三十二話 掟の剣
以前アユムに連れられてやって来た森の開けた場所を選んで、そこに立って時を待つ。
場所の指定などはしていないから、私はフォルティスがやって来るのをただ待つのみ。けど、フォルテスは忍と侍の流儀を気まぐれに選ぶ男だった。これといって指定することがなかったということは、戦いは日が落ちた瞬間には既に、
――始まっているか。
踏み込んで来るのをよく伸びた草という天然の仕掛けで聞き取り剣を合わせる。想像以上の重さに肩が拉げるのを感じた。
押し切られる前にその衝撃で足が地を滑る。重心の移動があと刹那遅れたなら私は一撃で敗れていた。
幼き日の、何も見えないことへの恐怖が蒸し返される。姿は始めからなく、熱もなく、音もない。違う。熱はある。ただそれが酷く感じづらい。
「気配を完全に消せば、たとえ鼻先に顔を近づけても目には映らない。それが究極の、暗殺術だ」
声がしたほうに私が反応したときには既に距離は咫尺。初撃を居合いで防いだことでフォルティスの戦法は決まっていたらしい。けど、居合いは何も斬るためだけに鍛えてきた訳ではない。それに私は、まだまだ余裕だ。
先端を鋼で拵えた柄を使った打撃を連続で叩き込むが、フォルティスはまるで怯まない。鎧で身を固めているはずだからわざわざ貫通打撃に切り替えたというのに、この男、内臓まで鋼並みか。
首を狙って来る刀剣を右手の指先で掴んで強引に流す。それから手刀を首に叩き込んだ。しかしそれが通用せず、逆に一撃手刀を左肩に突き入れられる。私の壊される音が響き渡って、さらに突き込まれた手刀が肉を断裂させて、皮を破り、貫通したことで血が噴き出すのが分かる。
「ぁぁ……」
このままだと殺される。そうなったときは取り返しがつかない。そう思った私はフォルティスを振り払うために二代目直伝の正拳突きを鳩尾へと叩き込んで吹き飛ばした。岩を砂に変えるほどの拳打は通用したのか苦悶する声が聞こえた。
「ぐふっ、俺じゃなければ木っ端微塵だったんだろうが、俺ではせいぜい有効打にしかならんぞ」
私は二代目ほどの魔力が無い。だから今の拳打はもう使えない。けど、それで困るようじゃ『季節名』は名乗れないか。
フォルティスには私の魔力が印となって残っている。いわゆる目印だ。
位置さえ分かればもうフォルティスは敵ではない。鞘に納めたままの『季節名』で右腕を叩き折りに行く。
「油断したな?」
戯言を言うなと心の中で言って腕を狙う。しかし直前で、その姿が『心眼』から見失われた。
心への衝撃が動きを鈍らせ、そのことに不覚にも焦った私の隙をフォルティスは見逃さないはず。間合いを取ろうと身体を捻りながら飛ぶが、更に焦る。この跳躍術はフォルティスから教わったものだ。墓穴を掘ったと思った瞬間には背中に強烈な痺れと痛みを受けて地面へと墜落させられた。
まさか、ここまで身のこなしに差があるなんて、空すらも足場にしない限り今の加速を蹴りに加えるなんて不可能だ。ということはフォルティスは全てを足場として活用できる技の持ち主ということか。
考える合間にもフォルティスと私は剣を打ち合わせる。既に十六合、今二十三になる。居合いで突き放しながらの剣戟だというのにフォルティスが回避から攻撃に転じる瞬間の適度さ、その判断と速さはさすがと言えた。
「どうした? いちいち鞘に納めて。これなら二代目の二刀の方が遥かに楽しめたぞ?」
「嘘を言え、拙者の一太刀に込められた威力は二代目の一太刀のそれより遥かに強い」
動きがまるで感じられない。肌を刺す痛みはどんどん増えている。
「俺は威力の話をしてるんじゃない。命中精度の話をしてるんだ。その点で言うと、お前は俺との相性が悪すぎたな」
戦いにおける相性。そういったものは考えたくはないけど、確かに悪い。フォルティスが隠していないのは姿のみ。その姿を見ることのできない私にはフォルティスの動きを把握する事ができない。
それに体力にも問題がある。戦うということは疲れることだ。それも長引けば長引くほど、体力は失われる。それも圧倒的密度の剣戟を続け、全力で剣を振るい続けなければならないこの状況は、気力の勝負になるか。
けど、そう考えながら私はそれを否定する。だって、剣を合わせた瞬間の音から徐々に、相手の居場所が分かりつつある。
あと少し、あと少しで聞き分けられる。
上下左右からの連撃。時折、投擲されることで範囲を広げ、微細な緩急をつけてくる攻撃を刃と柄で弾いていく。
「そこ!」
抜刀して鞘を捨てる。鋼と鋼が打ち合う音が響き、鍔迫り合いとなるのが腕にかかる重みで分かった。押し切られないよう両手で柄をしっかりと握って左足に力を込める。
「ようやく鞘から抜き切ったな。なら俺の動きが少しは読めるようになった訳だ」
「型捨無流三代目 トキナ=アウヌムトゥス 勝負だ、フォルティス」
両手に持った剣先を沈め、闘気を鎮めて動きを無くすようにして力を流し、僅かに緩んだときに一瞬、強い力を加えて押し退けることで距離を離す。そうして生まれた距離は今までとは違って縮まらない。その違いにあるものは、私の構えが違うということでしかないけど、その違いは大きい。今の私に正面から挑むことは、突き立った剣へと自ら串刺しになりに行くのと何ら変わり無いのだから。
「全く、信じられない速さだな」
それに、離れ際に放った一撃がフォルティスには大きな重圧になっている。迂闊に攻め込めるはずもないか。
けど、私の予想に過ぎないそれはあっさりと裏切られ、今度は右肩を振り下ろされた斬撃が抉る。この深さなら死んでいても不思議は無い。
これだけ傷を受けたなら十分だ。あとは、受けた傷の分、許すだけでいい。
「許し、之報復也」
全身を巡る気を爆発させるかの如く発散させ、手に握った刀をようやく本気で振るう。
今の私が本気で振るう太刀は時間の「無」の中にある。「飛ぶ矢は飛ばない」と言うが現在とは一瞬前の過去に過ぎない。その瞬間という「静」と「動」の狭間を人間は視ることができない。けど、私にはそれが視えてしまう。真の現在という時間が過去へと置き換わるその「瞬間」という名の時間の断裂が。そして私は、いつしかその断裂の中で刀を振ることができるようになっていた。それは、決して見破られることはない。時間という秩序が絶対である限り、私に敗北は有り得ないのだ。
「――今ここに、ひとつの罪が裁かれた」
刀が唸りを上げて血しぶきを払う。風がびゅうびゅうと吹きすさぶのは世界からの口笛による賞賛と受け取っておこう。
あとはただ、帰り道を歩くだけだ。そうして返そうとした踵に何かが巻きついて地面に引き倒される。
「勝ったつもりか?」
この目では確認ができないのだから仕方ない。しかし、受けた傷をそっくり返した筈なのに、しぶとい男だ。
「しぶといな…だが」巻きついた鎖を柄に仕込んだ小太刀で切る。「今回は勝ちを譲っておくといい」
立ち上がって歩みを再開すると、フォルティスの血の匂いがする。
「今のフォルティスでは、もう私には勝てぬよ」
フォルティスは私の言葉の真意を掴んだのか、それ以上は何も言うことは無かった。