけられた言葉ではないこと感じたクレーデルは沈黙を守って、己に戻る。
紅くなっていた双眸は黒へと戻り、全身にあった威圧感も霧散する。
「あんたあたしを殺す気? おかげで力使っちゃったじゃないの」
「悪いことをしたみたいだね。ごめんよ。鍛錬はもうやめにして、これからお互いについて、ゆっくり話せないかな?」
「厄介ごとに巻き込むつもりなら遠慮したいんですけど」
「遠慮しなくてもいいよ」
「するに決まってるでしょ!」
「ねえクレーデル。一緒に世界を守ってみない?」
「いきなり過ぎると思わないそれ?」
「味方が殆どいなくなってね。でも、あなたなら私と共に来れるという確信を得た」
「ちょっと、話聞いてる?」
「クレーデル」
「な、何?」
「事情を話すから協力してくれないかな?」
「いや、それなら単に協力するほうが楽でいいんだけど」
「ありがとう」
「え?いや、今のはどっちが気楽かなって話であって了承したとかそういうんじゃないの」
「一生付きまとうよ?」
穏やかな微笑と共に静かに告げられた言葉に、今まではまだ平和だった空気が凍る。
クレーデルの額を冷や汗が伝っていくなかで、彼女は混乱の極致に置かれていた。
(えぇ・・・・・・付きまとうって・・・・・えぇ?)
想像すると恐怖が軍勢となって襲い掛かる。
如何なる力にも打破できぬ恐怖にクレーデルは頭を悩ませることで誤魔化す。
「あたしは予定が狂わされるのは好きじゃないんだけど」
「予定は変更されるものだよ」
「変更したくない」
「引き止めて私の予定を変更したのはあなただ。なら少しくらい乗ってくれてもいい」
「・・・・・・分かったわ、じゃあ事情は聞いてあげる」
「聞いてもらえれば、クレーデルはきっと力を貸してくれるよ」
そうしてさくらは自身の目的をクレーデルへと語り始めた。