二十四話 白き虹
目が覚めても、わたしは目を開かなかった。ただ、瞼を通して見えるのはきっと今空にある蒼に負けないくらいの蒼色で、日の温かみがとても心地よく感じられる。風が首と額を撫でていくのが解る。それでざわめく木々の音と鳥の声がわたしの目に見えない部分を癒してくれているのが解る。
世界は綺麗なんだって改めて知った。こうして目を閉じて耳を澄ますだけで、世界がこんなにもわたしを包んでくれる。
疲れた心が元気を取り戻したところでわたしはその場から跳ね起きた。わたしは人よりずっと上手に魔術が使えるから一回二回の致命傷を受けた程度ならすぐに回復する。だから、短期間でここまで強くなれたんです。
起き上がって肩回しをしながら冷静な方のわたしになって考えてみる。
「魔王を倒すのに必要なものは、迷い無く命を奪う精神。それを得ることは可能? 不可能?」
答えはすぐに出てくる。不可能。それは間違ってないはずなのに、どこか信じられないわたしがいた。
「どうやら回復したようですね。でしたらこれに着替えて外に来てください。修行をしますので」
シルクリムは言いたいことを言うとわたしの着物を置いて行ってしまっていた。面倒だと思いながらやると普段よりも動きが遅いことを自覚しながら帯をしっかりと結ぶ。
朝ごはんが食べたいと思いながら外に出て宿の裏に回るとシルクリムがバトントワリングによく似た動きで得物を自由自在に動かしているのが見えた。それが終わったときに拍手をするとシルクリムはお辞儀をしてくれた。
「聞きましたよ。魔王を討ち損なったそうですね」
「わたしは間違ってない」
「あの瞬間に人としての正しさに一体どれほどの価値がありましたか?」
まただ。わたしはまた価値の解らないものについて答えろと言われている。そんなの知らないのに。解らないのに。
「わたしはわたしが正しいと思うことをしたの」
わたしは自分に解ることを口にした。真っ直ぐにシルクリムの顔を見ると、笑ってる。
「そうですか。ならいいのです」
「え?」
わたしが驚くと、シルクリムも驚いてわたしを見てきた。
「何も驚くことはないでしょう。貴女は貴女の正しいと思うことをした。私はそのことに疑問を差し挟むつもりはありません。私が疑問に思うことはひとつです。何故武器を持っていないのです?」
「わたしは人を斬るための剣を持たない。けれど、剣は人を斬るものでしかない。そのおかしさをずっと疑問に感じながら、わたしは剣を振るってきました。でも、はっきりしたの。わたしには剣は要らない!!」
「何故です?」
「だって、わたしに剣は要らないって解ったから」
「ならば聞きましょう。剣を持たないその手で、貴女に何ができるのかを」
「わたしはこの手で魔王を倒します」
拳を握り締めて蒼い色をしたわたしの魔力を体に沿った形で解放する。
心臓の鼓動に合わせて魔力が波立っていた。
「ああ、そういえば貴女は魔術を使うんでしたね。ついでに言うのなら、王族でしたね。トキナの剣技に合わせて膨大な魔力を使えばあなたは最強の、はずでしたね」
シルクリムは確認するように言うと静かにわたしの魔力を見ている。わたしは意を決して告げることにした。
「わたしはトキナから全てを写し取った。盗み取ったと言い換えてもいいのかもしれません」
彼女は仮にもシスター。静かにわたしの言葉を聞いてくれている。
「でも、わたしはトキナの全てを得たとき、その違いに気付いたの」
剣と鼓動が合わないのもそう。剣に拒絶されるのもそう。そう、わたしは、
「わたしは素手のほうが強いって」
だから人を斬る道具は必要無いって、変な風に割り切ったときから、わたしは『季節名』に嫌われたんだ。
「トキナも、そうなのかもしれません」
シルクリムは閉じていた目を開くと戸惑いながらそう言った。
「え?」
「彼女は、人として剣を窮めていました。しかし、それは剣の道を極めている訳ではありません。そうですね。素手で戦ってみるのも悪くないかもしれませんよ?」
わたしは何だか良くない予感がして口を開いた。
「シルクリムは、魔王になったトキナとも戦って、それで負けたの? 素手のトキナを相手に?」
「実を言うとそうですね。貴女にしか倒せないと言ったのもそのためです」
「…………」
「…………」
お互いに言葉が出なくなって、鳥だけが鳴いていた。言葉に必要な材料が何も出てこないから仕方ない沈黙だとしても、何だか気まずい雰囲気になる。
「まあいいでしょう。貴女が無手でどの程度戦えるのか見せてもらいましょう」
シルクリムは武器を放り投げて言った。
「見るだけじゃダメだと思うな。そう、見ているだけでは、その本質が見えることは無い」
シルクリムは足を閉じて手を広げる。それは教会に置かれている像と同じ構え。それは優しさと大きさを感じさせてくれるけれど、目の前にいる女神にも似たものは全然違う。逆が何かは解らないけど、逆という言葉に近い何かがある。
「我が名は偶像。神の化身として汝の力を見定めよう」
シルクリムから六色の魔力が放たれる。虹を七色とするなら不完全だけれど、綺麗な光だった。
「貴女の蒼天の輝きは、私の光を満たしますか?」
シルクリムの魔力から赤が頼りなく揺れて、炎を生み出して、次に紫が稲妻を、緑が溶けるようにして風に、黄色は無数の剣を、オレンジが樹木を、その中で青は何も生み出さない。まるで万物を生み出すみたいだったのに、青だけが何も生み出さない。その何も生み出さない青がわたしにはとても気になった。
でも一番気になるのは、これほどの力を持ったシルクリムに勝ったという魔王の力の底知れなさにある。
「世界とは光と闇、目に見えるものと見えないものでできているのです。貴女には見えないものが分かりますか?」
「シルクリム。世界はきっと、感じられるものとそうでないものでできてるんだよ。人にとっての世界は、結局はそういうものでしかないんだと思うの」
わたしが言葉を返すと、シルクリムは髪を風に揺らしながら綺麗に笑った。
「やはり、貴女はトキナだ」とても楽しそうに言った。「ただ、貴女の笑みは夏の太陽のようですけれど」
「トキナは季節の名っていう意味があるの。それで言うなら彼女は春で、わたしは夏になるのかな?」
魔力が交じり合おうとして、跳ねつけて火花を散らしているのが見える。戦いはもう始まってるんだ。
わたしの型捨無流はトキナとみんなから学んだものでできてる。わたしの「妖」形は無手での戦いになる。
「貴女の構えと私の構えを比較していると東西の神の像を思い浮かべますね」
「わたしは東」
「私は西」
「けれど、立っているのは北と南です」
「北の神を私は知りません」
「わたしも南の神様は知らない」
それでも、お互いに心で話せることがある。その言葉はきっと同じ、それは、わたしたちは――――
『――――戦い方を知っているということ』
お互いに魔術を発動前にキャンセルし合う。最初からこの魔術による勝負はわたしにとって開いた距離での有利を得させないためのものだから、急速に間合いを詰めて行って熊手で正拳突きを打ち込む。
シルクリムは優雅に足の位置を変えて最小の動作でそれを避ける。距離を詰めたことで魔力が干渉し合う状態では魔術は成功しない。それを確認したわたしは姿勢を傾斜させて溜めを作ったあとで肩を入れた体当たりを加える。その瞬間に加速して横に回り込まれるのが解ったから僅かに距離を取って構え直す。
左手は頭上より高く、右手は下段に構える。一度浅く息を吸って、その吸った息の百万倍くらいの力で相手とのギリギリの間合いに一歩踏み込む。
流れを感じさせない始点から終点のみで完成した貫手による一撃を、槍を突き入れるように繰り出す。それをどうよけるのかを先に読んで、足を地面に火が付くくらい早く動かして肘討ちを決める。
攻撃を受けたシルクリムが仰け反ったところで、無防備なお腹に横蹴りを入れると見せかけて、足を踏んで固定してから心臓を抉るようにして肘を突き込んだ。
シルクリムの心臓が一瞬止まるのが解ったわたしは追撃の為に足の位置を素早く入れ替える。火線を引きながら刹那の内に手刀で三打、顎と首と脇腹を叩く。どれだけ技が優れていても、それを封じる速さと技があれば怖がることなんかない。鉄砲だって引き金を引かせなければ意味が無いのと一緒だった。
とどめに肋骨の内側に指をかけて、本来なら思い切り引っ張る技だけれど、怖いから骨を握り潰すことにした。
けれど、技はかからない。わたしの手はシルクリムに触れる寸前で掴まれていた。
「やはり甘い。これでは修行になりません」
言葉が骨に響いてきたのを感じたときにはわたしの首には左右から、頭には後ろから衝撃が来て、次に頭の中に重りを入れられたような鈍い痛みがくる。続いて来る攻撃はなんとかかわして距離を取ると、集中の途切れを狙って打ち出された魔術の一斉射撃に思い切り当たってしまっていた。けれどこのくらいは体を覆っている魔力で相殺できるから平気だった。
「あ」
そうだった。シルクリムも魔力で体を覆っているから普段よりも頑丈なんだってことをわたしは完全に忘れていた。
「やはり貴女は妙に余力がある。一生懸命にやっているのは分かるのですが、良くも悪くも貴女はトキナと同じで全力を出さない。いえ、貴女は全力が出せていない分、トキナに劣る。貴女はその才能が高いから手加減が上手くできてしまう。もしも貴女が普通の人間であったなら、その手加減は通用しない無意味な攻撃でしかないでしょう」
シルクリムは一息吐くと魔力の色を重ねていく。それは段々と白くなって、やがて眩い光になった。
「仕方がありません。こんな汚れた感情を表には出したくないのですが、貴女は人の動きを読むのに長けているのですから、こうした方が分かってもらえるでしょう」
鉄がひしゃげるような嫌な音がそこかしこから聞こえる。シルクリムの殺気が大気を泣かせているのが解る。
「あらかじめ言っておきますが、私の白虹は月か太陽のどちらかが顔を出していないと使えない技です。この技がトキナにも使えるのなら、私は苦も無く彼女を討ち滅ぼすことができましょう」
シルクリムが自信満々に言い切った背後の白い光のアーチ、『白虹』は確かに強い力が感じられた。彼女が頭上に常に嵐を巻き起こしているのにはこういう理由があったんだとわたしは納得する。
「ここからが本番になります。せいぜい命を繋ぎとめることです」
白銀の虹が煌く。その輝きは刀の刃にも似た鋭さを感じさせて、わたしに確かな恐怖を与えていた。
「待って!」
わたしは戦いそのものへの怖れとは別の、戦いの内容に空手だということが不利なことを悟って怖くなった。
「……何でしょう?」
「やっぱり、刀取ってきてもいい?」
「ご自由に」
この人の前で大人ぶるのは絶対にできないなと、わたしは心の中で挫けてしまった。