第四章 人の海 ─1─
──今まで神なんて存在信じてきた?
──神じゃなくてもいい、何か大いなる力でもいい
──それとも、今から神を信じる気になった?
────て────
──助けて、誰かたすけて──
──お願いだから助けてください──
もう──いやだ──
──助けを呼んでも誰も来ないのに、どうしてお前は縋るんだい───?───
──だって、お前が望んだ相手は現れないのに──
『────っ!! 』
目が覚める。
まるで全力で駆けた後のように息が荒い。
叫び過ぎたのか喉がカラカラだ。
でも声なんて出るはずがないのに?
その時点で、ソフィアは今まで見てたものが悪夢だと気がついた。
『──────』
瞼を閉じると、先ほどの光景が目に浮かぶ。
このまま眠っても、再び悪夢に戻ってしまいそうだった。
今や碧色の目は、はっきりと覚めてしまっていた。
彼女の足元で寝ていた小さい獣のウルルは、ソフィアが目覚めたのに合わせて体をモゾモゾと動かしたが、再び丸まってしまった。
隣のベッドでは、シャーリーがぐっすりと眠っている。
寝相が悪いのか、かけていた寝具がベッドからずり落ちてしまっている。
シャーリーは、素直な少女だ。彼女は目の前のことも、自分が思ったことも、そのまま受け止め、そのまま吐き出す。
自分を取り巻く世界に、何の疑いも抱かない。自分が奴隷として生まれたことすら、何の疑いも抱かないほどに、純粋だ。
私も、かつてはシャーリーと同じだった。自分の周りにあるものが全てで、何もかも、信じていた。
奴隷制なんて、身体に科せられた首輪だけで、人として扱われないなんて、どこか遠い世界の出来事で、実在するなんて信じていなかった。
人はみな、善良で、いい人ばかりなのだと信じていた。
そう、純粋だった、のだと思う。
ベッドからはい出て、シャーリーのずり落ちた寝具をかけなおす。
夜風に当たるために裏庭に出た。晴れた、静かな夜で、夜空には幾万の星が輝いていた。
故郷から見える星空とは異なる景色を、もっとよく見上げようとする。顔を上げると、首筋の後ろが痛んだ。指先で触れた先には、はっきりと分かる、焼印の痕。
──私が道具だと示す所有の証。
生ぬるい風がソフィアの頬を掠めていく。
『────』
ずいぶんと、遠い世界まで来てしまった──
この地で、かつての私──まだ道具になり果てる以前の私を知っているのは、太陽と、この、星空ぐらいだろうか。
──たとえ、君が自分を道具だと見なしても、
俺は君を人間だと呼び続けるよ──
──あの人は、私のことを、まだ、人間だと呼ぶ。
もしも、もしもあの人が私の全てを知ることがあったら、それでも、まだ、人間だと呼んでくれるのだろうか、それとも──……。
星空は、地上で光る、小さな碧色の瞬きには構いもせず、ただただ、光り輝いていた。
「君の書斎は随分と質素すぎやしないか? もう少し飾りたてたりしないのかい? まあ、君らしいと言えば君らしいが」
フランベルグ・グライスナー──アイザック様の古い友人でありアルケミア帝国軍人の貴族──は世辞なのか皮肉なのかよく分からないことを話す。
「それは、誉め言葉と受け取っていいのでしょうかね、フラン殿。私にはこれくらいで十分ですよ。必要以上に物があっても、持て余すだけですから」
アイザックは、フランベルグのこういった発言には慣れた様子で返事する。
フランという男は、若さ特有の、漲るような力を発しながらも、年老いた者にしか見られない、研鑽され、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さを持ちあわせる男だった。
アイザックと親しい彼は、最近までは帝国南東部の属州で任務に就いていたが、この度昇進し、帝都で新しい任務が与えられたらしい。
彼曰く、「正式に昇格するとまた忙しくなってしまうのでね、今のうちに君と雑談しているというわけだ」
と言って、ここ最近はアイザックの屋敷をよく訪れている。
アイザックが義肢の仕事のために他の貴族の屋敷を訪ねることはあれど、アイザックの屋敷にフランベルグ以外の他の貴族が訪れるのを、ソフィアはほとんど見かけたことがない。
その日、ソフィアは、アイザックが指示した本を書庫や書斎から取り出す手伝いをしていた。今日はフランベルグと歴史書の話題について盛り上がっている。
書物を運んでいない間は部屋の隅に控えて二人の会話を聞いていた。
「ああ、誉めているつもりさ。君の素朴さと、時折現れる出鱈目な性格がよく反映されているとも言えるね」
「出鱈目ですか?私が?」
「そうかね、では、頑固さとでもいうべきかな。君はなかなか温和に見えて、一度決めたら曲げないからね。書斎は主人の性格をよく反映するものだよ。なにせ、客人を迎える公の間でありながら、個人的な思想にふける瞑想の場でもあるのだからね」
「はあ……私自身は結構流されやすい性格だと思っているのですがね。性格が反映されていると言えば、フラン殿の書斎は貴方の大胆不敵な性格がとてもよく表れていらっしゃいますよね、色遣いや、調度品の選び方などが、特に」
「いやいや、あれは周りの者が中々うるさくてね、帝国軍上級士官としてはこれでも、最低限の設備に整えているつもりさ。本当だったら君みたいに自分の好きなものだけを好きなだけ散らかしておきたいものだよ。残念ながら、夢の書斎は引退するまでお預けだろうがね」
フランベルグは、片付けきれずに書斎の隅に積みあがった書籍の山を指さして言った。
昨晩、アイザックがずっと格闘していた書類で、片付けるのが間に合わなかった山だ。
「ははは……。フラン殿が書斎にこもる姿など、私にはまだまだ先に思えますよ。ここ最近までまたあちらこちらを飛び回っていたではないですか。次の任務への準備ですか? 」
「そんなところだね。半分は私の個人的な用事だがね。そうそう、今度の祝賀会には私が飛び回った先で出会った友人たちも招待したんだ。君にも紹介しよう。君が書籍でしか知らない西方からも何人か出席する」
「それは、楽しみです。私はなかなか帝国外の人と出会う機会に恵まれないので……この足では遠くへ出かけるのも何かと不便ですからね」
「君も一度は大砂漠越えくらい体験するといい。あちらは何度訪ねても飽きないぐらいだ。見た目から文化から全て帝国とは異なるからね」
そこで、何を思ったのか、フランベルグは、突如部屋の隅のソフィアへと視線を向けた。
ソフィアは、フランベルグの何かを見透かすような視線に身を固くした。
大抵の人々は外見の珍しさから、初見ではジロジロと観察してくるが、一度慣れてしまえば奴隷であるソフィアを注視するものなどいない。
空気のようにただ存在していたソフィアは、突如、自分の身体が実体を得たような気分になった。
「そう、君も銀の髪と碧眼の瞳だったな」
フランベルグから、害意と言ったものは感じられないが、ソフィアは、彼の言葉に身を震わせた。
「フラン殿、ソフィアに何か用ですか?」
「彼女はどこから来たんだ?」
「それは……実は聞いていないのです。その……答えにくそうにしているもので」
アイザックはソフィアの方へ横目をやりながら、答えた。
アイザックは、私の出自や、過去について、極力詮索しないでいてくれる。
なぜ詮索しないのか、逆に不思議なくらいだが、ソフィアとしてはありがたかった。
「彼女みたいな珍しい人種に何も聞かないでいる君の対応には、時折驚かされるがね。私がヴラディミールを──君も何度か会っただろう?──南西の小島から拾ったときは、彼の故郷や文化について一晩中訪ね倒して、彼の方が先に話疲れてしばらく口が回らなくなったくらいだ」
「彼女は、以前の主人の元で辛い目にあったようなのです。ですから……」
アイザックのソフィアに対する視線はますます同情的になっていた。
「ふむ──君の奴隷だ、君の気が済むようにすればいいが」
フランベルグは、深くは触れる気がないようだった。ソフィアは、内心で少しほっとした一方で、先ほど彼が話した内容が気になった。
「話を戻そう、ソフィアと言ったか、彼女を見て思い出したんだよ。今度の祝賀会で来る予定の客人の一人がね、銀の髪と碧眼の珍しい奴隷を連れてくると手紙で綴っていたのだよ。もしかして同じ人種なのではと気になったのだよ」
「えっ!」
『──!』
アイザックとソフィアはほぼ同時に驚きの声を上げていた。もちろん、ソフィアは内心でだけだったが。
「私自身もその奴隷を見たことはないから、推測でしかないがね。その主人曰く、その奴隷は中々にお気に入りらしく、最近はいつも連れ周っているそうだよ。祝賀会も連れてくるかもしれないな」
「私も、ソフィア以外で彼女と同じ人種の人々は見たことがないですからね……確かに、他に居てもおかしくはないのですが」
会話を聞いている傍ら、内心ではソフィアも驚いていた。
──まだ、私以外にも誰か残っていたのだろうか。
一方でそんな希望を今更抱いても無意味だという気持ちにも駆られる。
「私もここしばらく、実際に会ってはいないのだがね、主人自体も中々に興味深い人柄をしているよ。変なものを集めるのが趣味なんだ。君とも気が合いそうだし、祝賀会の席で紹介しよう」
「ええ、それはぜひにでも。その主人とも、その奴隷とも会ってみたいものです」
ソフィアは、フランベルグの言葉に気を取られるあまり、アイザックの声色が、いつもは異なることに気がつかなかった。
「祝賀会と言っても、正式なものではないし、肩張ることはない、気楽に来るといい」
「いえ、私のようなものを頭数に入れてくれるなど、恐れ多いことですよ……他にはどのような方がいらっしゃるのですか?」
「あと、君の兄上、ヴィルフリートも、もちろん来るさ。ハハハ、そんな顔を浮かべなくてもいいだろう? そんなに仲が悪かったか、君たちは──」
別の話題へ移ったようだった。アイザックには兄弟姉妹がいると聞いたことがあるが、ソフィアは会ったことがない。
「私がそんなに渋い表情を浮かべているように見えますか? いえ、ヴィルフリートは貴方と親しいのですし、当然でしょう」
「自分で言ってしまっているではないか。最近は会っていないのか?」
「私の屋敷は御覧の通り、好き勝手散らかっていますからね、ここにやってくるのはフラン殿くらいですよ」
アイザックは先ほどのお返しとばかりに冗談を返す。
「オズワルド家は代々お堅いからね。それと、その言い方ではまるで私が物好きみたいではないか。祝賀会では隠しておいてくれたまえ」
「グライスナー家が大胆すぎるのですよ」
アイザックにも、親や兄弟がいる。当然のことではあるし、マイセルやパルムが話しているのをたまに聞く。
けれども、ソフィアにはアイザックの家族の想像がまったくつかなかった。
帝都に住んでいると聞くが、義肢で暮らすアイザックを訪ねない、というのはいささか冷たいような気もする。
アルケミア貴族と言うものが、一般的にどのような秩序をもって生きているのか、アイザックしか知らないソフィアにとっては、知りようのないことでもあるが。
「──おっと、そろそろ戻らねばならんな」
「もうそんな時間ですか」
時刻を知らせる鐘が響いた時、ソフィアは我に返った。
フランベルグがどうやら帰るらしい。
アイザックと共に、屋敷の前でフランベルグを見送ったソフィアは、再び書斎へ戻ってきた。
書斎の机の上に出したままの書籍を元の場所に戻す。
アイザックが無理な姿勢をして怪我したりしないように、彼が頻繁に使うものは、大体低い位置に置かれていた。
あまり使われないものは書庫や、梯子を使って高い位置に収められている。ソフィアは手慣れた手つきで本を戻していく。
片づけが終わると、書斎を出る。
廊下で何人かとすれ違った。
一部の者を覗いて、みなソフィアと接するときはどこか遠慮がちだった。屋敷に来たばかりの頃の印象が強いのだろう。
怪我から回復したのもあって、当初よりも周囲の様子が分かるようになったソフィアだが、今更、特に彼らと親しくするつもりもなかった。
次に、今朝がたマイセルに言いつけられた用事を片付ける。
一人で作業をしている分には気楽でいい。
仕事が忙しければ、考え事もしなくて済む。過去も、未来も、現在すらも。
けれど、今日は違った。
フランベルグから聞いた言葉が、何度も脳裏を横切り、作業は遅々として進まなかった。
仕事を片付けると、夕食の時間になっていた。多くの者は、食堂で済ませてしまう。
みな今日あった出来事について雑談しているが、会話にも特に加われないソフィアは、食堂の隅で手早く食べて部屋に戻ってしまう。
今日は、食堂にすらいる気分でなかったので、自分の部屋に持ち帰ることにした。
隅の机に置いてあるパンを懐に入れ、スープを椀に汲む。
食堂にいる間にも、特に誰も話しかけてこない。
後ろから、声がかかった。
「あれ? ソフィアはここで食べていかないの?」
シャーリーだった。
私に、話しかけてくる、数少ない人間。
その視線は、いつも好奇心を抱えている。
「部屋で……食べるの?」
ソフィアが離れの方を指さすと、訪ねてきた。
頷き返すと、
「そっか、じゃあまた後でね」と少し残念そうにしていた。
部屋に戻ると、籠の中でウルルが鳴いた。
扉を開けてやると、嬉しそうにソフィアにじゃれついてくる。彼女が、ベッドに腰かけると、ウルルも飛び乗ってきた。
ひと月前は、部屋の隅に寄った埃か、毛玉同然の状態だったが、手当の甲斐あって、今ではすっかり毛並みもよくなった。
他の人々にはまだ警戒心を見せるが、ソフィアにはすっかり懐いてくれた。
──お前もただ、こわかっただけなのよね?
──ある日突然、訳もわからず住処や家族から切り離されたのだから
ソフィアは懐からパンを取り出すと、千切って手のひらにのせる。ウルルは器用に前足でパン切れを掴み、ソフィアの膝の上で嬉しそうに食べだした。
その様子を、ソフィアはスープをすすりながら眺める。
パンが無くなると、ウルルはもっとねだるかのようにソフィアに近づく。
──もう無いんだよ。お前がほとんど食べてしまったからね。すっかり食い意地が張るようになってしまったね。
ソフィアが空になった手のひらを差し出すと、ウルルは顔を押しつけ、長い尾を腕に巻きつけてきた。
ソフィアは愛らしい獣の頭を撫でてやった。獣は、キュゥと、鼻先から甘い声を出す。
──あの仔も、よくこうしてじゃれついてきたものだった。
それまでは、くつろいでいた表情を浮かべていたソフィアの顔は、突如切なげな顔へと変わる。
ソフィアの手が止まったのを不思議に思ったウルルが見上げると、うつむき気味になったソフィアの視線とちょうどぶつかる形になった。
器用に彼女の肩によじ上ったウルルは、彼女の頬を舐める。
──心配してくれているの?
獣と言うのは感情に敏感だ。元々が野生だとさらにその傾向が強い。
──お前も、私も、似たような境遇だものね。
この世界で、ただ一人
ウルルは、ソフィアの心情を知ってか知らずか、ただひたすら、顔を摺り寄せてきた。
──やっぱり、あの件は、アイザック様に頼んでみるべきだろう
しばらくウルルを眺めつつ、考え込んでいた彼女は、ある決断を下す。
『────』
たどり着いたのは、アイザックの書斎の前。
『────────』
「あれ、ソフィア?アイザック様になにか用か?」
アイザックの書斎から、パルムが出てきたところだった。
アイザックが中にいるか尋ねるべく、書斎の方を指さすと
「アイザック様ならまだ中で書き物してるぞ。もう夜も更けてきたし、あまり長く話し込まないようにな」
と言って去っていった。
『────────』
しばらく書斎のドアを眺めていただろうか、
もう一度、筆記版に書いた内容を読み返し、ドアを叩いた。
中から返事が聞こえると、ソフィアは、この屋敷の主人の書斎へ入る。
フランベルグが来た時に使っていた机は、すでに書き物だらけで表面が隠されてしまっていた。
どうやら新しい義肢の設計中のようだった。
普段はきっちりとした性格だが、何かに熱中してしまうと結構ゆるんでしまうらしい、という事が傍らにいるうちに分かってきた。
「ああ、ソフィアか。どうしたんだ、こんな夜更けに?」
書斎の主は、意外そうな表情を浮かべた。
無理もないだろう、仕事のある昼間はともかく、ソフィアが用もなくアイザックを訪ねたことなどなかったのだから。
彼に頼みごとをするのは、ひと月ほど前のウルルの件以来になる。
フランベルグの話を聞いてから、今まで、ソフィアの心を占めていたこと。
ソフィアは、筆記版に書き込んだ内容を主人に見せた。
2019/06/28 サブタイトル変更 本文修正