九話 涅槃
ラングとの苛烈な戦いは日が暮れても終わらなかった。
あまりの人外ぶりに「こいつの方がよっぽど魔物だ」と、そう呟かずにはいられない。ただし、心の中でだ。喉、もとい気道がそろそろ限界だった。それというのも、ラングが周囲のものを破壊してそれを燃やすことで熱と煙を出して私を苦しめようという策の成果だった。
大火の中に置かれた私は今一つ、集中できずにいた。炎への恐怖を増長させる肌を刺してくる熱、目と喉を突く煙。今や、世界も私の敵となっていた。
そう思ったとき、激しく咽る。口許を覆った手を見てみると、血が付いていた。限界なのか? そう思うのと同時悔しさが込み上げてきた。戦う内にラングが人間だった時の実力というものを把握しただけにその思いは一際だった。冥府魔道に堕ちてまで手に入れた力をラングが完璧に己の物にしていたのならまだしも、その恩恵にあやかっているだけなのだ。力に溺れ、力を過信したラングには侍として、負ける訳にはいかない。
ならば、勝つしかない。勝つためにはどうすればいいのか、距離を置いたまま火の妖怪と化したラングを注意深く見る。何かまだ見落としているとしたら、それは何なのか、見切れ、見切るんだ。そう自己暗示を強めて集中を高める。
やがて、視界に映るラングの姿が濃い影のように黒くなり、右胸の辺りに小さく輝く紅い光が見えた。 それを捉えた瞬間、勝手に体が疾走を開始する。頭の中にはその一点を突く、それだけしか考えられなくなっていた。
「くそっ」
ラングがそう忌々しげに呟く声が聞こえた。
気付いた時、私の刺突は寸前で止められていた。
一変していた視界は元に戻り、次の瞬間には眼前に炎の拳が迫っていた。
「ウアアアアァァァ――――」
今までに感じたことの無い痛みが左眼を襲った。紙一重で避けたところに飛んできた火の粉が炎へと変じて左眼を焼いているのだ。あまりの痛みに平常心を失いかける。
それを防ぐために私は躊躇無く左手の指を左眼へと突き入れ、抜き取って右側へと放り捨てた。残された右眼でそれを追うと、炎は消えることなく、そのまま私の左眼を灰にしたのだった。
やはり、斬撃を止められたときに感じたことは間違いでは無かった。
あの炎は、普通の炎ではないということだ。
「思い切ったことをする。そのまま痛みを持て余していれば、めでたく灰になれたものを」
――――まずい、左眼を失ったことに引き摺られるように右眼が光を失っていくのが解る。
窮地、そんな言葉が頭に浮かんで離れない。知らず知らずのうちに呼吸が乱れて速くなってきた。
「渇っ!」
張りの無い擦れた声ではあったが、精神力を高めるには十分な効果がある。私は頭の中を空にする。無我の境地とはいかないが、雑念を振り払う効果はあった。全身の血が冷えた水のようになって体を駆け巡る。音というものが遅くなっていって、やがて聞こえないのと同じになる。
澄み渡っていく、どこまでも、どこまでも。
左眼を失った空洞が風を受けて疼くおかげで脈がはっきりと伝わってくる。
「ハァァァ…」
私は跳んだ。高く、高く、風と一体となって、月を背に眺めるこの大陸の景色は、故郷よりもずっと広大だと解る。
心が踊る。この広大な大地にはまだまだ私の知らない素晴らしい世界があるんだと思うと、こんな所で終わりたくないと、強く思う。それは一筋の光明のようで、羨望や期待といった心を引き付けてやまない魅力があった。
掴みたい。この心に浮かぶ光を――未来や可能性と人が呼ぶものを、本気で。私は、今ソレだけを望んでいた。
だからこそ、今ここで、立ち止まるわけにはいかない。
落下する私をラングはどうするつもりなのか知らないが、「剛」が通用しないのなら、「妖」で攻めれば良い。もう一度、感覚を澄み渡らせる。手負いになったことで意思の力を超えた領分での力が、極限の力が解放された今なら勝機はある。逆を言えば、今を逃せばあとはただ衰弱していくしかないのだ。
運命というのが振り子だとしたなら、今は中心で止まっている。
生か死か、そのどちらに振れるのか。それを今から試す。
「型捨無流――光芒散花」
命名したのは組長だ。刀が月明かりを受けて振られ、幾筋もの光芒となって、それが散った花のように見えたことからこの名が付いた。はっきり言うと超高速の乱回転剣舞で、手数を重視した技ということだ。
最後の一振りが、剣舞が終わる。そうして光の花が散ったとき、ラングの命は――
「貴様ァ、やってくれたな…」
――散ってはいなかった。しかし、その体は切り刻まれ、あと一歩というところまで追い詰められていた。読んだとおり、一撃必殺の太刀は一撃、つまりはたった一度の攻撃だ。本来ならば止められる道理などありはしないが、ラングの妖術はそれを受け止めた。それは全力の一撃に全力の防御を行っているからであり、一撃だからこそ、勘の良いラングはその一撃が来る箇所へ力を集中して受けられる。
ならば、手数を増やせばその防御が追いつかなくなるのでは、そう思い立ったのだ。その予想は、見事に的中していた。
「終わりだあっ」
宣言と共にラングの拳が迫る。左眼という代償を払った私は、既に見切っている。空中で姿勢を巧みに制御して回避、着地する。
間合いは、十分に詰まっている。視界がさっきと同じ紅い光を捉えた。私は確信している。そこが、奴の弱点なのだ。
闇に塗りつぶされた世界を切り裂くように、私は、この戦いの決着に相応しい奥義を繰り出す。
そうして繰り出された刺突は、激昂して我を見失ったという予想に反したラングの下から突き上げる拳撃に弾かれ、私の手から離れた愛刀は、天高く宙を舞った。
「今度こそ、」
ラングが言葉を言い終えぬうちに、私は、その先の言葉を引き取った。
「終わり」
私の手に握られた短刀は、真っ直ぐラングの右胸を刺し貫いていた。燃え盛る大地は瞬く間に夜の暗闇を取り戻した。
「なぜだっ、いつの…間にっ」
「型捨無流奥義――ニルヴァーナ。その意味は、〈炎の消滅〉。私が、一番好きな外来語」
私が命名した奥義。それは私の怖れを消し去るという意味と、相手の命を炎に喩えたことから由来する。それにしても、初めて奥義を使うことになった相手が火の妖怪とは最高だ。笑いが止まらなかった。ただ、笑うと吐血した。それに炭が混じっているのを見て、私はどこか諦めたような溜め息をついてしまっていた。
私はとうに限界を迎えている喉に鞭打って、ラングに冥土の土産を持たせることにした。ただ、言葉は極力削らなければならない。
「いつの間に、違う。最初からずっと握っ、てた」
一尺四寸強の柄、それは柄と言う役割も兼ねた仕込み刀なのだ。そう、あの刺突は如何様だ。弾かれたことで得物を失ったと思わせて油断させたところで、神速の刺突を突き込む。
三段構えの最終奥義。その三段目が、前のめりとなったラングの首を刺し貫いた。炎が無ければ只人と同じ固さだということは、あの男の言から既に知れていたから、これで幕だ。首から愛刀を引き抜き、仕込みを納めて留め具を固定する。それと、そろそろ意識を失くしそうなので、私は最後の力を振り絞って、倒れたときに着物を汚さぬよう、筵を敷いた。
頭が痛くて割れそうだ。そう思ったとき、私の体が傾いでいくのが解った。