三十七話 墓前でのやりとり
※「さいわいなり、水上の霊に似て
感受なくただよう者
そのときどきに旗を変え、
風にまかせて
帆をふくらます船、ではなく――
いな、神さながら感受のかけらなく
ただ己のみを知り、おのれを詩と作り、
神は世界を創る、みずからに他ならぬ世界、
そののち罪なすは人間」
かつてあったとされる過去の断片から読み取った詩を口ずさみながら、私は森を抜けた先の海岸に面した場所に立ち、目の前の墓に詩を書き終えて、仕上げとしてその上にしゃれこうべを載せる。
潮風が吹き、しゃれこうべが微かに風の音を響かせている。地獄の音楽だと思った。
そうして、満足感から破顔していると後ろからゆっくりと人が歩いてくる気配がした。
「やっぱり、来ていたんですね」
振り返るとそこには一年前に会った純粋そうな少女ではなく、随分と姿を飾って偽った女がいた。
こんな変化を強いる世の中を生きないといけない。そのことに私は目の前の女を憐れんだ。
居場所を変えることもできるはずなのに…それにしても、こんな風に心打たれるとは私も随分「人」らしくなった。
「変わったことをなさっているんですね。墓碑銘としての詩を書くだなんて」
変わっているのはそっちも同じだと思い、私は不思議と微笑を浮かべていた。
人と接するには笑顔がいい。心地の良い優しさのある微笑がいい。そうすれば相手は気を好くして私に優しくしてくれる。私も優しくできる。もっとも、作り物の笑顔は要らない。
私の微笑に対し、ささやかだが真心のある笑みが返される。気持ちを送る気がある向こうにはある。
そういう相手には気持ちは通じると、私は信じて笑みを深くした。
そうして、短い時間の中で、胸のうちでは長い時間を使ってから女、アユムへと言葉を返す。
「どうしてかな、昔……歌を歌ったりしていたら、いつの間にか趣味になっていたんだよ」
微風が櫛のように髪を梳いていく。私はここの風がすっかり気に入っていた。海の色は故郷や大陸よりも碧く、日の光を受けて囁くように、笑い合うように輝く水面はとても綺麗で気持ちを高揚させてくれる。ただこの土地は影が濃い。私のような渡り鳥が誘われて、ここを巣窟とするからなのか、所々の影が濃い。
暗雲こそまだ出ていないが、頭上の光を遮るものは風に流してもらう他はない。
「それでどうかな?私の推挙した人物は気に入ってもらえたかな?」
風は――三代目は――どう吹いているのかそれとなく尋ねると、アユムは口端を上げて言う。
「僕は気に入っています」偽りの無い言葉でアユムは答えた。「あなたはどう考えているんですか?今、トキナの殺めた者達を弔っているあなたは、何を思っているんですか?」
私が立てた墓については知っていたらしい。そして、私が何故この墓を立てたのかを訊いている。
真っ直ぐな問いは、今この瞬間にある何よりも尊重すべきものだと感じて、私は少し考えてから言う。
「死んだ証を遺そうと思ったんだよ。名前は知られなくても、ここで生きて、ここで死んだ証を……そうしておけば、死んだことくらいは分かってもらえるからね。
別にあの子が人を殺めることを咎める気は無いよ。ただ、あの子は少し脅え過ぎなところがある」
私が言った言葉が衝撃的だったのか、アユムは顔色を失っていた。私のしたことが三代目の罪の証を立てているように思えて、それはそれをするように命じた自身に対する遠回しな良心への呵責であるように感じたからこその疑問に対して、私の回答は全くの予想外だったようだ。
三代目はよほど内に秘めたことを悟らせない性質らしい。
「トキナが脅えているって? 一体、何に?」
「見えないことに。あの子の振るう剣は確かに凄いけどね、用心深いんだよ。用心深すぎて、不注意なんだ。
それで命を簡単に奪おうとする。誰でもできる、最大の沈黙を他人に強いて、身の周りを静かにしている。
フフフ、全く可哀想で笑いが止まらないよ」
「どうしてそうなるんですか?」アユムは心からの疑問に微かな怒りを交えて言った。
「他人が哀しそうなのはどうにも滑稽に見える。特に、殺めるために殺めるなんて、そんな破滅的な哀れさは…
哀しみよりも可笑しさが顔を覆ってしまって、笑うほかはないよ。だって、そんな相手のために私は泣けないんだから。
昔、ぎりしあという国の人はこんなことを言ったらしいよ。
飲め、遊べ。人は死ぬもの。地上で過ごす時の間はわずか。死んだが最後、死は不死ときている」
私に置き換えてみると、成程、たしかに死は不死ときている。
命を奪うは容易く、死は奪い難いこの世において、どうして私は逆なんだろうか。
とはいえ、不老というだけで不死というわけではないのだ。いずれ死は必ずくる。
そんな空虚なことを思い浮かべながら目の前のアユムを静かに見据えて何か言うのを待っていた。
しかし、言葉は返されない。いけないな。話というのは聞く気のあることを聞く気のある内に言うことなのに。彼女に突然に答えを求めるのは少々酷というか、労を課すようなものだった。
「歳を重ねるというのは、どういう気持ちなんですか? 僕は、あなたほど生きたこともなければそこまで考える時間もなかったので分からないんです」
少し皮肉を言われた気もするが、そう感じるということは私も同じように感じたからだ。怒ることでもない。
「歳を重ねることは大した意味はないよ。ただ、重ねていくことで感じることが違ってくるだけ。私はただ人より感じることが少ないから、今感じられることを突き詰めているだけなんだよ」
「それは暇つぶし、ですか?」
「そうだね。ただ、暇をつぶすために何かをしているんじゃなくて、何かをするために暇をつぶしてる。
たとえば、剣術がそうかな。アユムは分かると思うけど、私の剣はきっと人の一生よりも長生きするよ」
「やはり、あなたが開祖だったんですね。それじゃあ、あのカイル=サークスは」
「私の夫だよ」
「え?」
「え?」
私がアユムの言葉を鸚鵡返しにしてみても、反応は無い。
ただ口をあんぐりと空けている様が奇妙で、小首を傾げると、アユムもそれに釣られるようにして小首を傾げていた。
「あなた、人を好きになれるんですか?」
それは今日彼女が言った一番素直な言葉だった。
「ハッハハハハハハハハ」私が笑うとアユムは酷く狼狽した。「酷い酷い……私だって人を好きになったり、嫌いなったりはするよ。私が人に好かれるか、嫌われるかは別としてね」
アユムは私の言葉を受けてますます狼狽していた。
私が肩を竦めて微笑して見せてもそれはなくならない。引いてはいけない紐を引っ張った子供のように慌てている。
「気分転換に何か読んでみようか」
私が目線で示した先は立てられた墓に書かれた墓碑銘だった。アユムがそこへ目を移し、ゆっくりと読み上げる。
「天に目はあるか、地に足はあるか、目の前に世界はあるか
そこに目があれば孤独ではなく、地に足があれば歩き出せる。
目の前に世界がある限り、旅は終わることはない。死もまた旅立ちなり」
最後まで読み上げてみて、アユムは僅かに困惑しながら私を見てきた。
「どう? 別のことをして、少しは気が紛れた?」
「少しは。それで本題なんだけれど」
口調を改めて、アユムは私に向かって問おうとする。その目に宿るのは強い敵意と警戒心だった。
それを茶化すように私が眉を愉快気に跳ね上げて微笑すると一時だけ間が空いた。
その間、口よりも目が雄弁に、怒りをない交ぜにして「ふざけるな」と語っていた。
「あなたはこの世界を、どこまで知った?」
「この世界でなくても、世界は奇跡で成り立っていることは理解したつもりだよ」
「もう一度、改めて訊く。あなたはこの世界の奇跡を理解したのか?」
「少しだけ、分かってきたよ。この世界の空白が何故あって、どうして人が妖術を操るのかも。
そして、どうしてこんな場所が置けるのかもね」
「あなたは火に近付き過ぎた。そうなれば、どうなるかは分かっているはず」
「仏陀の話か何かかな? ここで言えば真実は炎で、それに近付き過ぎた私はその熱で燃え尽きるとでも?」
「ことわざではこう言っている。過ぎたるは猶及ばざるが如しと。灯りを眺めるのはいいけど、その火に触れた報いは受けてもらわないとならない。あなたはこの世界を破滅させるかもしれない」
「そんな風に思ってたんだね。なら素敵な場所へ案内してくれいないかな?そうすれば私はもっとこの世界が好きになれる。
そうすれば、私がそういった気を起こすことはなくなると思うんだけど」
「生憎とそんな風にご機嫌を取るつもりはないんだ。開祖……あなたは人というよりも病としての害がある。
力がある。あなたはその力を大陸で揮い英雄と呼ばれた。そしてそれが老いを知らぬとなれば放っては置けない」
時と共に老い朽ちる定めにあったなら、放っておいてもらえたのかどうかは分からないが、ここに来たことは無意味ということにはならないらしい。中央に根を張っていたものがまさかこんな所にも根を下ろしていたとは、驚かないと思ってはいたが、驚いてしまった。
三代目に何も告げずに任せるのは無理そうだ。そう考え直したとき、アユムが私を見る眼差しが変わる。
「どうして僕にトキナを会わせてくれた? 彼女ほどの力を与えて何になる?」
「ただ、あなたが背負う荷を軽くしようと思っただけだよ。まあ他人事だと思っていたし、まさかまさかという奴だよ。あなたが彼らの側に居たということも、色々とね」
全てはあの時から。私はあの時から関わりを持っていた。
※の詩はドイツの作家ブレンターノのものです。
注釈として、ここに書いておきます。