三十一話 お庭番と侍
朝食が口に合わず、味わうことなく飲み込んだために淀んだ気分を味わって、よく噛んで食べれば良かったと思いながら、外に出て剣の修行を行う。
その前にまずは人気の無い開けた場所を探す腹ごなしの散歩してみると、やっぱりこの学校という建物は広い。何度も思うことだけど、ここは本当に島なのかどうか疑わしい。そもそも、島という呼び方をされるものがどんなものか見定められない私には関係の無い話だが。
そんなことを考えていれば、足は自然と求めた場所に立っていた。
「はあぁぁ」
信剣の構えを取り、刀の尖端の動きに微塵の揺らぎも無いことを確かめて、まずは一振り。
振り下ろした剣尖を上げて、正眼の構えを取る。そこから抜き面を放ち、反動をつけるようにして肘を曲げ、胴を一閃。その一連の動作が必殺かどうかをつぶさに感じ取りながら、私はただひたすらに抜き面と小手の素振りを繰り返す。
剣の戦いにおいて致命打となるかは別として、剣道においてはこれが最速にして必勝の手段であり、剣術においてはそのような小さな動作からの一太刀では必殺が難しいと、それぞれの師匠から教わった私は、修行の末にゼノンという大昔の学者のパラドックスにも似た理屈の、パラドックスではない技を会得した。それはただ、理屈通りに剣を振るい、その理屈を阻む摂理を断ち切ったとても単純で、明快な技だ。そう、致命になりえない抜き面を、致命にしうる。ただそれだけの技だ。
けど、さらに修行を重ね、居合いを極めんとするうちにそんな技はけちくさいものに成り下がっていた。
そんなことに考えを割いたせいか精神統一が乱れて、刀身を地面にぶつける。気に喰わないので鼻を鳴らして刀を鞘に納めると、それを待っていたかのように何者かがゆっくりと存在を感じさせ始めた。
「あまりよい趣味ではないな。しかし、拙者も鈍ったか」
「拙者か…秋、随分と変わったな、いや、化けたというべきか? あのトキナの弟子とはまるで思えない人斬りの剣を振るう」
「フォルティス?」
過ぎ去った歳月か。フォルティスの声は随分と渋く枯れたものになり、人に与える安心感が増していた。
「師匠の顔を忘れたか? 哀しいもんだ」
見えもしないし見せもしない顔を覚えろという無茶を言うのは間違いなくフォルティスだった。
「何故、ここに?」
フォルティスは気配を薄めていく。
「早い話がお庭番というやつさ。先代の校長、つまりは今の校長の祖父に雇われてからすでに六年になるな。といっても今の校長は祖父の言葉に従って顔も知らない俺をそのまま雇っているだけだがな」
「六年もいるのか。ならアユムが何故性別を偽るのか知っているか?」
「簡単な事だ。本当の跡継ぎだった双子の兄が死んだ折、その代わりに自分が死んだ事にして後を継いだ。それだけだ」
「名を捨てたか。先代の校長はもう既に死んだのか?」
「ほう、分かるか?」
「後ろ盾が無いようなことを言っていたからな。それよりフォルティス。腕を上げた?」
フォルティスは微かに笑ったあとで言った。
「老いさらばえるつもりで生きちゃいない。腕を上げたかと聞かれれば当然上げたさ。俺はいつか初代トキナに勝つつもりでいるからな」
面白いと思ったから笑うと、フォルティスも笑う。
「秋。随分と面白そうだな。何なら、今日の夜仕合うか?雑魚とばかり戦っていてはトキナの名が泣くぞ?」
「名は泣かぬさ。しかし拙者は無闇に人を斬ることは是とせぬのでな。だが、オマエとは戦いたくて仕方がない。だが、二代目との約束だ。狂気で正気を保たず、正気で狂気を抑えるべしとな。その果ての剣を望めとな」
されど、狂気という純粋な感情の果ての剣が二代目の言う剣に劣るものではないのは確かだ。ただ、私の知る狂気と二代目の知る狂気は違う。それなのに私の狂気による理性の維持に気付きそれを矯正しようとしたのには感服だ。けど正気なんていう小さな枠は私という心の住処にはほど遠い。結局、私は常軌を逸した人格の理性を狂気によって保っている。
この冷たい狂気は激情から来るものではない。それ故に思考が冷静に、より自己へと埋没するほどに研ぎ澄まされる。
「相変わらず、交わした約束に義理堅い性格なんだな秋は。ならどうして人を斬った?」
「アユムは拙者の主君だからな。斬れと言われれば斬るさ。何よりも好都合だからな」
「なら、その主君に今日の戦いの許可でも貰って来い。それにしてもお前ほどの強靭な意志の持ち主が何かするのにお伺い立てるのは妙で仕方がない。だが、それも侍というやつか」
フォルティスはそよ風と共に完全に気配を消した。耳を澄ましても足音がしない。本当に強い。戦うのなら命懸けか。
「さすがは羽音無しの鴉と異名を取った男か。本当に、オマエの足音は聞いた試しがない」
そして、心臓の音も。私はあなたが生きているなんて、出会った頃はまるで思いもしなかった。
もし今夜、刃を交えたのならフォルティス、あなたが生きているという確かな音を聞けるだろうか?
私は加速する血潮の滾りを感じながら、左手の『季節名』を強く握り締めた。
早速行動を起こす。早足に歩き、アユムを捕まえて夜にある敵を斬るという話をすると、何も聞かずに承諾してくれた。
「感謝するぞ。校長先生」
「別にいいさ。子供のように無邪気に人を殺したいと言われて反論なんかする心が、僕には無いだけの話だ」
そのときのアユムの心情を推し量るのなら、それは触らぬ神に祟りなしと言ったところか。
そのあとは夜まで眠って、目覚めた時には必ず忘れる夢の中を旅することで暇を潰した。
そして、戦いの夜。
私は知らぬ間に流していた涙を拭って、それを舐めた。
「しょっぱいな」
私にはまだ、涙がある。そのことに、深い感慨を覚えた。