十六話 季節の変わり目(上)
いつもは青く澄んだ空と冷たい空気、そして柔らかな陽射しが満たしている世界に今日は賑やかな音楽とそれに刺激されてさらに活気付いた人々の喧騒で溢れていた。
私はそれを城の尖塔の上から眺めていた。空は高く、広い。全身に吹き付けてくる風がその大きさを力強く感じさせる。
眩しい世界の綺麗な空、その空をごく自然のこととして飛んでいる鳥たちが、陽射しのせいか余計に眩しかった。
「サムライさん。姫様が探してましたよ?」
猫のようにふらりと現れたノイルは私の隣に座ると寝転がっている。
「ノイルは猫みたいだね」
思ったままを口にすると、ノイルは眼を瞑って陽射しの温かみに浸たるように目を閉じた。
「見立て遊びですか?それならサムライさんなんて翼を持った虎みたいなものですよ」
「可愛くない」
想像の余地もなくそう言うと、くつくつと笑われた。
「そういえばサムライさんって、見た目、身だしなみにはすごく気を遣ってますよね。ああ、女なんだなって気がしました」
当たり前のことを言ってまた笑い出すノイルには軽い殺意を覚えるが、今はあまり体を動かしたくなかった。
シルクリムとの修行を終えた私の体はさながら、熱した鋼が急に冷まされたような状態だった。つまり、かちこちになって悲鳴を上げているのだ。だから、今日は動かずに過ごしたかったのだが、
「エスタシアを寂しがらせるのは良くないよね。だって、任されたんだし」
気だるさを言葉で振り払い、塔から飛び降りると、トーマスを引き連れて泣きそうな顔をしたエスタシアが目に入った。
「トッキーどこに行ってたの? 心配したんだよ」
聞くたびに苦笑して思う。この愛称は何とかならないんだろうか。
しかし、今までに何度言っても無駄だった。子供特有の頑固さというやつは、思った以上にねばり強いものなのだ。
だから甘んじて受け入れる。何も本当に嫌だったりする訳じゃないのに尖るのは変だと思うからだ。
「ごめんね。それで今日はどうしたの?」
見れば市井の人のような服装をしている。髪も瞳も大陸ではよく見られる色に変わっている。
向こうを見るとトーマスは、忸怩たる思いを噛み締めるかのように軽く俯いていた。聞いた話によれば、エスタシアが生まれたときから傍に付いていたというのだから、横から攫われたような気持ちなのだろう。
そう思いながら見ていると目が合った。闇を焦がす炎のような、危うい目だった。
「――だからね。今日はお祭りを見て回るの。分かってくれた?」
わがままを私という助っ人を傍に置くことで承諾させたという説明だったかな。とにかくお祭りに行くのは問題無いので私は頷いた。
「エス」
「なあに?」
「私は少しトーマスと二人で話がしたいんだけど、いいかな?」
「うーん、うん。分かった。できるだけ早くね。大人の話って長くてイヤ」
「心得てるよ」
エスタシアは膨れ面をしながらその場から離れていく。時折、こちらを振り返っているのは好奇心なのだろう。私はその姿をしばらくの間見送って、中庭の大樹に寄りかかって座ったのを確認したところでトーマスの方を見た。
「どういうつもりですか?」
心なしか声も態度も尖っている。トーマスは私が好きになれないようだ。
「もう少し丸くなってくれないかな? 私は嫌われることをしたのかもしれないけど、その気持ちが間違ってエスタシアに向くのは嫌だから」
そう言うとトーマスは僅かに俯けていた顔を上げて私を凝視してきた。まるで初めて私を見ているようだった。
「そうですね。ええ、全くその通りです。騎士トキナ」
目に宿っていた炎が鎮められているのが解る。良かった。
「私は騎士じゃないよ」
その言葉にトーマスは困惑の表情を浮かべる。
「騎士ではないというのですか?! それほどの剣の技量を持ったあなたが、騎士でなくて何だと言うんですか?」
ここで、一つの答えを出せれば私自身は嬉しいだろう。けど、それは真実ではない。ならば、
「殺人鬼だよ」
真実を言うのが一番だと私は思った。
トーマスは面食らったように驚いて目を瞬かせている。
「殺人鬼、ですか? ですが、あなたからは血の匂いが、死の匂いがしない」
これには思わずくすりと笑う。するとトーマスは顔にある困惑をますます深めていた。
「死って言うのはね。普通は意識されるものじゃないよ。もしも死が常に意識されるものだとしたなら、人はみんな心を病んでしまうはずだから、それと同じように私も普段は意識されない、意識させないだけだよ。あははは」
最後は虚ろな笑い声を漏らしてしまう。その中に交じる確かな死の気配をトーマスは感じ取ったのか、畏怖の目を私に向けていた。
「……あなたは、殺人鬼なんて生易しいモノじゃない。死の化身だ」
「嬉しいことを言ってくれるね。そう、私はいつも命あるモノの隣にいるよ」
ただ嬉しいから嬉しいと言った。そんな私がどこか狂っていると、学んだ知識の塊が糾弾するのが解った。
「トキナ、様。あなたは、姫様をどうするおつもりですか?あなたがどのような人格の持ち主であれ、姫様を大切にしているのは分かっています。ですから姫様があなたと居ることを望む以上、引き離そうとは思いません。ですが、あなたの口から何か聞かせてもらわないことには不安なのです」
これが、騎士というものなのかと、私は感動した。
「私が言ったことをあなたが信られるかにもよるけど、トーマスは私を信じる力を持ってるの?持っていないなら、何を言っても始まらないよ?」
「信じましょう。我が剣を捧げし姫君に誓って」
その崇高な忠の精神、確かに見せてもらったよ。
「私は、あの子を継承者として育てていくつもりだよ」
「それは、その、殺人鬼にするということでは、ないですよね?」
「私の剣の理が「斬るに迷いは要らず」っていうだけだよ。あの子はきっと「自分を守って、誰かも守れる」剣を振るうよ」
「剣の理ですか…トキナ様、そろそろ話を切り上げましょう。姫様の我慢の限界が近いですから」
まだ何か物問いたげな表情をしながらも、エスタシアのことを思いやり、トーマスは話を打ち切った。
無言で踵を返してその場から離れていくトーマスの背中を秒にして三つほど数えて見送ったあとでエスタシアの傍に行くと、笑顔を向けられる。ただ、その笑みが普段とはどこか違う、菩薩像に下から光を当てたときほどまでとはいかないにしても、不思議な笑みだった。
「ねえトッキー。今日はお祭りなんだよ」
「知ってるよ」
「たまには違うもの着てよぅ」
私は風に乗って聞こえてくる噂を考えに取り入れる。現在、アッチェント王は遠征で不在であり、その関係で城内に不穏な動きがあると、今回エスタシアの外出が許可されたのも何か城から一時的に遠ざけることに意味があるんだろうか。
それ以前に、私はこの着物が気に入っているんだけど、万年着にしたって問題はないけど、大陸では着物は目だってしょうがないし、私が目立って、目立たないようにしているエスタシアに手間をかける訳にもいかないと思った。
「そうだね。でも寝巻きくらいしかないんだ」
「大丈夫、トーマスが用意しておいてくれたから」
何とも手際がいい。
そこで思考を打ち切る。これ以上はもう、下種の勘ぐり、野暮にもほどがあると判断したからだった。
僅かな時間を経て、姿見の前に立った私は鏡というものを疑った。
「目の色が、違う」
以前、大陸に来たばかり頃に見たときには確かに黒かったはずだ。それなのに、今では鳶色だ。これは、本当に鷹のような目になってしまったな。
いや、強そうでいいじゃないかと思うこととして、服装は質素な見た目だが、生地は良いものだし、たまには白い服装も良い物かも知れない。
私は部屋の外で待つエスタシアの所へと行き、その手を引いて歩き出した。
だが、城を出る前に一歩踏みとどまって振り返る。祭りを見るために置いてきた『季節名』を心配した。熟練した敵に武器を持っていることを悟らせないためのことではあるが、どうにも心細かった。
――そして、このことが私に逃れ得ないひとつの終わりを告げたのだった。