二話 名前を名乗ろう
組長が「どこか行きたい所はあるんか?」と訊いてきたので、大陸に渡りたいと言ったら十分な路銀と上質の着物を一着、餞別としてくれた。袖を通した時の心地は本当に心躍るものがあった。理由は解らないけど、嬉しかった。
私は袖の裾を掴んで何となく動かす。黒の生地に薄っすら浮かび上がる模様の繊細さが見て取れると嬉しさが増した。
そんな上機嫌のまま船に乗って大陸へと渡った私を最初に出迎えたのは砕け散った彫像だった。この彫像がもし仏像と同じようなものだとすると何とも幸先が悪い。振り返れば大海原が広がっているだけで、もう、故郷の影も形も無かった。
新しい人生をここから始めよう。そう決心して郷愁の誘いを振り切って歩き始めた。
とりあえず組長が懇意にしていたギルドという組に所属できれば生計は立てられる。なにせすることは魔物と呼ばれる獣を斬ればいいという話だし、教育によって人を斬る自信を失くした今の私としては天職と言えるはず。
――そう考えて歩き続けて、やがて日が暮れても、街には一向に辿り着けず、仕方なく私は近くの岩に腰を落ち着けた。もちろん、着物は汚さないよう筵を敷いてある。
風が私の首筋を一撫でした。やはり故郷と違って、どこか乾いた、冷たい風だった。
ここは思ったよりも寒い。焚き火でもして暖でも取ろうかなと思い、腰を上げる。
そのとき、遠くから狼の遠吠えにも似た音が私の耳に届いた。同時に、悪寒が背筋を抜ける。音のしたほうへ目を向けて、集中すると、大分離れた岩山にいる生き物と――あれが魔物?――目が合った。どうやら私を晩御飯にするつもりらしい。
ちょうどいい、私も今日の晩御飯を見つけた。あとは、どっちが食うか食われるかを決めればいいだけだ。
じっと向こうがこっちまで来るのを待って、ようやく、五匹の群れをなした魔物がやって来た。その肉付きの悪い姿を見て、私はさっき思ったことを撤回することにした。これは、食べられそうにない。
気分を悪くした私の心境などお構い無しに魔物が一斉に飛び掛ってくる。が、遅い。
チン、と鍔を打ち鳴らしただけで、魔物たちは力なく地面に落下していった。まさか気を当てただけで気絶するなんて弱いにもほどがある。それともこの刀の持つ不思議な力が魔物にはより一層効果的なのだろうか?
考えても始まらないと思い直して、手早く首を斬って袋にしまった。ギルドはこうしたものも換金してくれるそうだから、とっておいて損はないはずだ。
袋の口をきつく縛って、それを肩に担いだところで誰か近付いてくるのが解った。やがて、顔が見えるくらいのところまで来るとその顔がわずかに緊張しているのが解った。その男は私を見ると、しばらくぼうっとしていたけど、それから覚めると慌てたように言った。
「君、大丈夫だった? 怪我は?」
何やら私の身を案じているよう。喋らないと――いけないか。色々聞きたいこともある。
「大丈夫……ところで、あなたは近くの街から来たの?」
同じ言葉を話しているつもりだけど、通じた様子が無いのか男はまたぼうっとしている。
「言葉……通じてる?」
「あ、ああ。そうだけど、そういう君はどこから来たの?」
「そんなことはどうでもいい。それより街まで案内してくれませんか?」
「ああ、分かったよ。それじゃあ、付いて来てくれ」
男は皮の胸当てに軽量の手甲という身軽さを重視した戦士の出で立ちだ。しかし、その姿に似合わない大きな盾を背負っているのが気になると言えば気になる。それも二つ重ねて背負っているのだ。興味が湧く。
けど、私はそんな様子をおくびも出さずにただ付いて歩いている。景色に目をやるのも悪くないけど、男の背中の向こうに見える壮大な星空だけでも十分に満足できるから別によかった。
良い空だと思う。この大陸の空は、故郷の空よりも舞う価値がありそうだ。
捨てきれない夢に身を焦がす思いに浸っていると、声をかけられた。
「君はさ、街にどんな用があるの?」
男の積極性が嬉しい。自分から訊くのは、少し気が引けていた。
「ギルドに所属しようと思って」
「そうなの?」男はとても驚いたのがよく分かる声を上げた。「あ、こっち側から来てるってことはそうなのかな?」
勝手に納得してくれたので、私は短く答えるだけでいい。
「そう」
「そうなんだ。ところでさ、君の名前、何ていうの?」
喉が疲れるのであまり喋りたくはない。
けど、無視する訳にもいかない。ジレンマっていうのか?
「…………」
黙っているのが気に障ったのか、男はこちらを振り返った。表情はどこか寂しそうで、怒っている訳ではなさそうだ。
「いや、その、俺さ……一人で仕事してるんだけど、一人だと仕事がなかなか回ってこないんだ」
「それで?」
「だからさ、君さえ良ければ傭兵として一緒に組まないかって誘ってるんだけど」
「今初めて言われた」
「ははは、組まないとしてもさ、名前くらい知りたいかなって」
名前。そういえば、そんなものなかった。そうだ。無いなら今考えるしかない。でなければ、ギルドに所属することができないのは確実。そう考えると、男には感謝するべきかもしれない。
真っ先に目が向いたのは、左手に握られた愛刀だった。
「季節名、トキナ。それが名前」
「トキナか。俺はカイル=サークス。できればよろしく」
「よろしく」
私がそう言うと、カイルは満面の笑顔を浮かべた。
これだ――これが私を最初に出迎えたものにしようと、そう心に決めた。