第三章 仕事と報酬と ―後―
第三章 仕事と報酬と ―前― からの続きです。
「今回はまた一段とにぎわってますね。お、あそこが空いているようなので止まります。ここら辺で大丈夫ですか? 」
「ああ、構わない」
ルシオの店を後にした一行が、中心部で開かれている市へやってきた時には、太陽が頭上へ登り切っていた。
今の時分では日差しもかなり強い。どこも人込みでにぎわっており、フィデルは馬車を広場から少し離れたところに泊めた。
「アイザック様―――! 」
馬車を止めたとき、パルムやシャーリー、他の屋敷の者数人がやってきた。
「ちょうどいいところに来たな、俺の代わりに誰か馬車を見ておいてくれないか? 今日はどうしても見たい店があるんだ」
フィデルは、他の使用人と場所を交換して馬車を降りた。
「アイザック様、探していた本は見つかりましたか? 」
パルムが馬車のドアを開けて、アイザックが降りるのを手伝う。
「ああ、大収穫だ」
「じゃあ、しばらくはアイザック様を書斎の外で見ることはなさそうですねぇ。お、ソフィアも今日は何か買うのか? 」
パルムはアイザックに続いて降りてきたソフィアにも声をかける。ソフィアは首をかしげた。
彼女は今、強い日差しを避けるため、スカーフを顔全体に巻いている。もっとも、これには銀の髪を隠す効果もあった。様々な人種がごった返している帝都と言えど、彼女の銀髪は目立つ。
「ま、ぶらぶら見るだけでも楽しいぞ」
「ソフィア! さっきあっちに珍しい菓子が売っているお店を見たの。一緒に行こうよ」
「おいおい、シャーリー、まずはアイザック様の用事が先だろう? それにお前、さっき一度菓子買って食ってたんじゃないのか」
「そうなのか? シャーリー、今度は腹を下さないようにな」
「アイザック様、なぜご存知なのですか……! 」
パルムを筆頭に、シャーリーをからかいながら、一行は広場へ向かって歩いていく。
市では、装飾品や、香辛料、布地や武具を売っている店まで、多種多様である。
帝都の中心部だけあり、集る人込みの規模大きく、広場は熱と埃で蒸している。
一行は時折店先で立ち止まっては、また次の店先へ、目当ての物や欲しいものがあれば購入し、徐々に中心部へ近づいてゆく。
「すごいなぁ。帝都でいつも売ってるものと、全然違うものばかり」
シャーリーは開いた口がふさがらないままに歩いている。
「シャーリーは帝都育ちなのに市には来たことがないのか? 」
シャーリーと一緒に市に来るのが初めてのアイザックは、軽く聞いてみた。
「私は帝都でも中心からちょっと離れていたお屋敷に仕えていたんです。時間もなかったし、行っても何か買うお金もないので来なかったんです。見てるだけでも面白いなんて想像つかなかったし……ほら、いつもの市場くらいならともかく、こういうのって、貴族様とか腕輪持ちのお金がある人が来るところだと思ってたんですから」
「確かに、はるばる遠路から来た商隊の品は総じて高価になりがちだからな……」
周囲を見渡しても、客らしき人々は腕輪をつけていて、かつ生活にゆとりのありそうなものばかりだ。たまに、指輪を嵌めた人々もチラホラ混じっている。といっても、さらに高価で貴重な品々は、お得意に直接売り付けに行くだろうから、ここで扱っているのは主に中の上くらいの品ぞろえなのだろう。
「私の前のご主人さまは腕輪持ちの、農家の方でしたし」
シャーリーの元主人はさほど裕福ではなかったのだろう。ただ単にこういったものに興味がなかっただけかもしれない。
「さぁ! こいつは西でも珍しい、金と緑の瞳を持った奴隷だ! 銀貨5枚?8枚、10枚が来ましたよ! 」
道の先で、ひと際大きな人込みを作っているのは、奴隷を売っている隊商だった。
売られている人々は両手両足に鎖を付けられ、首には重々しい鉄の首輪が嵌っている。
奴隷たちの目は、西からはるばる輸送されてきた疲れからか、それともまた別の原因なのだろうか、一様に虚ろな色を映していた。
「──────」
西方の諸国ではアルケミア帝国のように指輪と腕輪で階級の管理をしないという。
──首輪だけは、西の端まで行っても同じなのだな──アイザックは、奴隷商の人だかりを横目に見ながら思う。人間に首輪と鎖をつないで道具に貶めるなど、誰が一体最初に考えついたのだろう。今や奴隷制度は、些細な違いこそあれ、世界中どこに行っても存在する。
アイザック以外も、主人の心中を察してか、口をつむぐ。ソフィアはうつむいて歩いていた。
「お、ここですよ! 悪いんですが寄ってもいいですか? 」
気を使ってか、はたまた偶然か──おそらく後者だろう──奴隷を売っている集団から抜け出すと、フィデルはある一軒の店先で止まった。その声色は、普段のフィデルからは聞くことのない喜びの音色に満ちている。
「まーたお前は変な動物の店か? 俺たちは先に行ってるぞ」
パルムがやれやれと呆れた態度を取りながら先へ進む。
フィデルが立ち止まった店──布製のテントを組み立てた臨時的な露天商──は賑やかな、それでいて奇妙な音に満ち溢れていた。
足の鎖を止まり木と結びつけられた、くちばしが体に対して異様に大きい鳥は、ラッパに似た破裂音を出し、隣の大きな籠の中に詰められた、毛の長い、緑色の苔のような塊は、突然動き出したかと思えば、甲高いネズミのような鳴き声を上げだした。
確かにもの珍しくはあるが、アイザックにはたまに見て面白い程度にしか感じられない。フィデルがそれほどまでに熱を入れるのはよく分からなかった。シャーリーや他の数名もしばらく覗いていたものの、すぐに飽きてしまった。
アイザック様? と声をかけてきたパルム達とはぐれないよう、アイザックも歩き始めた。もう一度フィデルの方を振り返ると、ソフィアも店先に留まっているのが見えた。
「ソフィア?」
こちらの声が聞こえていないのだろうか、ソフィアは、店の片隅に積んである小さな籠の前でしゃがんでいる。
アイザックはパルム達に先に行くよう合図すると、ソフィアと籠の方へ近づいた。
籠の中には、灰色の、毛玉のようなものが入っていた。最初は動物たちの抜け毛のようにみえたそれは、ソフィアが籠に手を近づけると突如動いて、顔を合間から出した。毛玉だと思っていた部分の大半は尾だったらしい。
「ずいぶんと長い尾だな」
「!」
ソフィアは獣の方に集中していたのか、かけられた声に一瞬跳びはね、正体がアイザックだと確認して安堵した。小さくうなずくと、再び獣の籠へ向き直る。獣の方は、籠に近づくソフィアの指へ鼻先を向け、警戒しているように見えた。
「こいつが気になるのか?」
ソフィアがコクコクと頷きながら、指を動かしている。籠の隙間から鼻先をだす獣にあとわずかで触れそうな瞬間、獣は彼女の指先に噛みついた。
「あっ」
あまりの素早い噛みつきっぷりに、アイザックはついつい言葉が漏れてしまった。しかし、彼女はすんでのところで手を引き抜いていたようだ。
「ああ、お客さん、そいつには手を出さない方がいいですよ。狂暴ですからね」
他の客の応対がひと段落してこちらに気が付いたのだろう、店の主人がこちらに向かって声をかけてきた。
「以前悪ガキどもがひどく驚かしてねぇ、その時ケガ以来すっかり警戒心が強くなっちまって」
毛がふさふさ生い茂っていて気が付かなかったが、注意深く観ると、あちこちの部位には、毛の生えていない、傷跡らしきものがある。
「なつきもしないし、困ったものです。北との境界あたりから来た珍しいやつですが、こうもなつかないとねぇ、買い手がつかなくって。今はだいぶ値引きしたんですが」
──その言葉の意味する先は、「処分」なのだろう。似たような会話をどこかでしたのだった。あれは、ソフィアを奴隷商の元で見たときだ。
ソフィアは、話を聞いて、さらに興味をひかれたようだった。身振り手振りで商人に何か言おうとしたが、うまく伝わらないので筆記版を取り出して、何か書こうとする。
「彼女、声が出せなくてね」
一応、不思議そうにする商人に補足する。
『この子ははいくらでしょうか?』
「ああ、おまえさん、そいつが欲しいのか?今はね──」
商人が示した金額は、北の珍しい生き物という点を踏まえれば、確かに値引きされた安めの金額ではあった。しかし、今まで得たソフィアの賃金では手が届くものではないだろう。
「──」
『もう少し値引きしていただけないでしょうか』
「うーん、それでもいいけどねぇ」
何度か交渉して少し値段を下げてもらったが、それでも依然、ソフィアに払えそうにない。彼女は珍しく、落胆の感情のようなものを見せていた。
「ソフィア、どうしても欲しいのか?」
普段は物事に関心を示さない彼女が、こんなにも執着を見せるのも珍しくて、アイザックまで興味を惹かれてきた。
『気にはなるのですが、無理なら、仕方がありません』
彼女は首を振りながら答えた。そのあとも、名残惜しそうに獣の籠の方に視線を投げかける。
なんだか見ているこちらも悲しくなってくるようなたたずまいだ。
「ソフィア、どうしてこの生き物が欲しいんだ? 他のだったらまだ手が届く生き物がいるんじゃないのか」
店先で群れて箱の中にいる雛鳥を指さす。それなんかは割と安い価格で売られている。
『────』
ソフィアは獣の籠をしばらくじっと見やった。
『私が幼いころに拾って育てた獣がいました。怪我をしていて、親からはぐれてしまったその仔ととても似ているのです。おそらく種類は少し異なるのでしょうが』
彼女が幼いころに拾って育てた生き物、今でも似た獣を見ると思い出すほどに、さぞかわいがっていたのだろう。ソフィアが過去を懐かしむほどに惹かれる獣。
「昔飼っていた……そう、だったのか。ならこいつでなければだめ、だよな」
いつのまにか、あれやこれやと理由をつけて買おうとする、自分がいる。
獣の傷ついた姿と、潤んだ瞳がどこかソフィアを連想させるからか。これは、同情なのだろうか? だとしたら、獣への? それとも、ソフィアへの──?
かと言って、先ほどのサヘルの店でのやり取りの後だ。ここで他のもの達を差し置いて、ソフィアを優遇したら、それこそ彼女の指摘通りになってしまうのではないか──?
『────』
「うーーん」
アイザックは無意識のうちに唸っていた。
「金が足りないなら、貸そうか?ソフィア」
ひょっこりとフィデルが二人の背後に立っていた。
「途中から聞いてたぞ、珍しく、随分と熱心そうじゃないか。ソフィア、俺の金で足りるなら貸してやるよ」
ソフィアはフィデルのことを意外そうに見つめている。
「お前さん、アイザック様の仕事の補佐してるんだから賃金の払いも悪くないんだろう? それならすぐに返ってきそうだし」
「フィデル! とは言ってもお前、そんなに持っているのか?」
「まあですね……この前賭けで勝ってひと山当てましてね。普段使わない分と合わせればそれなりにあるんですよ。今日は金もあるから市を覗いてるってわけです」
この男が動物以外にさほど執着しているのは見たことないし、使わなければそれなりの額はあるのだろう。
「で、ソフィアはどうする?」
ソフィアは、呆気にとられた後、フィデルに答えを催促されたのに気がついた。了承とでもいうように両手を胸の前で合わせて頷く。
「商談成立、だな。あ、その代わりでもないが、屋敷で俺にもみせてくれよ」
フィデルは大きく口を開けて微笑むと──そんな表情のフィデルもまた珍しい──懐から数枚の硬貨を取り出して、商人へ言われた額を払った。
「どうも。噛まれないよう気をつけてくださいね。返品はできませんから」
商人は念を押して、獣を携帯用の小さな籠へ移し替えると、こちらに渡してきた。フィデルが籠の上部についている持ち手をつかんで受け取る。
ソフィアは喜びのあまり、筆記版に書きつけ、フィデルに見せた。
『どうもありがとう、フィデル』
「えーと、ソフィアは、なんて言ってるんです? 」
「ソフィアはお前に礼を述べているんだ。かなり喜んでいる」
ありがとうの文字が、いつもの端正な書体よりも、若干文字が跳ね気味に書かれるくらいには、喜んでいるようだった。
「ああ、金を貸しただけなんだ、礼を言われるほどでもないさ。その分頑張って働くんだな。読み書きができる分アイザック様に重宝されるだろうし」
先ほどのルチオの店での会話を聞いてなかったフィデルは、何気ない口調で言った。
「『ええ、今の倍働いて、すぐにでも返します』だと」
ソフィアが書いた文章をアイザック自ら読み上げてフィデルに伝えるのは、何とも心ぐるしい。
「そろそろ、見世物も始まる頃合いだろうし、パルム達に追いつくとするか」
パルム達は中心部に近い店で、買い出しを進めているはずだ。三人はゆっくりと歩きだした。
中心部に近づくにつれ、人同士の間隔はさらに狭く、音はさらににぎやかになってきた。広場の中心にある噴水あたりからは、人々の歓声も聞こえてくる。
「ソフィア、狭いからはぐれないようにするんだ」
すっかり籠の中の獣に夢中になっているソフィアがはぐれないよう、アイザックは声を張り上げて後ろを振り向いた。フィデルは先頭に立って二人の道中を切り開くように歩く。
ソフィアは、騒音で聞こえなかったのか、籠から目を離してこちらに何用かと見つめてきた。
「ソフィア!」
『────!』
アイザックの背後から、描けてきた人物の肩が、ソフィアの右肩と激しくぶつかる。両手で籠を抱えていたソフィアを、アイザックはつかもうとしたが、一歩間に合わずスカーフしかつかめなった。彼女はそのまま籠を抱きしめるようにして倒れた。
「ソフィア!大丈夫か!ソフィア!」
アイザックは倒れたソフィアの元へしゃがみこむ。ソフィアはすぐに上半身を起こした。アイザックがスカーフを引っ張ったせいで、銀髪が肩に滑り落ちている。何事かと、籠の中で獣が叫んでいる。
「怪我はないか?」
一瞬何が起きたか分からないようだったが、ソフィアは頷く。
「おい、お前さん。うちの屋敷の者を倒しておいて介助もなしか?」
フィデルは、傍らで驚いて突っ立っていた中年男性に近づく。ソフィアを肩ではじいてしまった男だ。
「お……お前、その銀髪」
「おい、謝罪くらいはしろよ」
フィデルが詰め寄る、が男はソフィアを凝視している。ソフィアは、籠の獣が無事なのを確認してからやっと、男の方を向いた。
『────!!』
ソフィアが、息をのむ。
「その眼──お前は、あの──敷にいた……?」
男は、小声でぶつぶつ独り言のように話していてよく聞こえない。
「ソフィア? 知り合いか? 」
アイザックが尋ねても、ソフィアは答えない。中年男と互いに見つめあっている。
「首輪……?でも、どうして、まだ奴隷な──かやっている──…?お前も──何か──気な──か」
「さっきから何をぶつぶつと言ってるんだ?」
フィデルが、更に一歩、中年男に踏み込むと、男は「ひっ」と悲鳴を上げて走り去ってしまった。
「あっ!おい!」
人込みの中に紛れ込んでしまい、あっという間に見えなくなる。
ソフィアが倒れたことで、少しだけ空間を開けていた周囲は、ただの接触事故だと思ったのだろう。ソフィアが完全に立ち上がって隅へ移動するころには元の人の流れへ戻っていった。
「さっきのは、知り合いか? 知ってるようなそぶりだったが」
ソフィアは、頭を振って、無事だった筆記版で答えた。
『いいえ、向こうが勘違いしたのだと思います。私も、一瞬知人に似ていたので勘違いしただけです』
「……そうなのか。それにしても大した怪我がなくてよかったよ、ソフィアも、その獣も」
「ちょっと揺れただけだからなーよしよし」
フィデルは隣で籠の中の獣を落ち着かせようとあやしている。
『私の不注意でした。申し訳ありません。移行気をつけます』
「いやいや、いいんだ、無事ならそれで」
「スリでもなかったみたいでよかったですよ」
フィデルが補足した。
「確かにな。ソフィアもそいつも落ち着いたようだし、今度こそパルム達と合流しないとだな。噴水の近くで待っていると言っていた」
一行は再び、人込みの波に乗って、中心部へと流れだした。
「待たせたな」
「アイザック様、パルム達はまだ残りの買い出しをしているところです。残りの者達は適当に自分たちの買い物をしています」
「そうか」
「あと少しで見世物が始まるそうですよ。お先にご覧になっていてくださいとパルムがから伝言です」
広場中心部にある噴水では使用人の一人である、テオが待っていた。
「間に合ったな。テオは、観に来ないのか?」
「私は他の者たちが集まったら追いつきますので、お気になさらず」
「今からご覧いただくのは稀代の奇術師、アシャールの空中活撃。今回ははるばる大砂漠を越えてやってきた! 」
歓声と拍手に迎えられ、芸人たちの棟梁らしき人物が口上を述べる。
アイザックたちは木で臨時的に組まれた観覧席に座っていた。座席は周囲より人の背丈の二倍ほど高くなっており、正面の演目がよく見える。
観覧席に入るには少額払わなくてはならなかったのだが、人込みで歩き疲れたアイザックとしては、座って休めるところが欲しかったので助かった。
周囲には他にも貴族や、身なりのいい商人らしき人物が座っている。多くの庶民は観覧席以外の場所からタダで見ようと、設置された舞台の周りに集まっている。
『よく、このような見世物をご覧になられるのですか?』
右隣りに座っているソフィアが、尋ねてきた。
「時折だけどね。機会があれば観るようにしているんだ」
「──続いて片足のベール! 彼はなんと一本しかない足で綱渡りを披露いたします!」
「雑技団や芸人たちの中には、手足が無い者たちがたまにいるが、彼の出し物は、みな目を見張るものばかりなんだ。私と同じとは思えないくらいに、ね」
『だからアイザック様は、見世物がお好きなのですか?』
「それもある。彼らの姿を見ていると、こちらも励まされるからな。手足の一本や二本、無くても、可能なことは数多あるのだとね」
「右足を事故で無くしてふさぎ込んでいたと気に、気晴らしにと無理矢理見世物に連れられたことがあったんだ。最初は渋々見ていたんだがね、その時に同じように右足を失った芸人の出番がやってきた」
──左足も無く、今後一生不自由に、生きていかなくてはならないと落ち込んでいたアイザックにとって、彼は衝撃的だった。
健常者に負けず劣らず、片足であることをものともせず、時には冗談で自身の肉体を話術の種にして、観客を「魅せる」姿に、アイザックは励まされたのだった。
残念ながらアイザックはそこまで肉体的に敏捷でなかったので、旅芸人の真似事まではできなかった。
それでも、事故後のリハビリは懸命にやった。今でも見ているだけで人の可能性の深さを教えられているようで、胸が躍る。
「──炎の魔術師、火吹きのヤニック! 火傷にご注意あそばせ!」
『それは、確かに心温まる話ですね。芸人としても励まされる話だったのではないでしょうか』
「──もちろん単純に、彼らの技術にも感心しているけれどね。人が持つ力はこんなにも奥が深いのだと。持てる自身の能力を最大限に発揮する姿は、賞賛すべきだろう」
ワアアア──と歓声に包まれる中、同意を求めるようにソフィアの顔を覗き込んだアイザックは、彼女の瞳に、いつもの哀しい陰りが写りこんだような気がした。
「ソフィア、やっぱり、さっき倒れたときにどこか──」
「お二人とも、いよいよ始まりそうですよ」
アイザックの左隣にいたフィデルが声をかける。
「ああ」
「──それでは、とくと、御覧にいれましょう!!」
アイザックとソフィアは舞台に集中するために正面へと向き直る。
次にソフィアの方へ目を向けたとき、彼女はいつもの、何を考えているか読めない表情に戻っていた。
舞台の周囲では拍手が巻き起こり、アイザックも右手と、義手の左手を叩き合わせた。
「いいぞ!」
「もっと見せろーー!!」
奇術師が口から火を噴き、舞台に置いてあった藁の塊を一瞬で丸焼きにした。
見世物は中盤に差し掛かり、観客は熱狂を増してきた。座敷でも、立ち上がって喝采を送る者がチラホラといる。
「これはなかなか、今まで俺が知ってる中でも中々のものじゃないですかね」
フィデルが感想をもらした。
「ああ、今のは少し火力が強すぎて天幕に燃え移るかと心配になったが」
奇術師の吐いた炎は、アイザック達観覧席の上に釣られている日よけの天幕ほどの高さまで届いていた。
アイザックは右袖を引かれて何事かと、横を向くと、ソフィアがもの言いたげに筆記版を差し出した。
『お楽しみのところ大変申し訳ないのですが、外の静かなところでお話があります』
「ソフィア……今いいところなんだ、終わってからでも構わないか?」
見世物にはまり込んでいたアイザックは、僅かばかり苛立たしさを込めて言い返した。
加えてこうも周囲が騒がしいと、声量も自然と怒鳴るような形になってしまう。
ソフィアは引き下がらず、首を大きく横へ振り
『緊急の要件なのです。フィデルも』
と大きな文字で書き綴った。
「緊急って……」
よく見るとソフィアは、何かに怯えているようだった。ここまで警戒している表情を浮かべるのは、屋敷に来たての頃以来か。
アイザックは、彼女の表情から緊急度を感じ取り、渋々ながらも隣のフィデルにも合図をやって、観覧席を離れた。
「どこまで行くんだ、これくらい離れればもう静かだろう?」
アイザックの服の裾を掴んで、ソフィアはズンズンと前へ進んでいく。
「そうだぞ、ソフィア、あんまりアイザック様を引っ張るなよ。バランスを崩す」
訳の分からないままについてきたフィデルに言われ、ソフィアはやっと足を止めた。
振り返った彼女は真剣で、かつ顔色が悪かった。
「それで、緊急の要件というのは──?」
アイザックは、まだ見世物に未練があったので、要件が済んだら元の席に戻るつもりだった。
『────』
要件が差し迫っていると主張する割には、ソフィアは、しばらく筆記版に何も書こうとしなかった。
まるで、書くべきことを忘れてしまったみたいに。
『申し訳ありません。やはり先ほど倒れた際に頭を打ったのか、ひどく具合が悪いのです。騒音を聞くと耳鳴りがします』
「──あ──そうか。それはよくないな。診た方がいいか? こういうのは外傷では分からないことが多いんだが……」
『いえ、外傷はないと思います』
「そうか、それならしばらく座って休んだ方がいい」
『────』
ソフィアは、まだもの言いたげな顔をしている。
アイザックは大きくため息をついた。
「ソフィア、何か言いたいことがあるのなら、教えてくれなければ分からないんだ」
『──────』
「アイザック様、見世物をご覧になられていたのではないのですか? どうしてこんなところに?」
会話に割り込んできたのはパルムだった。
「ああ、パルム、ちょっとソフィアの奴が調子が悪いんだそうだ。お前こそ、どうしてこんなところをまだうろついてるんだ?」
フィデルが答えた。
「買い付けが終わったし、嫁さんに買っていくものを物色してたんだよ。今なら見世物に人が集まっていて空いてるしな。そしたらアイザック様たちがこっちの方を歩いていくのを見たのさ」
パルムは包みを小脇に抱えていた。
「パルム、用事が終わっているのなら、悪いんだが、ソフィアの様子を見てやってくれないか。少し休んだ方がよくて」
「? いいですけど──?」
「見世物が終わったら戻ってくる」
アイザックはフィデルと共に立ち去ろうとした。
アイザックの袖がまたしても捕まれる。
「──ソフィア! どうしたんだ、一体」
──刹那
轟音が広場から聞こえてくる。
続いて人々の悲鳴。
最後には中心部からアイザック達のいる方へ人が走ってきた。
「なんだ……広場の方からか…!?」
「あんた! あっちで何があったんだ?」
パルムが流れてきた人々のうち一人を捕まえて事情を聞いた。
「それが、よくわかんないんだよ! 見世物を観てたら突然貴族様達の観覧席が崩れたんだ! とりあえず怖くて逃げたんだ!」
「──観覧席?」
「アイザック様……それって」
アイザックは隣にいたフィデルと、思わず顔を合わせた。
そこは、わずか前まで自分たちが座っていた場所なのだから。
「────」
「──────」
馬の蹄鉄が石畳を踏む音と、馬車の車輪が回る音だけが聞こえる。
アイザックは、馬車の中から移ろいゆく外の景色を眺めていた。
──あの後、パルムが広場近くの様子を見に行った。
アイザックたちが座っていた観覧席が崩れ落ちていて、広場は大混雑になっていたという。
幸い、見世物を見ていたシャーリーたちは観覧席から離れた場所で見ていたようで、怪我一つなかったと、後で合流した時に知った。
観覧席に座っていた人々と、近くにいた者たちが巻き込まれて怪我を負ったという。
アイザックは怪我人の手当てをしたいと主張したが、混乱している人込みの中で、アイザックの身体で動かれては逆に危ないとパルムにたしなめられた。
ソフィアも本当に具合が悪そうな顔色をしていたのもあって、救助は駆け付けた警備の兵士たちに任せ、一行は帰路の最中だった。
「それにしても、運がよかったですね」
無言で馬車を進めていたフィデルが、独り言のように呟いた。
フィデルの背中のところには、窓が取り付けられており、丸まった背中がよく見える。
「──ああ、そうだな。ソフィアは具合が悪そうだから、助かった、というのはどういったものだろうがな……」
馬車の外の路上では、広場での出来事などなかったように、日常生活が営まれている。
「──そうですね。ソフィアは、大丈夫なんですか?」
アイザックは正面に座っているソフィアに視線を移す。ソフィアは、視線に気がついたようで、こちらを見つめ返し、頷いた。
「本人は、一応平気らしい」
「そうですか……」
フィデルは、肩を少し震わせると、また無言になってしまった。自分たちもあのまま座っていたら、と考えるとぞっとする。
「────」
再び沈黙が訪れてしまった。
何も話すことがないと、広場での様子はどうだったのか、怪我人はどれくらい出たのだろうか、など不安なことばかり考えてしまう。
「その獣、運がよかったな」
アイザックは、ソフィアが膝に抱えている籠を指さして言った。籠の中では、疲れたのだろうか、獣が丸まっている。
ソフィアが首をかしげる。
「ソフィアに買われて、運がよかったと思って。もしかしたら、あのまま誰にも買われないでいたかもしれないから」
もし、もしも、あの奴隷商でソフィアが買われていなかったら、彼女は、他の誰かに買われていたのだろうか?
獣とソフィアをどうしても重ねてしまう。
ソフィアは、愛おしそうに籠の中を覗いた。
「帰ったら、たっぷり餌をやった方がいいのかもしれないな。名前──とかはつけないのか?」
ソフィアは、しばし馬車の天井辺りを見つめた後、筆記版を取り出した。
『ウルルです』
「ウルル、か。いい名前だ。でも、そのためには毛を洗ってやった方がいいな」
ウルルとは、第三古語で『白』を意味することばである。
ソフィアも同意して、檻からはみ出している毛先の部分を軽く撫でた。ウルルと名付けられたその生き物は、特に反応しなかった。
それとも、俺ではない誰か他の主人に買われていたのだろうか。珍しい外見だからと、娯楽用にと、安いからと、労働力にと、利用されたのだろうか。
誰にも買われず、あの檻の中で、息をひそめ、処分されていたのだろうか。
──そもそも、どうして俺が買わなかったら彼女は悲惨な目にあっていただろうとみなすのは、間違っているような気がする。
他の、主人に、気に入られて、それなりに待遇のいい扱いを受けていた可能性だってあるのに。
そもそも、俺のしていることは何なのだろうか。奴隷だって人間だと、勝手に俺が謡って、扱って、自己満足に浸っているだけなのかもしれないのに──?
『────』
『私も、運がよかったのです』
「ああ、今日は本当にそうだったな」
考えを巡らせている間、差し出された紙に書いてあった言葉を読み、アイザックは、広場での出来事かと思った。
ソフィアは瞼を伏せ、ゆっくりと首を横へ振った。
『私を買ったのが、アイザック様だったのですから。他人の痛みが分かる方で貴方に買われたのは、幸運でした』
「君を買ったのが私でよかったと? それに、痛み? どういう意味なんだ」
アイザックはソフィアの言いたいことがいまいち分からないままに、聞き返す。
『貴方は、他者の感じる痛みが分かり、そして、その痛みを、自分のことのように感じ、相手を想うことのできる方ですから。そのような主人が私を買ってくれて、幸運だったのです』
「他者の痛みを想像することくらいなら、誰でもできるだろう? 別段特別なことでもない」
相手が怪我を負っていたら、その傷から痛みを想像する。そんなこと、あたりまえのはずだ。
『いいえ。相手の痛みを想像するためには、相手への何らかの興味が必要です。そして、それを自らの痛みのように感じて、相手を助けようとする行いは、さらにもう一歩踏み出さねばいけません。痛みを想像することと、癒そうとすることは全く別物なのですから』
「他人に共感することと、共感したうえで、何とかしようと行動することは、別々のことだと、いいたいのか? その……路上の乞食の空腹具合を頭の中で想像するのと、考えたうえで実際にパンを与えることは違う……と」
とっさに乞食の例えが出てきたのは、馬車が路上で金銭や食料を求めてくる乞食の前を通り過ぎたからだ。
ソフィアは、生徒が適切な回答をしたときに、正解だとほめる教師のように、頷き返した。
『そのように考えていただいても構いません』
「けどソフィア、私は──いや──俺は、そんなに立派な人間ではないんだ。もし相手の痛みに共感できて、助けようとしたいなら、もっといろいろなことをしているはずだ。孤児院を建てたり、慈善活動をしている貴族だったら、他にもいる。教会は、誰に対しても救いの門を開いているじゃないか。俺は──」
今度は、正解を当てられなかった生徒が、あまり落ち込まないようにと、控えめに間違いを指摘する教師のように、彼女は首を振った。
『人一人では全ての人々を助けることなど到底できません。可能なことは人それぞれです。共感する相手は人によって異なりますし、助け方も無数にあります。けれども、行動を起こすには、まず他者を助けようとする意志が必要です。貴方には、その意思がある』
「まずは意志がなくてはならないと?」
『そうです。それは尊ばれるべき、貴方の性質です。貴方の意志は、常人のそれより、少し強く、より多くの人へ関わろうとする』
「性質だなんて大げさだよ。それに、俺が奴隷商に行ったとき、君たちの代わりに、買われなかった人々はいたんだ。俺が自分の意志で、君たちを買うことを選んだのだから」
『だから私は運がよかったと言ったのです。どんな理由であれ、私は貴方に買われたのですから。少なくとも、貴方に買われて運が悪かったなどという奴隷は、屋敷にはいないでしょう』
ソフィアにしては、饒舌だと、この時アイザックは思った。広場での事故の件で、彼女も感情が高ぶっているのかもしれない。
「────他人の痛みが分かり、助けようとする意志がある……か。そんな風に言われたのは、初めてかもしれないな」
優しい人だと、屋敷を束ねる貴族の主人として立派だと、アイザックの行動を評価する人々は、過去にもいた。
けれども、アイザックにはどうしてもその「ことば」が、しっくりと当てはまらないような感じがしていた。身に余ると言った方が正しいのか。
人から言われるほどに大層なことをしていない。屋敷にいる人々に、普通に──この場合の普通は、アイザックが考えている普通だが──接しているだけ。知り合いに義肢が必要な人がいたら、与えているだけ。
それを、彼女は、アイザックの意志だと言った。意志をもっていることが、アイザックの性質なのだと。その「ことば」は、アイザックの胸の内にある、「何か」を、説明できているような気がした。
「ありがとう、ソフィア。俺も、君に出会えて、運がよかったと思うよ」
『礼を述べるのはこちらの方です、アイザック様。私を買っていただき、感謝しています』
普段だったら、自分のことは語らず、事実だけ述べて終わるはずの、彼女の筆記版は、さらに続いた。
『私には、他人の痛みを想像することはできても、貴方のように助けようとすることはできませんでした。ただ、眼だけを開いて、世界を見ていた。誰かに命令されなければ動きもしない、モノでいることを選んだのですから』
モノでいる──サヘルの店でのやり取りのことだろうか?
『これからも、アイザック様の御側で働かせていただきます。この仔の分だけでなく、それ以上に。』
ソフィアは、ウルルの籠を指しつつ、書き記した。
フィデルにウルルの代金を借りてしまった以上、彼女は働かなくてはならないのだが、彼女のことばには、主人に仕える奴隷以上の、自分の意志のようなものが、感じられた。
「──こちらこそ、よろしく頼むよ。それに、サヘルの店での時や、今みたいに、君が考えていることを教えてほしい。俺一人で考えていると、一体自分がどこにいるのか、何をしているか分からなくなってしまいそうだから」
『教えるとは、いったいどういう意味でしょうか』
「君の目で見た世界、君の考えている世界を知りたいんだ。思ったことを書き知らせてくれればいい」
『私のような一奴隷が見た世界など、アイザック様とって、取るに足りないかと思われますが、アイザック様が命じられるのならば、お伝えします』
あくまでもソフィアは、奴隷という立場をこえないつもりのようだった。アイザックは頭を振った。
「違うんだ。これは主人として頼んでいるんじゃないんだ。ましてや、君を道具のように扱ってのことではない。君を、一人の人間、ソフィアとして、思ったことを話すだけでいいんだ」
『アイザック様は、私を人として扱うとおっしゃられるのですか?』
「そうだ。──……もともと、君たちを対等に扱っているつもりなのだけどね。現実はなかなかうまくいかないな」
アイザックは一旦、言葉を切る。
「サヘルの店でも言ったが、君は、道具なんかじゃない。モノであるはずがない」
ソフィアの目を、正面から見据えた。
彼女が逃げてしまわないように。
碧色の光に向かって。
「たとえ、君が自分を道具だと見なしても、俺は君を人間だと呼び続けるよ」
『────』
ソフィアは俯いてしまった。
──先ほど、ソフィアが今は饒舌だと思ったが、俺も相当饒舌だ。やはり、広場での騒ぎに神経が高ぶっているのかもしれないな──アイザックは、右手で頬のあたりをさする。
『お気持ちはありがたいのですが、私には、奴隷の身分が相応しいのです。奴隷として、アイザック様に仕えさせていただければ、それで十分過ぎるのですから』
「ソフィア、奴隷が相応しい人なんて、どこにもいなんだ。 それに、ある程度働いてくれたら、君にも腕輪を与えられる。そうしたら、どこへだって好きなところに行っていいんだ。これは、俺の意志で決めたことなのだから」
『腕輪をいただいたら、どこかへ、行かなくてはなりませんか』
かろうじて、返ってきた答えは、疑問だった。
「そういう訳ではないけど、君くらいの若い者たちは、大概どこかへ行ってしまうからな。多くの者は、帝都周辺に留まるが、中には生まれ故郷に帰りたがる者もいる。君は、どこか行きたいところはないのか?」
ソフィアは、筆記版を長く見つめた後、何かを短く書きつけたが、それをアイザックに見せることはしなかった。
「──まだ決まってなくてもいいんだ。残念ながら、腕輪を与えられるのはまだしばらく先だし、時間はたっぷりある」
アイザックは、彼女の沈黙を、思案と受け取った。
馬車が止まった。いつの間にか、屋敷に着いたようだ。
「アイザック様! ご無事でしたか! 」
屋敷の前に着くなり、マイセルの声が聞こえてきた。
アイザックは窓から顔を出し、
「ああ、私の屋敷の者はみんな無事だよ。運よくね」
「それは一安心でございますよ。市で事故があったと近所の者から聞いて心配しておりましたからね」
後続のパルム達の荷馬車も到着し、荷下ろしやら心配した人々やらで、屋敷の前はにわかに騒がしくなった。
アイザックは馬車から降り立つと、まだ中にいるソフィアへと振り向いた。
「ソフィア、もし、体調が平気なら、今日買った書籍類を書斎の方に運んでおいてくれないか? それが終わったら、今日はもう休んでくれて構わない。テオ、ソフィアの手伝いをしてやってくれ」
ソフィアは頷き返し、馬車に積んであった書籍を運ぶ作業に移った。荷馬車に乗っていたテオは、ソフィアについて書籍を運んでいた。
アイザックは確認すると、マイセルたちとの会話に戻った。そのあとは、屋敷中の話題は、市で起きたことで持ちきりになり、ソフィアと二人で会話する機会は訪れなかった。
ソフィアの筆記版には、一つだけ、語られなかったことばが残っていた。
書庫での荷運びを終えた、ソフィアは、改めて紙に記されたことばを見つめると、その頁を大きく破り、丸めると、屋敷の片隅にある、火種用の窯の中に捨ててしまった。
紙に火が燃え移った一瞬、丸めていた紙が外側へ大きく開き、中に書かれた文字が見える。
「故郷」と書かれた紙は、あっという間に燃え尽きた。誰にも知られず、誰にも読まれず、灰燼と帰した。
その夜、アイザックは今日仕入れたばかりの書物を、一人読み漁っていた。
昼間の出来事で疲れていたのだが、どうにも神経が高ぶって眠れないので、こうして、ベッドの上で読みふけっていた。
せっかくなので、サヘルがくれた北の見聞録を読み始める。
アルケミア帝国が座する南の大陸からはるか北方には別の大きな大陸がある。
そこには、南とは全く異なる文化が発達してる。かなり大きな国があるが、アルケミアとは地形的に隔たりが大きく、今のところは、時折交流がある程度である。
半分娯楽向けに作られた見聞録のため、内容の半分は誇張されているような内容だった。
熊よりも大きい蜥蜴、雪の中でも消えない焔や、洞窟に住むという小さな人間たち、不思議な力を持つという、銀の髪と碧い瞳の森の住人──アイザックはその頁で手を止める。さらに詳しくその頁を読む。
──西の奥深くの森に隠れ潜むシルレゾル人は、銀の髪と碧い瞳を持っている。
彼らの瞳には魔除けの力が宿っているため、魔物や災害が巣くう西の森でも、危険を察知して生き延びられるという。彼らの眼球は、所有者を護る厄除けとして、とても高値で取引されている──
「……」
普段ならばこのような記述など、よくできた作り話だと意に介さないのだが、今日は違った。
銀の髪と碧い瞳、ソフィアの外見そのものだ。彼女の風貌が珍しいのも、彼女か、彼女の両親が北大陸出身なのかもしれない。
それに、後半の記述──瞳に宿るという魔除けの力──今日の市での崩落事故。
運が良すぎるにもほどがある。
改めて思い返せば、今朝の書庫での一件もある。本棚の上の彫刻が落ちてきた時も、彼女はまるで予測していたみたいだった。
「危険を察知する力……か」
そんな魔法みたいな力、あるわけないと断言したいところだが、書物の記述と、今日の出来事が偶然の一致とも思えない。
読み書きができたり、第三古語まで知っていたり、さらに、また彼女への謎が増えてしまった。
明日にでもソフィアに尋ねてみたいところだった。
けれども、彼女の過去を尋ねるときの、あの何かを耐えているような、苦しい表情を知っているアイザックは、問い詰めることが憚られた。
──もう少し、様子をみてみよう。害があるわけでもないのだし──アイザックは、そう、決めた。
急に緊張が抜けてきたのか、眠気がやってきた。
アイザックは本を傍らに置くと、寝具の中に潜り込んで眠ってしまった。
その時のアイザックはまだ知るよしもなかった。彼女の瞳が持つ力の、本当の意味を。
第三章 了